ヘンリーの章 フランス上陸篇

第1話 嵐

 イングランド国王の戴冠式はウェストミンスター寺院で行われる。人を天へ誘うが如くそびえ立ち、堂々と大きく広がる重厚なファザードが伝統を静かに物語る。

 隆とした上半身を裸に、ヘンリーが跪く。その体へカンタベリー大司教アランデルが聖油を塗り、赤の衣を着せると王冠を被せた。アランデルとは、かつてハルがぶん殴った男で間違いない。


 その日は未明から嵐に見舞われた。


 簒奪さんだつ者ボリングブルックの息子の即位を天がお怒りになっている。こんな日は歴史上かつてなく、極めて不吉な予兆だ。

 そんな中傷を一日中うんざりするほど聞かされて、祝宴を抜け出したフィリップはようやく一息ついた。


 薄暗く人気のない宮殿内部はひんやりしていて、静けさの中に暴風雨の音がかえってほっとする。

「ヘンリーに会いに来たのに、すぐいなくなっちゃうしさ」


 戴冠式では遠目に眺めただけたが、所作挙動の一つ一つに華があり、無意識のうちに目を奪われた。

 それなのに祝宴では最初に歓待の挨拶だけして、災害対応とか言ってすぐに引っ込んでしまったのだ。


「どうせ演出なんだろうけどね」

 見たことの無いような降り方をする豪雨に、郊外では被害が出ているという。


 しかしロンドンを東西に流れるテムズ川は氾濫していないし、アスファルトの街は水浸しにもなっていない。フィリップは訪れたことはないが、きっとセーヌ川を擁するパリでは同じようにいかないだろう。


 治水事業はもちろん今日ヘンリーが始めたわけではない。が、そうと分かってなお全てヘンリーの偉業と言って違和感ないほど、妖精エルフの王が降臨したような覇気と威厳を放つ姿に、誰もが魅入られたのは間違いなかった。


 主役不在の祝宴は、父たちが大好きな中傷、噂話、腹の探り合いの祭典である。

「やってらんないよ」


 すると、どこからか人の声が聞こえた気がして、足音をひそめる。

 そっと進んでいくと、それは間違いなく人の声だった。雨風が窓ガラスにぶつかる音に混じって、女の甘い吐息だ。右を見ると、物陰からまろやかなふくらはぎが飛び出している。


 まずいところに出くわしてしまった。しかし十六歳のフィリップは女のふくらはぎから目を離せない。


 それから男女のクスクス笑いに続いて、「じゃあね」と言う男の声が聞こえた。

 とっさにフィリップは振り返るが、だだっ広い廊下が続くだけで隠れられる場所などどこにもない。


 やばい、男の足音が近づいてくる。どうすることもできず、フィリップはたった今通りがかったのを装い、何食わぬ顔で歩くことにした。

 鉢合わせた顔に、息を飲む。


 フィリップの頭の中を支配していたふくらはぎが消し飛び、一瞬で魅入ってしまった。挑発するように人の心を突き刺さしてくるアイスグレーの瞳に、透ける金髪。


 ベッドフォード公ジョン。国王ヘンリーの二番目の弟だ。

 身長がまだ伸び切っていないフィリップは上から見下される格好になる。


「ここで何をしている」

「あ、その、のぞくつもりはなかった。たまたま出くわしただけ」

 取って付けた嘘が通じる相手ではないと瞬時に悟り、先手を打って正直に申し出る。しかし相手の方は別段気分を害した様子はなかった。


「なぜこんな所をうろついている」

「暇つぶしの観光」

「は?」

 ジョンは片眉を上げる。祝宴の場には逆に目立つ、黒すくめのフィリップを全身を下まで眺めた。


「名を名乗れ」

「フランドル伯フィリップ」

「ブールゴーニュ公の嫡男か。観光の目的地はどこだ」

「まだないよ。これから探そうと思ってたとこ」


「ここは関係者以外立入り禁止だ」

「あんただって王弟のくせにこんなとこで逢引してていいわけ? 王が不在なんだから、代わりに働かなきゃならないんじゃないの?」


「おれは機械オタクだからな。そういうのは兄と弟に任せることにしてる」

「なにそれ!」

 ジョンはちょっとだけ歯を見せ、去ろうとする。その顔が思いのほか優しげで、このまま終わりにしたくなくてフィリップは投げかけた。


「音声と映像が伝送できる箱は、あんたが開発したんでしょ?」

 すると、ジョンの顔から笑みが消える。


「なぜお前がそれを知っている」

「もらったんだよ、ヘンリーから」

「嘘を言うな」

「嘘じゃないよ、僕は直通コードも知ってるんだ」


 ジョンの目が丸くなる。

「直通だと……? お前が?」

「んふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」


 ヨーロッパで数名しか知らない直通コードをヘンリーから与えられた。この男の中で今、自分の評価が変わり始めている。さあ、なんて言う?

 ぞくぞくしながら待つと、いきなり胸倉をつかまれて壁にドンされる。


「ぉふっ」

 近くで見る顔はますます秀麗だった。兄弟で同じ形の滑らかで綺麗な額、長く通った鼻梁。へぇ、意外に髭は濃いんだな。


「おい……そのコードをおれに教えろ」

「ふ?」


「おれが設定したのに、ヘンリーの奴、後から勝手に変えやがって!」

「もっもしかして内緒にされてるの?」

「ヘンリーのは特別仕様でセキュリティ最強にしてるから、おれは自分でも破れないんだよ!」


「でもっ、教えたくないのには何か理由があるんじゃ? 本当はあんま仲良くないとか……」

「黙れ! 前に二十四時間こっそり監視したことがあって怒られたけどな、それだけだ!」

 それだよと言いたいが、きっとオタクは聞く耳を持たないだろう。


「さあ吐け」

「あっ、あんな長いの覚えてないし!」

 アーモンド型の瞳を見開いたジョンの息が、顔にかかる。


「嘘つくな! おれをだませるとでも思ってんのか。お前の端末に侵入して履歴を割り出すくらいワケないんだよ。お前のあれやこれや暴いてやろうか? あぁ?」

「あんたに見られるんならいいかもだけど、じゃあやればいいじゃんか! どうせ一回もアクセスしてないもん」


「……アクセスしてない?」

 答えないフィリップに、ジョンの目が鋭くなる。

「フン、同盟について白黒つけない生半可なままアクセスすれば食い殺されると、そう嗅ぎ取るくらいの嗅覚はあるようだな」


 その通りだった。ブラッドサッカーから受け取って、結局一度もまだアクセスできていない。ヘンリーの最終目的は同盟なのだろうが、なぜに父ではなく息子の方なのか理由が分からない。それにいきなり一対一は怖いので、他人の目があるところで話をしてみたくて、わざわざ父に頼んで連れて来てもらったのだ。


 黒衣を掴んでいた手を離すと、アイスグレーの瞳が再びフィリップを見下ろす。突風と共に雨が大きな音でガラスを揺らす。


「ヘンリーは嵐を巻き起こす。アルマニャック派もブールゴーニュ派も、お前らは眠れる獅子を揺り起こしてしまったんだよ」

 イングランド王家の紋章は、赤地に金の獅子。そして玉座のヘンリーには、言葉を発さずとも人を平伏させる、猛獣のごとき凄みがあった。


「けどさ、あんたも油断ならないね。さすがイングランドの懐刀ふところがたなだ」

 映像を伝送できるだけではない。持つだけで最大能力を引き出すという不思議な武器や高排気量エンジンなど、イングランド軍の強さはこの男の頭脳の上にあるのだ。


 そしてこの弟だけではない。四枚のカードが揃った時、イングランドは怒涛の攻勢に出るはずだった。



□■


 同じ頃、ロンドンのとある屋敷で四人の男が密会していた。

「ええ、構いません。私はヘンリーに叔父を殺されました。市中引き回し首を晒すという、大罪人として……!」


「私もです。主君を失いました」

「うむ……、では我らの目的は同じ———」

 三人はイングランド人、もう一人はフランス人である。


「ヘンリーを暗殺しフランス遠征を阻止すること。そして正統なプランタジネットの後継者に王冠を戻す」

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