第8話 夜明けとともに

 19870.524847.217126423.5884612.3869———。

 最後の4を押そうとして、ブールゴーニュ公の嫡男フィリップの指が止まる。

 直通コードにアクセスしたからって向こうも必ず応答するわけじゃないだろうし、大丈夫。気楽にやってみればいい。そう言い聞かせるが、脇に額に嫌な汗を感じる。


 4の上に指を置いて、ゆっくり押下げると鼓動がどんどん速くなる。ツツツツーという電子音とともに黒い箱のディスプレイが水面のようにゆらゆらする。

 すると、どアップで映し出されたのは大きな目をした子供の顔だった。


「……誰この子?」

 画面の向こうにはフィリップが映っているはずで、それが喋ったことに子供は目をまん丸にして、更に顔を近づける。

「おにーちゃん、はこのなかにすんでるの? すっごぉ——い! こびと? ようせい?」

「え、っと、ヘンリー陛下はいないのかな」

「へんりー? いるよー」


 よく見ると子供が頭にかぶっているのは帽子ではなく、パンツだ。しかも上下とも服を着ていないビショビショの体で。遠くで「パンツがねぇ!」と叫ぶ大人の声が聞こえる。

「くぉらあっ、リチャード! テメェ人のパンツかぶって何してやがる!」

「なんかね、ピンポンなってたからポチッとしたの。そしたらこびとのようせいのおにーちゃんがきたんだよ」


「そうじゃなくてパンツ返せ!」

「これしょうぶパンツ?」

「ドアホ! どこでそんな言葉覚えやがった!」

 キャーッ! とリチャードと呼ばれた子供が逃げていくと、ドッドドドッ! 近づいてくる荒い足音。画面の右から現れたヘンリーが「ちと待ってろ!」とこっちを指さし、左へフレームアウトしていった。


「……見ちゃった」

 画面越しの姿は堂々たる全裸で、どうやら着替え中のようである。

「勝負パンツは大天使ミカエル柄か。僕は好きだな、うん」

 これがヨーロッパで数人しか知らない直通コードの威力か。うん、ジョンが喉から手が出るほど欲しがるわけだ。それに究極の肉体美を手にすることは神に近づくことだもんね。うん、王なのに鍛錬を怠らないヘンリーは礼讃に値するよ。


「あー、待たせて悪かったな。で、何の用だ?」

 下ろした長髪を拭きながら、パンツを取り返したのだろう、ざっくりした着衣で現れたヘンリーは画面の前でアームチェアに腰かける。

 戴冠式の日は会えなかったが、翌々日の晩餐会でようやく話すことができた。その時はきらびやかな威圧感を感じたものだが、こうして思いっきりプライベートな姿だと印象はかなり違う。


「緊張の初アクセスなのに、なんかもうちょっとないの?」

「そか、そうだったな。会いたかったぜフィリップ」

「……やっぱいい。用ってほどじゃないけど、反乱があったって聞いたからどうしてるのかと思って。フランス侵攻はやめるの?」

「んなわけねぇだろ」

「だよね」


 すると、カンカンカーンカーン! と何かを叩く音がだんだんと近づいてくる。フレームインしたのは、小さなフライパンをお玉で叩くリチャードだ。

「うるっせぇ……、お前ぇは一秒たりとも静かにしてらんねぇのかよ」

 笑うしかないヘンリー。


「ねー、またおんがくかいやりたい」

「話が終わったらな。それまでハンフリーに付き合ってやれ。本気のかくれんぼしたいって言ってたぞ」

「えー! いまがいいー。いーまー」

「今、バケツの水かけまくり大会しただろ? 次はハンフリーだ。向こうにいるから。あいつ、お前ぇと遊ぶの楽しみにしてんだぞ」

「しょうがないなー。はんふりいぃぃー? どこなのー?」


 バケツの水かけまくり大会か。ちょっと羨ましいな。

「あの子誰? もしかして隠し子?」

「処刑したケンブリッジの一人息子だ」

「え。楽しく遊んでどうすんの、幽閉するんじゃないの?」

「しねぇよ。子供に罪はねぇだろ」

「それ、シャルル・ドルレアンにも言ってやってよ。未だに不幸の手紙送ってくるんだから。もうウンザリなんだよ」


 溜め息のフィリップ。フィリップの父がシャルル・ドルレアンの父を殺害したのは八年も前のことだ。以来、ずっと不幸の手紙を送りつけられている。

「八年もネタが尽きねえのはすげぇな! あいつと組んだら音楽でヨーロッパ制覇できる気がするんだよな」

「わけわかんない野望語ってる場合じゃなくない? シャルル・ドルレアンにピンチにさせられたんでしょ?」

「まあな」


 十代からの友人で財務長官のスクループがフランスに買収され裏切ったことは、政権にも精神的にも大ダメージのはずで、ヘンリーは否定しない。

 しかし一方で巧みに情報を操作し、この陰謀から『プランタジネットの正当な後継者を王座に据える』というランカスター家にとっては鬼門の大義部分を排除し、『フランスに買収された臣下が王を殺害しようとした事件』として大々的に発布していた。それにはフランス出航を延期してでも公的な裁判が必要で、がっちり掌握し見事に成功させたのが弟トマスというわけだ。


 結果、イングランド軍は打倒フランスで固く結束した。遠征を阻止しようとしたシャルル・ドルレアンだが、正反対の結果をもたらすことになったのだ。

 なんとまあ、見事な兄弟技というべきか。


「アルマニャック派の陰謀を逆手に取って、さすがだよね。こっちまでスッキリしたよ」

「なんだ、心配してくれてたのか?」

「そんなわけないじゃん。手助けしてあげて弱味につけ込もうと思ってたんだけどね」

「そりゃ残念だったな。なぁ、フランスで会えるか?」

「さあ、父はあんまり参戦する気はないみたいだけど。ところでいつどこから上陸するつもり? やっぱりセーヌ河口? 教えてよ」

「同盟してくんねぇのに、そりゃ言えねぇよ」


 バイバイと手を振る不敵なヘンリー。通信が切れ、黒いゆらゆらが収まるまでフィリップは画面を眺めていた。

 あの男がフランスに上陸してくる。それはまぎれもない嵐になるだろう。

「んふふふふふふふふふふふふふふふふふふっ。楽しみだな」



□■


 八月十一日、イングランド軍1500隻の軍艦がサウサンプトンを出航した。明朝にはノルマンディ北岸、セーヌ川河口のシェフ・ドゥ・コーに到達予定である。

 戦闘開始へのカウントダウンが始まり、船上の一夜は忙しく過ぎていった。

 ブレストアーマー、肩当てと、手早くモーが留めていき、最後に大剣を背中に背負う。


 夜明け前の海は静かで、まさに嵐の前だ。甲板の先に立つと、一本に束ねられたヘンリーの髪が向かい風を受け、蛇のようにうねる。

 鼓動が体に響く。緊張と期待が船に打ち付ける波と一つになり、高揚感がせり上がる。


「見えるか」

 視線の先はもう、目的地を捉えている。

「はい。ついにこの時が来たのですね」

 同じく獲物を捕らえる鷲の目で、モーは答えた。


 やがて東の海が血の色になり、人の顔も船もすべてがその色を映す。水面から朝日が上ると、鏡のように空と海が同時に輝く。

 夜明けとともに金色の光が大陸の稜線をくっきりと映し出し、朝日をたたえたヘンリーの瞳に鋼の力を宿す。


 ———フランス大地。求めるものは今、目の前に。


「手に入れてやる」

 時代が変わる。その砲撃音が響き渡った。

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