第4話 エデン
ロンドンの一等地、ウェストミンスター地区。目抜き通りのオックスフォードストリート裏手のアパートメントが、ブラッドサッカーの事務所兼自宅だ。三階をワンフロア全て所有している。
二年前にふと抱いた女が、それを良しとして住みついていた。性格は明るいし事務作業ができるし、家の中のこともしてくれるし気が利くし、まぁいいかとそのままにしている。
夕飯の支度をするニーナの姿をぼうっと眺めながら、考えているのは別の人のことだった。
———アンタ、ヴァイオラはやめておけ。
樹海のようなものだと、シザーリオは言った。それからずっと、ヴァイオラのことが頭から離れない。
会ったのは一度きり、ヘンリー暗殺を
こんなことって、今まで無かった。どうかしてると思う。
その時窓の外に、毛先だけオレンジ色の金髪が見えた気がする。はっとして駆け寄りバルコニーに出るが、誰もいない。ここは三階なのだから、どうかしてる。
「どうしたの?」
振り返ると、優しい口調とは裏腹に、ニーナの顔は何かを察知し警戒している。フランスから帰国して以来、忙しい疲れたと言い訳してろくに構おうとしないのだから、当然だ。彼女は綺麗だし、頭も悪くない。けれど比べてしまう。
「悪いけど、夜が明けたら荷物をまとめて出て行ってくれるかな。今までありがとう」
「……え?」
「これ、当面の生活費」
我ながらあまりに唐突過ぎると思いながら、鍵付き金庫から金貨の入った袋を一つ渡す。これで二年は暮らしていけるはずだ。
鍵の保管場所は彼女も知っているが、袋の中身が減っていたことは一度もなかった。
「ねえ、どうしてなの⁉ 理由を話してよ! 嫌なところは直すから……!」
ああ、彼女に落ち度はない。理想的といえるパートナーだった。
いるはずがない。分かっていて、探してしまう。ウェストミンスター地区は夜でも街灯が灯され、まだ人の往来がある。行く人やすれ違う人の姿を確かめながら、アパートメントの周辺を小走りに曲がる。
しばらく続けるうち、
すると背後から黒い
予感と共に銀色の取っ手を引くと、狭い車内に綺麗な素足が折りたたまれていた。
「ヴァイオラ……」
隣に乗り込むと、蒸気車は走り出す。
「アンタ、ひどいな。あんな言い方じゃ恨みを買うだろう。いつもああなのか?」
「いつもって、やっぱり聞いてたわけ? ヴァイオラ? それともシザーリオ?」
相手は答えないが、ヴァイオラだなと思う。少女のようながら、簡単には踏み込ませない底知れなさがある。シザーリオの方は、もう少し柔和なのだ。
「で、俺はどこへ拉致られてるの?」
「黙っていろ」
「なんだよそれ。人の家のぞき見しておいて随分なんじゃないか?」
「人の気持ちを金でカタつけようとして」
「何だって最後はそういうもんだ。違約金、示談金、賠償金、慰謝金。それが世の中の仕組みだし、最も平和的な解決方法だよ」
「戦で飯を食っているのに平和を語るな、吸血男」
「それは今だけの特需だよ。平和と人々の豊かな暮らしを維持するために、安定的に燃料を供給するのが俺の本来の仕事」
「そして金が好きなんだろう? あそこはいいアパートメントだな、いくらするんだ?」
「そんなこと言って、本当は俺の総資産額まで知ってるんでしょ?」
「浮気相手のこともな」
「……一回だけだよ!」
キィと扉を鳴らし、ランタンを持って小さな建物に入るヴァイオラの後に続く。
「ここは?」
「アタシの部屋だ」
ろうそくを灯していくと、家具がぼうっと浮き上がる。
「こんなボロい家見たことないって顔だな。アンタのところとは大違いだろ」
狭い部屋にはベッドと、小さな
彼女は今までずっとこんな生活をしてきたのだろうか。ブラッドサッカーが言葉を失ったのは、粗末な暮らしにではない。
たぶん、ヴァイオラはいくつか年上だと思う。ちょうどニーナと同じくらいかもしれない。新しく仕立てた服を着て見せたがったり、家の中を居心地よく飾り付けていたニーナの姿を思い出す。
ここは、そういう喜びとあまりに無縁すぎる。
「アタシは異端者だ。アンタの生きている世界とは違う」
ヴァイオラらロラード派への迫害はヘンリー四世時代の遺物だが、終わったからといって異端者の烙印も思想も消えたわけではない。人の目から隠れて生き続けねばならない。
そんな彼らは危険を伴う密偵にはうってつけで、ヘンリーは適材適所を見出したと言える。けれど。
「これが君の生き方なんだな。確かに、俺とは違うし俺には真似できない。けど———」
ヴァイオラの体を引き寄せる。くるんとした長いまつ毛と円い瞳が半分伏せられる。
「寄り添うことならできる。だって…君は寂しいと言ってるじゃないか」
抱きしめた体は思っていたよりもずっと繊細で、この部屋と同じように匂いがしない。首筋に唇を寄せるが、温かさはあるのにまるで透明だった。
「わざわざこの部屋を見せて、俺の気持ちを試したんだろう?」
彼女は、愛を願っている。人の目から逃れる生活を続けながら、どうしようもなく愛されたいと渇望している。
「君が求める相手は誰だ? ヘンリーなのか?」
「そんな畏れ多いことを言うなバカ」
言いながら重ねてきた彼女の唇は少し冷たくて、リンゴのようだ。
「ヘンリー様はそんなゲスい方じゃないと前に言っただろうが」
ワインのテイスティングでもするように、ブラッドサッカーの唇の感触を味わうヴァイオラ。されるがまま、このまま酔わされたいが、その前に確かめておく。
「それじゃジョン?」
「しつこいな」
「俺は個人情報も胸の内も全部暴かれてるのに、このままじゃフェアじゃないよ。君はどう思ってるの? 正直に、言って」
頬を指で撫でると、ヴァイオラはリンゴの唇をほんの少し震わせる。愛しさが吐息となって溢れ出す。
「一瞬だけでいいから、アンタの優しさに包まれたい」
そう言って、服を脱いだ。
夜明けとともに「フランスへ行く。いつ戻るかわからないから、ここへ来ても無駄だ」と言い残し、ヴァイオラは出て行った。
彼女がいなくなると、直前まで抱き合っていたことすら幻のように、部屋からはその存在が一切消えてしまった。
身支度と寝台を整えてブラッドサッカーが外に出ると、すっかり朝だ。
昨晩は暗くてわからなかったが、そこは住宅の間にひっそりと建つ古い小屋だった。外壁は深緑の
蔦に捕われ閉じ込められた。
けれどヴァイオラの心はここにない。どれほどの情熱で抱いても、あるのは透明な体だけだ。
それでも、彼女は居ないと分かっていて、また来てしまうだろう。きっと、探してしまうだろう。樹海をさまようだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます