第7話 決戦アジャンクール 2

 突如、雷のような音がした。

「いっいいいいい今のはなんだ!」


 前方のトラムクール側、黒煙が上がっているように見える。なだらかな斜面はイングランド軍の方に向けて低くなっている。その前方を望遠鏡で覗き、シャルル・ドルレアンは目を疑う。


「イングランド軍が自ら前に出てきたと⁉︎ 一体どこから現れたのだ? しかもスピーダー部隊ではない…? いつもと違うではないか」

 なんだ、どういうつもりなのだ。ヘンリーは何を考えている。


 だがシャルル・ドルレアンが考えている間に、開戦の狼煙のろしにいきり立ったフランス軍がスピーダーエンジンの回転数を上げる。こちらは10万の壁なのだ。わずか8000人のイングランド兵など、アスファルトを慣らすようなものだ。


 そうでなくてもフランス軍全体が前のめりになっていた。最大の獲物は国王ヘンリーと三人の弟たちで、捕らえたら身代金をいくらにするか、昨晩からその話題で持ちきりだった。シャルル・ドルレアンと大元帥ダルブレらで考えた軍編成などすぐに崩れ、真っ先に高貴な捕虜を捕らえたい欲望のまま、前へ前へとどんどん押し出してきている。


 前方に向け傾斜しているところへ、前のめりの10万が押し寄せる。これはもう止まれるはずがない。


「いかん、これではヘンリーの思うつぼで!」

 そう言うシャルル・ドルレアンも後ろから押されて前に進まざるを得ない状況だ。


「とととととと止めさせろ! 大元帥はどうした! すぐに伝令を出すのだ!」

「はっ! しかし、ここから動くのも容易ではなく……」

「そっそそそそそそんな事は分かりきっている! 泣き言をほざく場合ではないのだ!」


 大元帥はどこで何をしているのだ? 近くにいるはずと聞いたが?

 全体の趨勢すうせいどころか、後方の状態すら把握できない。周囲を見回して大元帥の旗を探すが、これだけひしめいているとそれすらも容易ではない。

 そうしている間にも、どんどん前に押されている。


「さっき撃ってきた奴らはもう潰したのか———」

 言葉は爆音にかき消される。さっきのトラムクール側だけではない。逆サイドからも煙が上がっている。


「大元帥より伝令です! アジャンクール側にも埋没兵があり、激しい側面攻撃を受けていると。ブシコー元帥を向かわせるそうです」


「いっいっいっいっ言ったそばから!」

 前進して自ら射程内に入るなどヘンリーの思うつぼだと。


「くそうっ、進め! とにかく早く抜けるのだ!」

「止めるのではなかったのですか⁉︎」

「馬鹿者、今ここで止まっては標的になるではないか! 早く進むのだ!スピーダー部隊は何をしている!」

「は、はいぃっ!」


 イングランドの一斉射撃は絶え間ないが、黒煙が流れた切れ目に前方を伺う。望遠鏡を持つ手が震える。

「何をしているのだあれは!」


 両翼に配備したスピーダー部隊は、遊撃のため確かに構えていた。だが動いていない。スロットルを全開にしてもタイヤは泥を捲き上げるだけで空回りし、後ろから二人がかりで押してもびくともせず……。


「ぬかるみにハマったというのか」

 前方、ちょうど両軍の境目の辺りは耕されたばかりの畑だ。降り続いた雨を吸って柔らかくなり、重量級のスピーダーや突入を想定した重装備の兵士の動きが拘束される。


 しかし、イングランド兵はどうだ。飛び出してきた兵は軽装備で、スピーダーには乗っていないではないか。

「始めからヘンリーはこれを分かっていて!」

 特別な能力でもなんでもなく、戦場を調べれば容易に分かることだ。だがシャルル・ドルレアンはそれをしなかった。あるのは、政治だけだった。


 ブールゴーニュ派が参戦していないこの戦いに勝利すれば、アルマニャック派が名誉を一身に手にすることができる。今度こそフランスにおける主導権を確固たるものにできる。だからシャルル・ドルレアンも前のめりの中に自ら身を投じてしまった。

 それを激しく後悔しても、もう遅い。


 両側からの連続斉射音は雨音のように絶え間ない。束の間呆然とするが、弾頭の数には限りがあるはずだ。弾が無くなる時が転機である。

「こちらは10万なのだ。地を揺るがす大軍なのだ」

 ああ、ヘンリーの思い通りにになどさせるものか。


「大元帥に伝令を伝えろ。両翼を散解、相手が弾切れになるまで攻撃をかわせ。塊になってはヘンリーの狙い通りだ。散ってなお、我々には圧倒的な数の利がある」


 しかしそれから五分と経たないうちに、伝令兵が戻ってきた。

「大元帥より伝令です! 両翼が壊滅しました!」

「なっななんあなななぬ⁉」

 

 早すぎやしないか。こちらの指示系統が全く追いついていない。何もできずにただ前へ前へ、動けないスピーダー部隊を…。まるで生贄を差し出したようではないか。


 悪魔ルシフェルのせせら笑いが聞こえるようで、シャルル・ドルレアンの背筋に冷たい汗が伝う。

 耐えるしかないのか。これはイングランドへ滅びをもたらす生贄サクリファイスの儀式なのか。


「閣下、恐れることはありません。私が参ります。ヘンリーに地獄を見せましょう」

 ギラリと毒々しい剣を持つのは、アランソン公。

 それはフランス軍にとって、血路を開くはずの男の名であった。

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