第7話 わがまま

 部屋には、母親と引き離された子供が一人ぽつんと座っている。まだ四歳、遊びたい盛りのはずだが、子供らしさをすっかり失って塞ぎ込んでいるようだ。

 部屋に入ってきたヘンリーの姿に身を固くし、目を合わさないよう下を向いた。


「大丈夫だ、リチャード。おまえの母親も無事だからな、安心していい」

 リチャードに合わせて、ヘンリーも絨毯じゅうたんの上に座り込む。

「オレがヘンリーだ。賢いお前のことだから、何があったか分かってるんだな」


「ぼくのことも、ころすんでしょ」

 剃刀かみそりのような幼子の言葉。ヘンリーは脇の下に手を入れ、軽々と抱き上げる。


「ひっ……」

「ごめんな、この顔の傷が怖いよな。けど痛いことも殺したりもしないから心配ないぜ。いい天気だから一緒に外を走ろう」


 抱き上げたまま城を出て、準備しておいたスピーダーバイクに乗せる。

「スピーダーは乗ったことあるか?」

 こくんと頷いて、リチャードが口を開く。

「こんなすごいのじゃなかったけど」


 ヘンリーは笑った。エンジンもパーツも派手さは無いが、洗練の一言に尽きる。ヘンリーにとって唯一贅沢と言えるのがこの世界に一台きりの金属の塊で、それは子供にもわかるらしい。


「ジェーン、超安全運転だからな」

 大剣をスピーダーの側面に据えると、軽快な返事が返ってくる。

「オッケーまかせといて! その子かっわいいね~」


 サウサンプトン市街を出て、海岸沿いののどかな道を走る。今日は日が差して、夏の気温だ。ぬるいのと海からのひんやりした風とが混ざり、二人の額をあらわにする。

「気持ちいいな」


 走りながらヘンリーはあれこれ話しかける。途中、蜂蜜を固めた飴を口に入れてやったとき、リチャードはちょっとだけ微笑んでおいしいと言った。


「ケンブリッジはきっと、お前の成長を見られないのを心残りにしていただろう。その事だけは同情する」

「ちちうえはいってました。あなたはあらしのおうさまだと」

 戴冠式は大嵐に見舞われた。以来、そう呼ばれている。


「他に何か、オレのことを聞かされているか?」

「いいえ」

 ケンブリッジは人として真っ当な男だった。ランカスター家にとって不都合なヨーク家の出自という以外に何ら禍根はなく、個人的にはむしろ好きな方で、この子にとって悪い父でなかったのは想像に容易たやすい。


 リチャードはいつかヘンリーを、ランカスターを恨むだろう。父を殺された。その思いは必ず残る。

 だからといって四歳の子の将来を、たとえ王であろうと他人の自分が今決めることはできない。


 だって、リチャードおじさんは優しくしてくれた。

 それは今でもヘンリーにとってかけがえのない思い出だ。


 かつて政敵ボリングブルック(ヘンリー4世のこと)を追放し、その息子ハルを目の前にした時、リチャードおじさんは『よき息子』と呼んでくれた。それが嬉しかったのだ。


 幼いリチャードに、自分も同じようにしてやりたい。それはリチャードおじさんからもらった恩と愛を返したいというヘンリーの一方的なエゴとわがままで、トマスや臣下の言う通りにここで処刑すべきなのかもしれない。この子にかつての自分の姿を重ねているだけではないか。そう言われれば黙るしかない。

 それでも幼いリチャードを見ていると、何か今までに感じたことのない温かさが沸き上がるのだ。


 海岸線を少し奥に、緑が広がる原っぱでスピーダーを止める。

「よしリチャード、ここで鬼ごっこするぞ」

「……え」


「お前、一生監獄で生きるとか勘違いしてんじゃねぇか?」

 ほかでもない、幼いハルがそうだった。父が国外追放されてリチャードの元へ連れられた時、これから人質として一生幽閉されるのだと思っていたのだ。


「お前はこれから太陽の下で走り回り、たくさん勉強する。貴族の子息として色々身につけなきゃならねぇぞ。真面目にやったらご褒美もある」

「でもぼくはもう……」


 ヘンリーはかがんでリチャードに視線を合わせる。

「なあ、名もなきリチャードよ」


 一度、何もかも失った。それまで当たり前だった日常生活がいきなり遮断されて、時間が無為なものになった。再びエンジンを始動できたのは、リチャードおじさんが優しさと愛情をくれたからだ。


「これからはプランタジネットを名乗れ。オレの祖父じいさんのランカスター公と、おまえの祖父じいさんのヨーク公は兄弟だ。おまえの父もプランタジネット、オレもプランタジネットなんだ。だからオレの息子として、リチャード・プランタジネットと名乗れ」


 この時代のヨーロッパでは、家名を名乗ることはほとんどない。プランタジネットってなに? リチャードはきょとんとする。


「リチャード・プランタジネット。今日からお前の名だ。いいな」

 ヘンリーは微笑んで、それから膝をぽんとする。


「よし、鬼ごっこだ。オレが逃げるから、お前ぇの足の速いところを見せてみろ」

「ふたりで?」

「オレは子供の頃から弟たちに捕まったことがねぇんだ。さーて、お前はどうかな? 五つ数えたら追いかけるんだぞ」


 そう言って駆け出す。リチャードは、いーち、にーい、と声に出して数えてから追ってきた。なかなか力強い走りをしている。


 鬼を入れ替わって、何度も何度も、追いかけられたリチャードが声を立てて笑うまで繰り返した。喉がカラカラになるまで、二人で笑って走って叫んだ。

 それからその晩は夕食を共にし、寝るときは本を読んでやった。父やリチャードおじさんから同じようにされた記憶はないが、そうしたかったのだ。


「父親以上じゃん」

 隣室でリチャードを寝かし付けて一人になると、入ってきたのはトマスだ。


「いつまでそうするつもり? その子はヨーク公の———」

「わかってる。ヨーク家に力を持たせちゃならねぇと、父上が仰っていたんだろ?」

「そうだよ。できるの?」


 トマスは鋭く切り込んでくる。ヘンリーにこんなことを言えるのは、弟たちの中でもトマスしかいない。

 いつかは、決断せねばならないのだ。


「リチャードはモーのおいだ。だからオレにとっても甥っ子なんだ」

 しかし、ヘンリーの口から出たのはトマスの予想を裏切らない言葉だったのだろう。

「わがままだなぁ」

 わざと口調を軽くしてくれた。だからヘンリーも調子を合わせる。


「んなことあるか。わがまま通すのはいつもお前ぇの方で、オレはずっと折れてきたじゃねぇか。デザート半分ちょうだいとか、鬼やりたくないから代わってとか」

「もしかしてずーっと根に持ってたの?」

「今日リチャードと遊んで思い出した」


 二人が共に過ごしたのはヘンリーが十二歳までで、その後はずっと離れていたから、しばしの間懐かしさを無言で共有した。


「……だからさ、ヘンリーは優しいままでいてよ。父親を奪われたリチャードと、義兄を裏切って見殺しにしたモーをまとめて受け止められるのなんて、ヘンリーだけだもん。俺には無理」

 ろうそくの炎が揺れる。窓は閉まっているので、トマスはふっと笑ったようだった。諦めたのかもしれない。


 トマスが、弟たちがいる。それは父母へ最も感謝すべき事だと思った。

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