第6話 決戦アジャンクール 1
アルフルールから160マイル(約257㎞)先のイングランド領カレーに向け進発して、十三日が経つ。丘の上に一人でいるヘンリーの姿を認め、トマスはスピーダーを
「トマス。体はもう良いのか」
「心配いらないよ」
短い挨拶を交わすと、ヘンリーが形の良い
「見ろ」
右手にトラムクール村、左手にアジャンクール村と森に挟まれた狭い斜面が広がる眼下、半マイル(800m)程の谷に、フランス軍が布陣していた。うじゃうじゃうじゃうじゃ、まるで大量発生したイナゴのようだ。
「ざっと……10万はいる?」
「だな」
対する自軍は8千人に満たない。道中、遠くに聞こえていた雷の音が、さっきよりずっと近くなっている。ヘンリーは重たい雲をじっと睨んだ。
「今夜から大降りの雨になる。天候次第で明後日か、その次か。野営が長くなれば兵士にも疲労が溜まるし、食糧も尽きる」
というか、ここまでの移動でもう尽いている。
「他に選択はないね」
「敵に捕まるよりは、死んだ方がマシだな」
それは心の底の声なのだとトマスには分かる。
「ヘンリーが弱気になってどうすんの? 8千人が命預けるんだからね。それにこれまで何千人犠牲にしてきたと思ってんの?」
「うぅ……、でもこれ見たらよ……」
身長6フィート(188cm)のヘンリーが小さくなる。
「ここで
「はっきり言いやがるぜ」
「その覚悟で乗り込んで来たんでしょ?」
ここまでヘンリーに言えるのは、トマスとモーだけである。
弱音は全部、ここで吐ききってしまえばいいのだ。どうせ聞いているのは自分しかいない。
「戦のことを考えるといつも怖いし、逃げ出したいよ、オレは」
しかし己の使命から背をそむけることなく、ヘンリーは十三歳から戦場に立ち続けている。並大抵のことではない。トマスは黙って頷いた。
それから雨が降り始め、翌日いっぱい土砂降りが続いた。時折辺りが白くなる程の大雨だったが、夕方になり少しずつ雲が薄くなる。
雨が止んだその夜、イングランド軍は静けさに包まれ、誰もが死を覚悟して眠れぬ夜を過ごした。
翌十月二十五日、まだ暗いうちに全軍へ出動準備が告げられる。
ヘンリーの幕舎には、兄弟四人とモーが集合した。
「体をもがれるようなつらい戦いになる。死ぬなよ」
全員と視線を合わせながらヘンリーは言う。引き締まった表情と鋼の強さを宿した琥珀色の瞳にはもう、弱音は欠片もない。
ヘンリーの布陣はシンプルなものだった。左右から張り出す森の間の狭い場所に、右翼と左翼に若干の厚みを持たせた横一列。
10万の相手に、先鋒を担う右翼を率いるのはヨーク公だ。彼はケンブリッジの実兄で、弟の不祥事を償い名誉を挽回しようと自ら志願していた。
中央にはヘンリーが指揮する本隊。赤地に金獅子の旗の元にヘンリーとモー、ハンフリーがいる。
後陣の左翼は、ウェールズ時代からのヘンリーの親友で歴戦の将軍ビーチャム。
ただし、全軍が歩兵だった。騎兵やスピーダーは一機で歩兵数十人相当になるにもかかわらず、圧倒的に頭数で負けているのにだ。
トマスもスピーダーには乗らず、右翼側の森に改良型ランチャーを携え200人程で潜んでいた。逆側の森には弟のジョンが同じように埋没している。
「シャルル・ドルレアンはこの戦いも短期決戦にしないだろうな」
それでアルフルールでは甚大な損害を
「しかし、フランス側のメンツも
隣のランドだ。高貴な者を挙げればきりがないが、目玉は大元帥ダルブレ、名将ブシコー元帥、そして青地に百合の紋のフランス王旗を掲げる総大将シャルル・ドルレアンと、まさに決戦である。
距離およそ4分の3マイル(1200m)で、両軍は対峙した。
早朝から四時間続いた睨み合いを破ったのはヘンリーだ。トマス軍へ前進の命令だった。
「我々は、前進してきたフランス軍の側面に弾頭を撃ち込むのでしょう⁉ 囮になれと言うのですか! 先陣きって攻撃するような装備ではありませんぞ!」
ざわつく兵士を代表したランドの声は震えている。
前進してきたフランス軍を、埋没させたランチャー部隊の攻撃で相手の出鼻をくじく。それがヘンリーの勝ちパターンで、今回もそういう作戦だった。
しかし持久戦にしたいフランスは頑と動かない。そこで奇襲をかけて強引に引っ張り出そうというわけだ。
「生身でぶつかれと言うんじゃない。肉弾戦をする必要はないんだ。前進し、敵を射程内に捉えてランチャーを撃ち込み、敵が反撃してくる前に退避する」
「敵の面前に姿を
スピーダーに乗らないので、アーマーやプロテクターは装備していない。お陰で体は軽く迅速には動けるが、もし攻撃を食らえばひとたまりもないだろう。
「何のために厳しい調練をしてきたと思ってる? よく思い出せ。辛かっただろう?」
しばしの沈黙。それからランドと全員の表情が引き締まるのに、トマスは口角を上げた。
「俺たちの調練が一番厳しかった。ジョンよりも、ヘンリーよりもだ。スピーダーが無くても俺たちはイングランドで一番走れる。そうだろう!」
うおおおおぉ! と気合の入った声が上がる。
「フランス軍を吹っ飛ばし引きずり出せ! 装填しろ!」
イングランドの常勝パターンは、スピーダーの起動力で敵陣を崩してたたみかける連携攻撃と、飛距離を生かし予想外のところから集中打を浴びせる攻撃だ。
ところがヘンリーは、この得意技を自ら封じてきた。兵力差十倍以上、圧倒的劣勢なこの状況でだ。
「まったく、俺みたいな凡人には考えも及ばないよ」
戦場という大海の潮目を読むようなところが、ヘンリーにはある。トマスには見ようとしても見えない世界だ。
ああ、だからこの体、この命、全部賭けてやる。必ずヘンリーを勝たせる。
「射程内43ヤード(40m)の距離から斉射! 敵の反撃を受ける前に帰還せよ! かかれぇ!」
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