第9話 決戦アジャンクール 4
左翼のジョンとビーチャムは、名将ブシコー元帥を討ち取り優勢だったが、右翼側は混戦を極めていた。
大元帥ダルブレとシャルル・ドルレアンの猛攻に、指揮官ヨーク公が戦死した。指揮系統が混乱しあわやというところを、駆けつけたトマスが何とか立て直し、踏ん張ってはいるが、フランス軍の厚みに崩壊するのは時間の問題と、諦めかけた時だ。
その重圧が、ふっと軽くなった。何が起こっているのかとトマスが見回すと、イングランド王旗が空高く掲げられている。
「ヘンリーが自分を
欲深いフランス軍勢は一気にヘンリーの方へ傾いたというわけだ。
———やるべき事は一つ。
「この隙に大元帥ダルブレを、シャルル・ドルレアンを捕るぞ!」
「おおおぅ!!」
イングランド軍は死に物狂いだ。生きるには勝利しか道は無い。勝つためには攻めるしかない。末端の一兵卒まで思いは同じで、敵に散らされても塊に戻り、一つになって向かう手ごたえをトマスは感じた。
「退くな!! 俺に続け! 突き崩せ!」
弾は尽き、矢は尽き、陣形を整える余裕もない。斬った敵の血を顔に浴び、跳ね上がる泥が体にこびりつき、ぶつかあり合うのは体ではなく互いの執念。そんな白兵戦だった。体を削り、命を削り、精神を削り、これが終わったら、自分という存在は何もかも溶けてなくなってしまうのではと思う。
だが崩さなければならない。ここを突破すれば、
「走るぞボリングブルック」
「承知した」
冷たさが太腿から
襲い掛かる敵をかいくぐり、すれ違いざまの勢いで切り裂く。背後に「閣下に続けぇ!」と怒涛のランドが続く気配を感じ、トマスのスピードが更に上がる。
目の前に立ちふさがる重装部隊。
「うおおおおおおぉぉっ!」
突き出される槍の束を、雄叫びとともに跳ね上げる。肩に、横腹に、浅く刃が入る。
のろまな、数だけの軍になど負けるものか。闘気が痛みを凌駕する。
崩れ落ちる敵の体を踏み台に、トマスの体が宙に舞い上がる。
驚愕の表情でこちらを見上げるシャルル・ドルレアンを視界にとらえ、渾身の力で剣を振り下ろす。
シャルル・ドルレアンは受け止めきれず、重たい鎧と共に泥の中に倒れた。
すかさず上から踏みつけ、苦しそうな鼻先に剣を突きつける。
「イングランド王弟、クラレンス公トマス。総大将シャルル・ドルレアンを手中に収めたと、全軍に伝えよ」
それから、フランス軍は散り散りになった。捕らえた貴族の捕虜の数は3千人を超し、ヘンリーは一部殺害を命じたほどだった。
夜明け前から対峙し、ようやく戦闘隊形が解かれた戦場は、紫色の夕空に覆われた。血の匂いに惹きつけられたカラスに混じって、ブラッドサッカーら血の商人が専用の器具で死体から血を抜いていく。
「ここも、あと二百年もすれば立派なプラント用地かな」
大地に染み込んだ血が埋蔵血になり、地血脈ができるには最低でもそのくらいはかかる。ブラッドサッカーが見渡す緩やかな斜面は、地面が見えないほど死体で覆われている。
終わってみれば、フランス軍10万のうち、実に5万人以上の血が大地に
「商売繁盛だな」
「トマス様。ヘンリー様と宿営に戻ったんじゃなかったんすか?」
汚れた顔もアーマーも拭わず、トマスはまだ戦場と共にあるようだった。
「総大将を捕らえたのはトマス様だって聞きましたよ。おめでとうございます」
「お前の世辞なんかいらないよ」
カラスの声が平原に響き渡る。それはこの膨大な死者への鎮魂歌にはあまりに
「仕事が済んだら言え。息がある奴はまとめて燃やす」
「動けない残党を運ぶくらいなら、我が社も手伝いますよ。これだけいると一苦労でしょう」
勝者の戦場には後処理がある。トマスはヘンリーの為に自ら引き受けたのだろう。
「やめとけ、死臭が鼻から抜けずに、しばらく飯が食えなくなるぞ」
「俺も死ぬ思いで働いてるとこ見せないと、ヘンリー様に浮気されちゃうんで」
「今頃ヘンリーの奴さ、シャルル・ドルレアンや捕虜を夕食に招いていたぶってると思うな」
「へ? そういうご趣味の方でしたっけ?」
「『お前ぇら、今日の勝利者は誰だと思う?』って何回も聞くとか、『今の気持ちを四行詩で語ってみろよ』とかさ。ほら、そういうちょっと子供っぽいところあるじゃん」
「ハハッ、そういう感じね」
誰がこんな結果を予想できただろうか。
シャルル・ドルレアン率いるアルマニャック派は今朝まで、不当な根拠で尊大な要求を押し付けるヘンリーを捕虜にして、身代金で億万長者になるという夢に心躍らせていたはずだ。この戦いに参戦していないブールゴーニュの鼻を明かしてやろうと、鼻の穴を膨らませていたのだ。
それが今、彼らの目にはふんぞり返って勝ち誇る悪魔の権現に映っているであろうイングランド王により、フランスを代表する大貴族たちが屈辱的な敗北の証人に仕立て上げられている。
「それにしても、フランス王家は形無しですね」
「王太子ルイか。アルフルールを見捨てた上、この一大事に何をしてたんだろうな」
「なんか、一人奮闘したシャルル・ドルレアンが哀れに思えてきましたよ」
「だな」
ブールゴーニュ無怖公など、この敗戦のすべてはアルマニャック派の責任と、ここぞとばかりに非難するだろう。
「元はと言えば、無怖公がシャルル・ドルレアンの父親を殺害したからフランスは混迷して、こんなことになったのにな」
それはそっくりそのままシャルル・ドルレアン心の叫びだろうなと、ブラッドサッカーは思った。
◇◇◇◇
「なーにしてんだよ、シャシャ」
王太子ルイが背後から覗き込んだのは、弟シャルルの端末だ。画面には理解できない言語が並んでいる。
二人の父はフランス王シャルル6世、母は王妃イザボーとされている。
「兄上。シャルル・ドルレアンは大敗しちゃったみたいだね」
「まったくだよ、役立たずめ。シャシャも逃げる準備した方がいいぜ?」
「ぼくはもう少しだけ、データを待つ」
「データ?」
伸び放題でろくに手入れされていない、半分顔を覆い隠す髪の間から画面を見ながら、シャシャは頷く。
「そういやアランソンになんか渡してたね。でもアランソンは殺されたってよ?」
「聞いた。データさえ回収できればいいんだけど」
「アランソンは王弟の一人を負傷させたらしいよ。ヘンリーにも肉薄したとか」
それを聞いて初めて、シャシャの表情が動く。
「ほんと? 絶対データ欲しい。ねえ、剣を回収させてよ」
「さあな、戦場はイングランド兵が残党掃討と略奪し放題で、回収できるような状況じゃないみたいだよ。それより逃げる準備だって」
「作ってはみたけど粗いんだよ。やっぱりデータが全然足りないんだ。こんなんじゃ対抗できっこない」
「いい加減にしろよ、お前のそういうしつこいとこ、誰に似たんだろうな?」
「ぼくが知るわけないじゃん」
シャシャが口を尖らせると、ルイはちょっと意地悪な顔になった。
「母上も残酷だよな。『お前は父の子ではありません』って言いながら、本当の父親は誰か言わないんだもんねぇ」
「母上本人も分からないんじゃないの。誰だっていいよ父親なんて。王位は兄上のものなんだから、ぼくは好きなことができればそれで満足」
「わかったからさ、ほら一緒に行こうぜ」
と、ルイは宝石の入った銀の小箱を勝手に持ち出す。
シャシャは気にした様子もなく、じっと画面を見つめるだけだ。
「必ず攻略してやるから」
前髪の後ろで、
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