トマスの章 覇道篇

第1話 フランス姉妹

 アジャンクールでアルマニャック派が大敗し、シャルル・ドルレアンを始めとするほとんどの主力が死亡か虜囚となった。

 にわかには信じがたいが、八年間毎日届き続けたシャルル・ドルレアンの不幸の手紙がぴたりと止んで、本当なのだとフィリップは実感した。


「見てみたかったなあ、戦場のヘンリーを」

 聞くほどに感嘆しかない、見事な采配だった。いや、戦場で対峙するまでに勝負は決まっていたというべきか。情報収集、情況判断、戦略、あらゆる面で秀逸ぶり見せつけてくれた。


「って、あんまり大きな声じゃ言えないか」

 フィリップの元には、アルマニャックの王女カトリーヌが退避してきていた。正確には、姉でフィリップの妻ミシェルを頼ってだ。


 なんとなればブールゴーニュ無怖公、つまりフィリップの父が政権奪回のため、パリのアルマニャック派の残党を攻撃しようとしている。二年前にパリから駆逐されて以来、またとない機が巡ってきたのだ。


 ミシェルとカトリーヌ姉妹の父はフランス王シャルル六世、母は王妃イザボーと

 父親は精神病を発症、母親は愛人との逢瀬で育児どころではなく、姉妹は幼少期を同じ修道院で過ごした。それで今でも仲が良いのだ。


 広い居間で本を読みながら、フィリップは暖炉の前でくつろぐ姉妹の会話を聞いていた。


「羨ましいわ、お姉さまはフィリップ様のような旦那様に恵まれて」

 いきなり飛び出す褒め言葉。口に力を入れて無表情を装い耳をそば立てる。


「フィリップ様のご不在時にはフランドルを統治なさっているのでしょう? それができるお姉さまも、女が政治の場に出ることを支持してくださるフィリップ様も素晴らしいわ」


「統治だなんて、そんな指導力は私にはないわよ」

「そんなことはありませんわ、修道院でもお姉さまはいつも頼りにされていましたもの」

「少しでもフィリップ様のお役に立ちたくて。それに元々領地経営には興味があったのよ」


 ミシェルはフィリップより一つ年上の二十歳だ。悪女として名高い母親の面影はなく、穏やかな性格と聡明な頭脳を持つ、大樹のような人だとフィリップは思っている。


「経営なんてすごいわ。ご自身で学ばれているのでしょう?」

「フィリップ様が書物や学識者を揃えて、学ぶ環境を整えてくださるのよ」

「やっぱり羨ましいお二人だわ」

「でも、ちょっと変わった方よ、私の主人は」


 フィリップは片眉を上げた。まあ、自覚していなくはないが、妻が何を言い出すのか気になる。


「たまに黒い箱に向かってずっと独り言を言っておられたり」

 それはヘンリーと通信しているの。


「黒い服しかお召しにならないし」

 僕には黒が似合うの。朝迷わなくて済むのは効率的だし。


「部屋でお一人で過ごす時は全裸で」

 それ、知ってたんだ。


「でも、それも含めて愛していらっしゃるのでしょう?」

「ええ。ちょっと変わったフィリップ様だからこそ、私のような女ことも認めてくださるのでしょうね」

 褒められたのかどうかよくわからないが、愛していると言われて今度こそ、んふふとニヤけてしまう。


「カトリーヌの結婚相手はやっぱり、ヘンリー王なのかしらね」

 元々、ヘンリーの要求は領土回復とフランス王位、そしてカトリーヌとの婚姻だった。これを王家とシャルル・ドルレアンが叩き返したため、上陸してきたのだ。


「結婚など、誰ともしたくありません。男性なんて……」

 フィリップはちらと目の端で見る。


 姉妹はあまり似ていない。ミシェルは地黒で目や口のパーツが大きくはっきりしているが、カトリーヌは色白で控えめな顔立ちだ。そして身内という贔屓ひいき目を除いてもとびきりかわいいうえ、体に不釣り合いなほど胸が大きい。どう頑張っても見ずにはいられない。


「お母さまのせいよ。胸が大きいだけでどれほど嫌な思いをさせられているか」

 初対面ではまず最初に胸、次に顔を見られる。それから男が一瞬見せる下卑た笑みが、カトリーヌは虫唾が走るほど嫌いだった。体がエロいねと言われるのは日常茶飯事だ。


「やっぱり悪女イザボーの娘だなって」

 二言目にはそう言われる。その後には、もっと偏見に満ちた言葉が続けられるのだろう。


「男なんてしょうもない生き物なんだから、そんなのただの雑音と思えばいい。君が傷つく必要なんて無いよ」

 思わずフィリップは口を挟んでいた。


「それでも嫌だったら、他の部分で男を見返すことだ。よかったら僕の本を何冊かあげようか」

「フィリップ様……。感謝いたします」


 カトリーヌはキュッと口を結んだ。「でも」とか「だって」と言わないところに、フィリップは好感を覚える。


「それとね、ヘンリーは赤が似合ういい男だよ」

「そういえば、あなたは戴冠式で直接お会いになりましたね」

「うん。あの時は大輪の赤薔薇のようだったな」

 勝負パンツの柄まで知っているのは内緒だ。


「私は、顔に傷がある猛獣のような人だと聞きました。アジャンクールの後も、本来丁重に扱うべき捕虜を殺害した悪鬼と」

 カトリーヌはいぶかしげな顔を向ける。相手と意見が違っていてもしっかり主張できるところは、さすがミシェルの妹だ。


「それはやむを得ないことだったと思うよ。多すぎる捕虜を連れてカレーに北上する間に、もし反乱でも起こされたら内側から腹を食いちぎられることにな———」


 その時扉が開いて、何か圧力のようなものを感じた。ミシェルとカトリーヌが先に立ち上がり、深く頭を下げる。


「父上……、なぜ戻られたのですか」

 フィリップも本を閉じて立ち上がる。


「がっはっはっはっはっ! よいぞよいぞ、楽になされよ、お嬢様方。なぜと申すか息子よ、それは可愛い姫に会う為と、決まっているというものだ」

 地声で居間に響き渡る豊かなバリトン。ブールゴーニュ無怖公だ。


「パリへ進軍してアルマニャック派を駆逐するのでは?」

 言ってから、しまったと思う。カトリーヌがいたのだ。


「今、領地にて兵を召集しておる。すまぬなカトリーヌよ、そなたらの安全は保証するゆえ、許しておくれ」

「いえ……、私こそ庇護していただき感謝しております」

 少し引きつりながらも、カトリーヌは何とか繕った。


 父がパリのアルマニャック派へ攻撃を始めれば、巻き込まれるかもしれない。カトリーヌはそれを見越して、あえて敵の懐に庇護を求めたのだ。なかなかの英断である。


「おお、いつまでも居てよいのだぞ。どれ、わしの近くで顔を見せておくれ」

 無怖公はカトリーヌの頬から顎に手を添える。


「美しいそなたとの結婚を、ランカスターの小僧は諦めぬだろうな。よぉし、わしが政権を奪回した暁には、小僧の求婚はわしが退けるゆえ、大船に乗ったつもりでいてよいぞ。がっはっはっはっはっ!」

 豪快に笑う父に口を挟むことなど、フィリップにもできない。


「さあ、今宵は皆で食卓を囲もうではないか。ランカスターの小僧など、そうと気付きもせずわしの手の平に転がされているだけであるぞ! がっはっはっは!」


 今、フランスの震源はランカスターの小僧ことヘンリーと、他でもないこの父なのである。


 フィリップの祖父の代から、ブールゴーニュ公家はフランス王家との縁組と、政敵暗殺という強引な手段で権力を掌握してきた。アルマニャック派との対立は、どちらかが弱れば追放し攻め立てるが、ギリギリのところで和解し、また対立を繰り返している。

 それは両派とも強いイングランドの介入を恐れているからである。父とシャルル・ドルレアンが争い、ちょうど勢力が削げてきた絶妙なタイミングで、ヘンリーは攻めたり、手を差し伸べたり、あらゆる手で介入を試みてきたが、父はいなしながら決定的な態度を避け続けている。


 しかし、ランカスターの小僧など手の平で転がしてやると言いながらその実、父の方がヘンリーに争わされているのではないか。ヘンリーを知れば知るほど、そう思えてくるのだ。


 ブールゴーニュとアルマニャックの争いは、互いの尾を食い合う蛇のようなものだ。だからフィリップにはこの政争は不毛としか思えないし、まだ続けるという父とも一線を引きたい。開戦というくさびを打ち込んできたヘンリーの方が、よほど小気味いい。


 双蛇の片割れ、アルマニャック派の領袖シャルル・ドルレアンをヘンリーが潰した。次に狙われるのは、父ではないのか。

 あれほど大敗してなお一つになれないフランスに、果たして勝ち目があるのだろうか。


 鎌首をもたげた疑念は、じわじわとフィリップの内側を蝕んでいく。

 曖昧な笑みを浮かべる姉妹も、薄々感じているのは同じのようだった。

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