第8話 ほろにが麦酒

 珍しくハルは家に一人だった。帰国したトマスとは相変わらずで、ノーサンバランドとヨーク大司教をさらし首にしたジョン、ハンフリーは遠征からまだ戻らない。モーも外出している。


 ドアベルを鳴らして猪頭亭の扉をくぐると、時間が早いのでまだ客はまばらだ。

「ハル王子! 一人? どうぞ座って」

 赤と白のギンガムチェックのエプロンにポニーテール姿のジュリアが、カウンターの椅子を引く。


「いつものでいい?」

「ああ、煮込みはまだいいよ」

 まずは麦酒エールの大ジョッキとピクルス。それから肉の煮込みをつつくのがお決まりだ。


 左側にちょこんと座ったらジュリアから、ものすごく見られているのを感じる。

「なんだ?」

「あ、ううん、なんでもない。いつもおいしそうに飲むなあって。見てるだけでこっちまで幸せな気分になるよ」


「猪オヤジの麦酒エールがいっちばん美味い。ジュリアも教わったか?」

 麦酒はその家ごとに独自の作り方があり、代々受け継がれる。麦酒作りが上手な女性は嫁として歓迎されるものだ。


「うん、覚えたよ」

「猪オヤジ仕込みの腕なら、どこへ嫁いでも喜ばれるだろうな」

 笑顔で言われて、ジュリアの顔が曇る。


「あ、あのね……。ハル王子、その……」

 ハルは待つが、なかなか続きが出てこない。

「その……あたしね、あの……」


 エプロンの裾をぎゅっと握りしめて、二人の間はまるで縁ギリギリまで注がれた麦酒エールジョッキだった。

 しかしジュリアはそれ以上言わずに顔を伏せ、椅子を下りて厨房に下がろうとする。


「ジュリア」

 反射的にハルは彼女の腕を掴んでいた。掴んでしまってから、これからどうしたらいいのか、自分でも全くわからない。

 そのまま何も言えないハルに、ジュリアの顔がみるみるうちに真っ赤に染まる。


「あ……悪ぃ」

「ううん……おかわり、持ってくるね」

 離した後も、手の平に吸い付くような柔らかな感触が残っていて、ハルはジョッキに残った麦酒エールとともに一気に流し込む。


 大ジョッキを持って戻った時、ジュリアはいつもの明るい顔になっていたので、それきりになった。


 カラーンとドアベルが鳴り、ジュリアは元気に声をかける。

「いらっしゃい! あ、トマス王子」


 その名に振り返ると、ハルと同じこげ茶色の髪の男だった。

「家に居なかったから、ここかなと思って」


 そして無言のまま隣に座り、ジュリアが運んできた大ジョッキを傾けた。ここは、兄から声をかけねばならないだろう。

「フランスは行き損だったな」


「ああ、まったくだよ。無駄遣いさせやがって、シャルル・ドルレアンに賠償金たんまり請求してやる」

 アルマニャック派に加勢したは良いが、いざ衝突の直前にブールゴーニュ派と和睦を結ばれてしまい、戦わずして帰国するハメになったのだ。渡航費だけが無駄になった。


 トマスと話すのは半年ぶりか、それ以上だろうか。二人の間の微妙な空気を感じ取ったのかジュリアは話しかけてこようとせず、少し離れて見守っている。


「ハルの方は、父上とうまくいかなかったみたいだね」

「……すまん」

「リチャードおじさんか。ハルはおじさんの側に置いてもらえて、気に入られてたもんね。羨ましかった」


 リチャードと共に過ごしたのは一年にも満たない。それでも共にアイルランドへ遠征し、実の父よりもよほど濃密な時を過ごしたのだ。その間弟たちはといえば、軟禁状態だった。


「父上から一番頼りにされてきたのは、ずっとお前の方だろう」

「でも父上にとって、俺は所詮しょせんハルの代わりだからね」

 少しトゲのある言い方をして、トマスは水でも飲むようにジョッキを空にしていく。


 遠征で不在のハルに代わり、ずっと弟妹たちを世話してきたのはトマスだ。面倒見が良くおおらかな弟は自分が転んでも我慢し、泣き虫ジョンやよく転ぶハンフリーの為にいつもハンカチと傷薬を持ち歩くような子供だった。今でも弟たちは何かあればまずトマスに相談するのだ。


 ちょっとだけトマスは笑った。

「もうハルも父上も、いい歳してお互いしょうがないなぁ。父上は俺に言ったよ。ハルの愛情を裏切るな、ハルをおろそかにしてはならない、って」


 ———トマス、お前はハルと弟の間に立ち、弟たちの風除けになってやれ。兄弟の黄金のたがになるのだ。兄弟が一つになれば、どんな毒液にも勝る器となろう。


 ハルは言葉を失う。


「父上は、俺たち兄弟のことを誰よりも案じているよ。だってそうだろう? 母上は早くに亡くなって、親は自分一人しかいないんだから」

 一つ年下ながら、トマスにはどこか達観したような落ち着きがある。だからこの弟の前では、ハルもつい本音がこぼれるのだった。


「父上の人生が、王位簒奪さんだつという重石の下敷きなのは分かってる。オレもそうなるのかな。扉の向こうに狡知で凶悪な魔物が居ると分かりながら、この手で開けて進み続けるようなもんだ。立ち止まれば、食われて死ぬ」


「……そっか、ハルでもそう思うんだね。父上は、どうして王位を簒奪したのかな。どうしてリチャードおじさんを殺したのかな。単に追放されランカスター公領を没収された恨みだけとは思えないんだよね」


「わからない。ただ、プランタジネットの血を継ぐ者の責務だとしか仰らなかった」

「俺はね、父上からそれを聞くために傍にいるんだと思う。未だ話してくれないけど、死ぬまでには話してくれるかな」


 トマスの剣の相棒AIは、ボリングブルック。即位前の父の呼び名だ。やっぱり父が好きなのだと思うし、自分が長男だったらと思わないではないのだ。ましてや、自分たちは年子である。


 これが王家でなかったら、一般家庭の親子兄弟だったなら、もっとうまくやれたのだろう。

「オレは、父上を苦しみから解放して差し上げたい。だからこの手でランカスター王朝の正統性を証明しなきゃらならない」


 プランタジネット家の父祖が領有したかつての領土を回復することで、ランカスター家が簒奪者ではなくプランタジネットの正統な後継だと認めさせる。ハルは更にその上を行くことで、新たな自らの正統を作ろうとしている。


「フランス政策がプランタジネットの心臓だろ。ハルはずっとブレないね」

「父上が追放された時、オレはランカスター公の地位も所領も収入も全てを失い、名もなきハルになった。オレは、お前たちをあんな目にあわせるわけにはいかない」


 こうして兄が自分にだけ話してくれるのが、何よりトマスは嬉しかった。だから酔っていなくても、ついこんな言葉が出る。

「俺は、兄弟が争ったり、ハルと父上が争わないで済むようにしたいんだ。その為なら何だってする。命だって懸ける。足を引っぱる奴は殺してもいい」


 ハルは苦笑する。

「おいおい、オレたちの第一は祖国だろう。イングランドのため。お前が命を懸けるのはその時だ」

「そうだね」


 二人が大ジョッキを飲み干し、次のおかわりをジュリアに注文した時だった。

 慌ただしくドアベルを鳴らした執事レッチが告げる。


「宮殿より連絡が入りました。国王陛下がお倒れになり、危篤状態であられます」

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