第3話 浸潤
ロンドンから北に143マイル(230㎞)のコニスバラ城。裏手の樫の木が覆い茂る森に紛れるように男が一人、城の通用口を監視している。
「あれは……グレイ卿か」
いつもと正反対に、洒落っ気など一つもない地味なフードを被ったブラッドサッカーは眉をひそめた。城に入っていくグレイ卿は、かつてジョンが処断し、ヨーク市城門に首を晒されたノーサンバランドに仕えていた。そしてヘンリーの閣僚の一人でもある。
血の卸売商人たるもの、情報は大事な商売道具だ。新しさと秘匿性が高ければ高いほど相手の心を動かすものだから、常日頃からあらゆる方面へ情報網は張っている。そこで浮上したのが、ヘンリーの暗殺計画だった。しかも信憑性はかなり高い。
首謀者はアルマニャック派の領袖、シャルル・ドルレアン。ヘンリーが支援するブールゴーニュ派の一番の政敵だ。どうやらヘンリーに反感を持つイングランド貴族を煽り、反乱を起こそうとしているらしい。その会合が今夜、ここコニスバラ城で行われるというのだ。
この情報を得るにもかなり危険な橋を渡った。ブラッドサッカーは軍事力を持たぬあくまで一般人で、ただの商人だ。なのになぜここまでしているのかと自問しながら、ついには陰謀の本拠地を突きとめ北上してきてしまったのだ。
しかし次に城へ入っていく男を一瞬見て、思わず顔を逸らした。心拍数が跳ね上がっている。
「王室財務長官スクループだと? なぜだ? ヘンリーの腹心中の腹心だよな」
ヘンリーの政策の要は緊縮財政であり、スクループはその立役者だ。反乱に加担しているとなれば政権へのダメージは大きいし、何よりヘンリーにとっては十代からの友人だ。王室相手に商売をしているブラッドサッカーも面識があり、まさか裏切るような人物だとは思ってもみなかった。
「でもってコニスバラの城主は、ケンブリッジ伯。モーの義兄だ」
ケンブリッジは爵位は与えられても所領は与えられていない、つまり名ばかりの超貧乏貴族である。
自身の処遇に不満を持つケンブリッジがシャルル・ドルレアンの支援を受け入れ、王の全てを知る義弟モーと共に暗殺計画を主導した。そして腹心のスクループとグレイ卿をも寝返らせたという予想だが、ブラッドサッカーに疑いはなかった。長年の商人の勘ともいえる。
「仲の良い義兄の計画なんだから、モーが何も知らぬ存ぜぬは無いよなぁ」
しかし、それから一時間以上待っても肝心のモーは現れない。今夜決定的な証拠を掴むつもりだったが、あまり長居するのも危険と判断し、一旦去ることにした。
ロンドンから離れれば電気は通っていないし、夜の街は暗く静まりかえっている。
「何が出てきてもおかしくないね」
そう言ったのは、尾行に気づいたからだった。
足を早めても、その距離はだんだん狭くなる。焦りのまま走り出すと、加速した刺客に一気に追いつかれてしまう。
「ぐっ……!」
腕を掴まれて、振り返りざま護身用の短剣を突き出すが、かわされる。目の前に刃がひらめき、とっさに刺客の手首を掴む。しかし逆の手にも短剣が握られていて、やばいと思うと同時に腹に迫る。
「あぐぅっ!!」
必死で体を逸らすが、かすった。焼けるような痛みに体を折ったところに襲いかかる、強烈な蹴り。
一度では終わらず、顔、胸、と連続で蹴られる。地面に崩れると傷を踏みつけられ、悲鳴を上げる。
星のないベルベットのような夜空の下、刺客の短剣が振り下ろされるのが見えた。
しかし、その後は続かない。代わりに刺客の喉がひゅうっと音を立てて、首から血が吹き出る。
「わわっ!」
勢いよく滴る血を雨のように顔に浴び、前が見えなくなる。血は見慣れているし大事な商品だが、浴びせられるのはいい気はしない。
「走れるか?」
すると、男とも女ともつかない声で腕を引き上げられる。
「この痛さじゃ……無理」
そう答えるなり、ひょいと担がれた。
くそ、何者なんだ。顔の血を拭うが、今度は痛みのせいで視野が極度に狭くなっている。揺れと同時にだんだんチカチカして、暗くなって———。
気付くと、どこか知らない天井が見えた。
「……ここは」
寝台に横たわっていた。チュニックを脱がされた上半身を見ると、腹には包帯が巻かれている。
「痛むだろうが、臓器は無事だから安心しろ」
はっとして声の方に顔を向けると、鮮やかなグリーンのワンピース姿の女がテーブルに座っている。
「さっきと同じ声、てことは君が助けてくれたの? 俺を担いで走って」
「担いで走ったのは弟だ。アタシは刺客をやった方」
痛むが動けないほどではない。腕で支えながらゆっくり体を起こす。
テーブルに座って白い足をブラブラさせている女は、少女のような顔立ちである。しかし色鮮やかなグリーンワンピースから伸びた手足や、服を押し上げる胸には成熟した貫禄があり、年齢不詳だ。
「じゃあ君にも弟クンにも礼を言わなきゃな。命を助けられた」
「あの刺客が狙っていたのは、アンタじゃなくアタシたちだ。アタシたちの仲間と勘違いされて襲われたんだ、吸血男。だから助けた」
「なるほど、俺のことも暗殺計画のことも知ってるんだな。で、君はだれ?」
痛みを堪えて立ち上がると、ゆっくりと彼女の前に立つ。テーブルに座った彼女とは、ちょうど目線が同じ高さだ。
長い
「ヴァイオラ。ヘンリー様の支持者だ」
「支持者? にしては普通じゃないよね。刺客を一撃で仕留めてたし」
ブラッドサッカーが一歩、二歩と近づいても、彼女に警戒する素振りはない。
グリーンの膝丈スカートの下に右手を入れ、付け根の方へ向かいながら指で内腿を掴む。そのまま両膝を割り、更に近寄る。
至近距離で見てもヴァイオラは不思議な魅力に覆われていて、頬に散らばるソバカスすら彼女の美しさを彩っている。
好みだなぁ。そう思うと、右手に感じる肉の柔らかさに吐息が熱を帯びる。左腕で腰を抱き寄せ、鼻が頬に触れそうな距離で囁いた。
「君はヘンリーの女?」
傷を一撃されるかもと思いながら、更に右手を奥に滑らせ、指に力を入れる。
ヴァイオラは得意げに答える。
「先代ヘンリー四世に弾圧されたアタシたちを、当時皇太子だったヘンリー様は助けてくれたんだ。あの方が、助けた弱味につけこんで手を出すようなゲスい男だと思うか?」
「それは君次第じゃないかな。君はとっても魅力的だし、彼だって男だ」
言いながら頭を巡らすのは、ヘンリー四世が発出した『異端者火刑法』だ。
読んで字の如くで、特に強化されたのがロラード主義者(カトリック教徒の一派)への弾圧・迫害である。発端は高い教養と能力を持つロラード主義者たちが、教会批判を強めた事だった。教会批判が即刻体制批判に繋がるのが、政教一致のこの世界なのだ。
それにしても、父王が異端として迫害した者たちを自らの配下に暗躍させるとは。明るみになれば父親との全面対決になったに違いない。まったく、対フランス政策といいロラード主義者といい、父王と真っ向対立してでも己の筋を通すヘンリーの胆力には舌を巻く。
「アタシがヘンリー様の女だったらどうするんだ?」
「そしたらやめとく。彼には儲けさせてもらってるからね、敵になりたくないんだ」
ヴァイオラは綺麗な歯を見せる。
「じゃあ傷が治ってからにしろ、吸血男」
と、裸の胸を優しく突き返す。その仕草も愛らしく、ブラッドサッカーは両手で抱きすくめて離さなかった。むき出しの首筋に、熱い吐息とともに唇で触れる。
「傷が治ったらどう連絡したらいい? 次はいつ会える?」
「アタシの方から出向く。暗殺計画のことは誰にも漏らすな。ヘンリー様を裏切れば即殺すぞ。魔女に見張られていると思え」
「俺は商人だよ。誰の敵でも味方でもないし、誰を裏切ることもない。取引が無くなればそれで終わり。陛下の気分次第で切られる側さ」
「じゃあアンタ、どうしてわざわざ危険を冒してまで、ヘンリー様の為にこんなことをする?」
知性と残忍さを合わせ持つ瞳に頭の中をのぞきこまれる。答えられずにいるとヴァイオラはニコッとして、ブラッドサッカーの口のすぐ横にキスする。強く吸われ、濡らされて、しかしそこまでだった。
するっと腕から抜け出し、出入り口の方を向く。
「自力で帰れるだろう? 近くの街まで送ってやる」
淡々とした口調とは裏腹にその背中には、迫害で多くの同志を失ってきたであろう悲しみと孤独が取り憑いている。
あぁ、そそるなぁ。後ろから抱きつきたい。
「帰れないって言ったら家まで送ってくれる?」
「弟がな」
すかさず答えて、ヴァイオラは出て行く。ドアの外は夜が明けるところだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます