第9話 ジェーン

 ウェストミンスター宮殿の奥、エルサレムの間。


 父との最後の面会を許されたハルとトマスの兄弟二人が入室すると、苦痛を緩和する効果のある、少しかび臭いような香が焚かれている。これが焚かれる時はもう、後は待つのみということだ。このまま意識を取り戻さないだろうという父の体からは、ほとんど呼吸音がせず、胸の上下も無いように見えた。


 寝台の横には王冠。傍流に過ぎなかったランカスター公家に朝日をもたらした黄金だ。

「だが、これがずっと父上を苦しめてきた」


 父は、王位を簒奪さんだつしたことを後悔していたのではないか。薄々感じながら、ずっと目を逸らしてきた。認めてしまえば、皇太子の己を否定することになるからだ。


「けれど、父上を苦しめてしまったのはオレだ」

 あの時、父ではなくリチャードおじさんの手を選んだから。簒奪者の重荷を共に分かってくれるはずの息子なのに、そばにいなかったから。


 リチャードの傍に居られるなら、名もなきハルのままで良いと思っていた。しかしリチャードも父も、それを許さなかった。


『よき息子ハルよ、お前は皇太子でなければ何者でもないのだ。弟たちを守ることすらできないのだぞ』

『兄弟が一つになれば、どんな毒液にも勝る器となろう』


 二人の父の想いがこの腕の中にある。ハルは王冠を手に取り、父の寝台の横にひざまずいた。

「父上、ご安心ください。私が父上の重石を取り除き、ランカスターの朝日を沈まぬ太陽にすると誓います」


 それからトマスを残して別室に移ると、葬儀や相続の打ち合わせを始める。夜半にはジョンとハンフリーが帰還し、四人揃って最後の面会を果たすことができた。

 崩御したのは翌朝で、奇跡的に意識を取り戻して礼拝の最中のことだった。


 それからハルは三週間を宮殿にカンヅメで仕事をこなし、ようやく帰宅したのは戴冠式の前日になった。最後の荷物を取りに来たのだ。


 居住はコールドハーバーからウェストミンスター宮殿に移すことになっていて、家財は執事レッチとモーに運ばせたが、ハルにも他人に見られたくない物のいくつかはあるのだ。


 蒸気車デッカーの細い窓から、邸宅の前に誰かいるのが見える。もう暗くなる時間に誰だと左目を凝らすと———

「ジュリア⁉ どうしたんだこんな時間に。一人で危ないだろう」


 ロンドンの治安は決して良くない。しかもポツポツ雨まで降り始めて、埋蔵血を原料とするアスファルトからは鉄臭さが漂っている。飛び出してきたハルに、ジュリアは驚いたような、ホッとしたような、後悔したような、複雑な顔をした。


「ハル王子……ごめんね、すごく忙しいの分かってるんだけど、どうしても話したくて」

 そういえば猪頭亭で彼女は何かを言おうとして、聞けずじまいではなかったか。非常事態とはいえ、忘れていたことを恥じる。


「どうしても話したいって、もしかして毎日ここでオレを待ってたのか? いつ来るかも分からないのに?」

 小さく頷くジュリアに、ますますハルの胸が痛む。


「あのね、あたしね、結婚するの」

 更に、胸にナイフを突き立てられたようになる。


 いい仲の男がいると常連客の噂話は小耳に挟んでいた。が、本人には確かめようとしてこなかったのだ。

「……そうか、おめでとう」

 なんとか笑顔を繕って返すが、ジュリアの顔は笑っていない。


「どんな相手なんだ?」

「……普通の人」

「それじゃ分からねぇよ」


 ジュリアは答えない。その代わり、

「あのね、あたし……あたし、ずっとハル王子のことが好きだったんだよ。今だって……」

まるでこれから出撃するかのような顔で言ったのだ。


 考えた。ジュリアを傷つけずに済む方法を。

 けれど見つからなかった。かといって逃げることもできない。反乱を平定する方がよほど容易たやすい。


「知ってたよ。けど……ごめん」

 ハルはこの国の皇太子なのだから、答えはジュリアだって百も千も承知だ。しかしそれでも彼女の瞳は揺れ、唇がわなないている。


「ジュリアのことはかわいいし、大切な存在だ。けどジュリアのために、何もかもを投げ出してもいいとは思えねぇんだ。ごめん」

 ジュリアは首を小さく横に振る。

「平気。王子には、イングランドのために働いてもらわなきゃ困るもん」


 自分の目が半分しか見えなくてよかったと思う。今にも涙をこぼしそうな彼女の姿を両眼で映したら、きっともう取り返しがつかないことをしてしまうだろう。


「ハル王子には他に、そう思える人がいるの?」

「いないよ」

「ほんと?」

「本当だ」

「よかった」

 目尻をぬぐいながらジュリアは無理に口角を上げた。


「あたしね、叶うはずがないって分かりながら、ずっとハル王子に憧れてた。酔った勢いで一回くらい間違いがあるかもしれないなんて、期待してた。王子の女って人の噂を聞くたびに、どんな人なのか見たことも聞いたことも無いのに想像して、勝手に嫉妬して、そのたびに王子を取られたくないってドロドロした気持ち抱えて。ハル王子のことが好きなはずなのに、それ以上に王子の女ってポジションの方を欲しがってる自分が、すっごく嫌で辛かった」


 ハルは何も返せないが、そのままジュリアは続ける。


「でも婚約者の彼はそんなあたしを好きだと言ってくれたの。王子への気持ちも、あたしはこんなに嫌な女なんだってことも全部話したけど、それでも共に生きたいと言ってくれたの。ハル王子みたいにかっこよくないし、優しいだけが取り柄の、お金持ちでもなんでもない人よ。でも今は彼のために、彼を幸せにしてあげたいと思ってる」


 彼女以上に偽りない気持ちを飾らずまっすぐに打ち明けてくれる人など、他にいない。ハルには嫌な女とは到底思えないが、自分の汚点を素直に認め他人に話せる、そんなジュリアが愛おしくてたまらない。生きたまま全身の皮を剥がれてでもこの体を抜け出して、彼女をどこか遠くへ奪い去ってしまいたい。


 こんな存在にはもう二度と出会えないだろう、そうわかっている。これから自分が生きるのは、一寸の油断も許されぬ、魔物たちがひしめく汚泥にまみれた道なのだ。


 だがハルが言えるのは、そんな想いとは真逆の言葉だけだった。

「世界一幸せな男にしてやれよ。ジュリアならできるさ」


「うん……。結婚しても遠くには行かないし、店の手伝いは続けるからいつでも来てよ。でも王様になったら今までみたいに気楽には来られないよね」

 涙をこらえながら、ジュリアは必死で笑っている。

 笑顔で別れたい。その気持ちは痛いほどに同じだった。


 夜明けとともに王になる。


 これが最後なのだ。しかしハルにはジュリアが望むことをしてやれない。自分が望むことをしてはいけない。指先すら、触れることは叶わない。

 代わりにできるのは、心から伝えることだけ。


「たとえ生きる道は違っても、オレには戻れる景色がある。ジュリアはずっとオレの心の中にいて、王になってもこの想いは変わらない」

 だから、誰よりも幸せな女になれ。


 ジュリアを蒸気車デッカーに乗せて猪頭亭へ送り出す。家に入ろうとドアノブに手をかけると、冷たさにエンパワメントの感覚が蘇り、そうか、そうだったのかと胸が温かくも痛くなる。


 ———ジェーンは、ジュリアだった。

 ハルに最大能力を発揮させる存在として、これからも共に。

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