第10話 凱旋

「見えたぞーー!!」

 猪頭亭の二階窓から身を乗り出した猪オヤジが叫ぶ。ジュリアも同じように上半身を窓の外に出した。ロンドンの十一月、白く吐く息に今日は日差しが嬉しい。


 視線の先から、熱狂を引き連れてヘンリーは現れた。


「おめでとうぅぅー! ヘンリー様あああー!!」

「ヘンリー様最高! あたしも戦場に連れってー!」

「見た見た? 陛下と目が合ったわよ!」


 『常勝王ヘンリー』『ジョン様投げCHUして』『トマス様指さして』とか、ド派手なうちわを両手に構える女子たち。


「キャアアアアアアアアッー! こっち向いてトマス様ぁー!」

「ぎぃああああああああっー! ごっぢ向いでジョンざまあああ!!」

「ヘンリー! ヘンリー! ヘンリー!」


 うちわ女子に紛れたおっさんも、老若男女ともども黄色い声も野太い声も次第に一つになり、猪頭亭周辺は割れんばかりのヘンリーコールだ。


 ジュリアも猪オヤジも大きく息を吸う。

「ヘーンリィィーー様ぁぁぁぁ!」

「いよっ! 世界一のいい男ぉ!」


 店の外壁には、『おかえりなさいヘンリー陛下』『祝 大勝利! 俺たちの陛下』と横断幕をでかでか垂らしてある。すると、気付いたヘンリーがこっちを見て、白い歯でジョッキを傾ける仕草をしてくれた。


「わぁ…!」

「イエエェェイ!! 飲もうぜぇ! 待ってるぜぇ!」

 ひときわデカい声で猪オヤジが叫ぶ。


 アジャンクールの戦いで兵力差十倍を覆し大勝したランカスター王家。今日はロンドンで凱旋パレードだ。


 ロンドン橋のたもと、テムズ川左岸のイーストチープからコールドハーバーはかつてハル王子が暮らした街で、ちゃんとパレードのルートにしてくれた。陛下は地元を忘れていないのだと、皆が喜び誇りに感じている。


「うそ…ほんとに飲みに来てくれるなんて…」

 目を丸くするジュリアの目の前に臨場した姿はまさに、妖精エルフの王。

 赤と白を基調にした豪奢なパレード衣装もそのままに、猪頭亭には不釣り合いなほど威風堂々のヘンリーだ。


「久しぶり、ジュリア」

 ジュリアの胸がきゅっとなる。ロンドン中が待ち望むヘンリーが、自分だけに語りかけてくれている。


「うん…、来てくれてありがとう」

 皇太子の頃より少し大人っぽくなって、深みを増した笑顔。嬉しくてときめいて胸がいっぱいになり、涙が出そうだった。


 それから猪オヤジが「オッシャー! 今日は全員俺がおごるぜぇ!」と宣言したので、宴はハイペースで進む。ジュリアも大忙しで、日が傾いて飲み潰れる輩が出る頃になり、ようやく一息つくことができた。


 ヘンリーは、弟二人とモーと同じテーブルで談笑している。ハル王子時代は酔っぱらってよく歌っていた席だ。


「どうしたの、ハル王…じゃなかった、陛下、あんまり飲んでないね?」

「いいよ、ハルで。ここではハルで居たいんだ。猪オヤジの麦酒エールはやっぱ絶品だな」


「ふふ、それね、あたしが作ったんだよ」

「そうなのか? すごいな、全然分からなかった」

「じゃあもっと飲んでいって。ハル様が勝利の美酒に一番酔っていいはずでしょ?」

 ハルは困ったように口元だけほころばせる。


「親友に裏切られたり、身内の親族を処断したり色々あったけど、まだ目的は何一つ達成してねぇんだ。何千人もフランスで死なせてきて、祖国の土に帰してやることもできねぇしな。そいつらに報いる為にも、次こそフランスとイングランドを一つにしねぇと」


 はっとする。熱狂の渦の中で、ハルだけは何一つ喜んでいない。どころか、曇りない目でもうその先を見ている。

 まるで白鳥が飛び立つ瞬間を見ているようで、ジュリアの何もかもがハルに吸い込まれた。


「…あたし、ハル様といるとやっぱりずるい女になっちゃうよ。夫がいるのに、やっぱりハル様が好き。どうしようもなく好き」


 イングランド王が口から麦酒エールを噴き出したり、鼻から垂らすわけにいかない。ハルは王の威厳で堪えたが、代わりに盛大にむせる。


「えーっと、俺たちは席を外したほうがいいのかな?」

 二人して瞳をキラリとさせるトマスとジョン。言葉とは裏腹に、どくつもりなど一つもなさそうだ。


「ううん! そういうのじゃなくて…」

 モーに背をさすられるハルが耳まで真っ赤なのは、咳込んだせいではないだろう。


「ごめんなさい! でも好きなの! そうだ、アップルパイ焼いたの。食べてみてくれる? 上手くできたと思うんだ」

 と、いそいそ厨房に消える。


「ジュリア、やるなぁ」

「『でも好きなの!』だって。いいなぁ〜」

 リプレイして肘を突き合う弟二人。


「結婚生活が幸せな証拠ですね」

 モーが巧みにまとめる。

 結婚前より、ジュリアはずっときれいになっていた。


「お待たせ。あっ、トマス様は後! ハル様が先なんだから!」

 と、ジュリアが頬を膨らませるので、ニヤニヤしながらトマスは手を引っ込める。


 以前はちょっと粉っぽかったアップルパイ。しかし、

「んん、うんめえぇぇー! ホントにこれは美味い!」

正真正銘、どこに出しても恥ずかしくない逸品だ。


「腕を上げたな。これ王宮に配達してくれよ?」

「やったあ! そうだ、配達といえばあたしの結婚式の日、差出人の名前無しで赤い薔薇バラの花束届けてくれたよね? お礼言いたいと思ってたの」

 

 ぎく。


「あと、うちの工場へ間接的に発注かけてくれたのもハル様でしょ? ありがとう」


 ぎくぎくっ。


 ジュリアの夫の一家は、小さな木炭工場を営んでいた。それが王室の火薬納入業者の下請けになり、今では三か所目の工場を開くまでになっている。


「そうだったの? へぇ〜、花束をねぇ」

「ちゃっかり旦那のこと調べ上げたわけ。モーは知ってたんだ?」

「はい。手配しましたので」

 弟たちのニタり(ニヤリ+したり)顔といったら。またハルの顔が赤くなる。


「こっこのアップルパイをハンフリーに持っていってやろうと思う。従ってオレたちは一足先に帰るぞ! モー!」

 公開処刑から逃れようとなんともぎこちないセリフで、国王は大声援に見送られ帰っていった。


 ちなみに療養中のハンフリーはまだ外を歩き回れないためパレードも不参加だったが、食欲と元気は有り余る程だ。


 静かになったテーブルで、ジョンが話す。

「昨日、ジェーンのメンテをしたんだけどね」

 開発者ジョンは全ての相棒AIと会話することができるのだ。


「ジュリアが喜んでくれるなら凱旋パレードをやってもいいとハルは思ってる、ってジェーンが言ってた」


 ハルはパレードに乗り気ではなかった。大勝はしたが、成果はまだアルフルールを手に入れただけで、とても凱旋とは言えないと最初は拒否した。しかし莫大な税金を投入したのだから民と勝利を分かち合うべきだし、次に繋げるためイメージ戦略として必要だと説得され、渋々応じたのだ。


 ジェーンはハルの心の奥底に潜り込める。それは誰にも言えない身勝手すぎる本音なのだろう。


「見ていてほしいのは一人だけか。そんなものかもな」

 トマスはほろ苦い麦酒エールをあおり、それで十分かもしれないなと、小さく言った。

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