第6話 和平交渉

 無怖公の援軍にすっぽかされたルーアンに、もはや抵抗する力は残されていなかった。それは即ち、ヘンリーがノルマンディを完全支配下に置き、フランス、ブールゴーニュと肩を並べる領邦君主になることを意味している。


「籠城の痕は、見慣れるものじゃないね」

 明け渡された街を共に視察して、ハンフリーがぽつりと言う。アルフルールも悲惨だったが、ルーアンのそれは規模が違った。

 トマスはすぐに食糧を届けさせたが、真冬の寒さに暖も食べ物もなくガリガリに瘦せ細った死体の数は増える一方だ。


 ルーアンの知事に任じられたハンフリーが最初に行ったのは、街から追い出されて堀の中に留められたまま朽ちた人々の埋葬であった。ヘンリー自らも祈りを捧げた。

 これから行政府が置かれ、本格的にノルマンディの統治が始まる。


「本当なら、ヘンリーはこのままパリを攻めたかったんだろうけど、諦めざるを得ないよね」

 ハンフリーは軽い気持ちで言ったのだろうが、ルーアン攻めの野営生活でボロボロに疲弊したトマスのかんにさわる。


「俺に死ねと言ってるのか? 冬の野営がどんなものか知らないお前が?」

「うそうそ! オレの勝手な予想だって。いくらヘンリーだってそこまでは———」

「うるせぇ! 俺だってヘンリーの思うことくらい分かってんだよ!」

 終盤戦になってからやって来たハンフリーの尻を全力で蹴り飛ばして、トマスは温かく乾いたシーツの中で、これでもかというほど眠った。


 そんなわけで、武力ではなく兄ヘンリーと弟トマスの外交努力が実を結んだのは、春になってからだ。パリの南東43マイル(70㎞)のフォンテーヌブロー城で、和平交渉となった。

「全員大集合だな」


 提唱者はブールゴーニュ無怖公。居るだけで圧を放つ存在感に、がっはっはっはっ! と大音響のバリトンで場を制する。トマスは初対面だったが、狡知がそのまま人間に化けたような顔つきと深い沼のように底が見えない目には、魔物が棲んでいると感じた。


 フランスからは、病床の王に代わり王妃イザボーと王太子シャシャ、王女カトリーヌだ。

「王太子のルイとジャンが相次いで亡くなって、今のフランス王太子は末子のシャシャか」

 長い前髪で半分顔が覆われた少年は、顔を上げようともしない。


 会談に臨むヘンリーは、編み込んだ髪型から黒い衣装の末端まで、弟から見てもクソがつくほど決まっている。部屋に入った途端、無怖公を除いた全員が息を飲んだのがトマスには分かった。無怖公が爆音声でどんなに場を支配しようと、精神的な中心に居るのはヘンリーだ。

 初日は三邦の代表者が揃って、顔合わせと会食である。


「あれがフランス王妃イザボーね」

 精神病の夫を放置しあらゆる男と浮名を流す、フランスきっての悪女。十二人産んだ子のうちどれが王の種か分からないと揶揄やゆされながら、もう四十八歳である。人生四十年と言われるこの時代、とっくにお迎えが来ていい年齢だ。

 一体どんな妖怪が現れるのかと怖いもの見たさでトマスは楽しみにしていたが、その容姿は全く崩れていなかった。よく見れば下がった口元や腰回りの肉付きに貫禄はあるが、それを覆ってしまえるほど深く柔らかな物腰に、抗いがたい魅力がある。


「あんな女性は初めてですね」

 モーも感嘆する。

 話し方や表情に天性の華やぎがあり、ついつい引き込まれては包まれるような安らぎを感じる。自然と胸の内を打ち明けてしまいたくなる心地よさがあるのだ。ついでに揺れる豊乳も隠さない。


「十代の可憐さ、二十代のつやと華やかさ、三十代の色香、四十代の包容力、全てを併せ持つ女だな」

 事実、初日の会食を主動したのは王妃だった。

 そこまでは良い。だがこの女はあろうことか、ヘンリーにまで色目を使ってきたのだ。


「無怖公より勢いがある若くてイケメンの方に乗っかりたいんだろうけどさ、歳を考えろってんだエロババア」

 宿泊部屋に戻るなり、王族にあるまじき口の悪さのトマスだが、今日のモーは咎めない。


「ヘンリー様はカトリーヌ王女へ求婚しているのに、その横であの視線ですからね。実の母親なのに」

「で、あの女、無怖公ともデキてるよな。しかも昨日今日の関係じゃなく」

「ええ。そもそも敵同士のはずなのに、恥知らずにも程がありますよ」

「え、そうなのか?」

 きょとんとするヘンリー。二人は白い目を向けた。


「あの粘っこ~い絡みつくようなアイコンタクトに気付かなかったの?」

「全っ然」

「鈍感にも程があります」

 あっけらかんとしたヘンリはー「そうか二対一か、まいったな」と笑う。

「でもさ、カトリーヌ超かわいいじゃん」

「私も驚きました。普通肖像画は美化されてるものですが、実物の方がずっとお綺麗でしたね」


 母が大ぶりの牡丹ぼたんなら、娘はつぼみがほころび始めた白百合だ。母親とは対照的に一言も喋らなかったのが、逆に興味をそそる。

 しかしこれにもヘンリーは「そうだな」と笑うだけだった。


 交渉は平行線をたどるばかりで、実務者同士が連日折衝を続けるが、妥結点を見いだせないまま日程を消化していく。領土割譲、王位請求、王女との婚姻に多額の持参金と過大な要求をしてくる侵略者に、フランス王家は徹底抗戦の構えだ。

 イングランドは、ヘンリーの政策の実行者ボーフォートが奔走するが、成果は得られぬまま特徴的な柿の種のような顔が細長く痩せてしまった。


 そして何より、二週間経っても三週間経ってもヘンリーはカトリーヌへ挨拶しかしない。業を煮やしたトマスとモーはその日の予定が終了するなり、ヘンリーの部屋に押し掛けた。

 せっかくお洒落したのに何やってんのもしかしてビビってらっしゃるえっ自分いくつだと思ってんのそのでかい図体は木偶でくの坊ですか云々と、逃げ場なく窓際まで追い詰められたヘンリーは、仕方なく語る。


「だってよう、オレは侵略者で、カトリーヌは犠牲者みたいなもんだ。オレとなんか喋りたくねぇだろ」

「あのねえ、カトリーヌだって王族なんだから、覚悟できてると思うよ。喋りたくないなら、何でわざわざ来たと思う?」

「………」

「ヘンリー様は、肖像画は左横顔しか描かせませんからね。求婚者の顔をちゃんと見てみたいと思うのは自然なことでしょう」

「………」


「気づいてないだろうけどね、彼女、ヘンリーが見てない時にチラチラ見てるんだよ」

「それは、この傷を見てるんだろ。彼女は男嫌いだっていうし、オレは十五歳も歳上でもう若くもねぇし……」

 だんだん小さくなる声に、トマスとモーは顔を合わせて口角を上げた。こんなに眉が下がった兄を見られるとは、なんたる役得だろう。


「勝った方が手に入れる。戦争ってそういうものだろ? 堂々と奪えばいいのに」

「だけどよぅ……」

 トマスの目がきらめく。

「あーそうだよね、思った以上にカトリーヌが可愛いから、汚れきったオッサンは気後れしちゃうよね。じゃあ俺が先に誘っていいんだね? スピーダーの後ろ乗せちゃおっかなぁ。モー、どっか近所でピクニックできるところない?」


「はい、大至急探します。プレゼントも用意しましょう」

「そだね。最初はやっぱ無難にアクセサリーかな」

「………おい」


 その日の夕食後、トマスはカトリーヌを呼び止めた。

「我が兄より言伝ことづてです。明朝、朝食前に庭園散歩はいかがですか。池のほとりでお待ちしています」

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