第2話 曇り空の街 ロンドン
「うおおぉい! ジョンッッ!!」
ロンドンはテムズ川右岸、街外れに建つレンガ色のエルサム宮殿に戻るなりハルが捕まえたのは、二番目の弟ジョンだ。
「ありゃなんだ⁉ いきなり壁を上って途中でオレのこと放り投げやがって! 持ち主の命を最優先にプログラム組んでんじゃねぇのか⁉ 設計ミスだろう! どうしてくれんだよオレのスピーダーをよぉお!!」
「設計ミスじゃないよ、あれがジェーンの思考。スピーダーは残念だったけど、あのくらいでハルが死ぬわけないもん。それにずっと聞いてたけど、楽しそうに話してたじゃん?」
「どこをどう解釈したら楽しそうになるのか聞かせてみやがれ! ったく、作戦もスピーダーも全部ぶち壊しやがって。立ち直れねぇよ!」
デスクに座ったまま襟首を掴まれ上下左右に揺さぶられながら、にこにこ嬉しそうな弟の美麗な笑顔に毒気を抜かれ、ハルは大きくため息をつく。
「とにかく、オレの意図を無視して勝手に走りすぎだ。やめさせろ」
「基本設計は前のエドマンドを引き継いでるよ。ハルの戦闘や操縦のパターンは完璧に理解させたし、あれがジェーンが弾き出した、最も効率的な制圧方法だった」
「オレ一人で戦ってんじゃねぇだろうが。お
ジョンは、ただの機械に個性を与える。その個性は持ち主との信頼を築く過程で特定の
ヨーロッパ広しといえ、そんなことができるのはジョンの他にいない。
「それに何なんだよあのキャラは」
ジョンはキャラ設定までちゃんと作ってくる。以前のエドマンドは亡国の将軍の息子で、父の仇を打つため素性を隠して敵国に潜入したが、そこで出会った王子(つまりハル)に感化され仕えるようになる、という設定だった。
「ハルにとっては剣が恋人だからさ、今度は女のコにしてみた」
「……気が強すぎんだよ」
墜落させられた愛車は廃車寸前だった。これは本当に痛い。胸が痛い。
「エドマンドは黙ってオレについて来たし、補正のタイミングも完璧だった。ジェーンは口が多いし、これじゃ誰もついて来られない」
戦いは勝ちだった。しかしこんなのは勝利と言えない。個ではなく組織で勝てなければ意味がないのだ。
「几帳面だな、ハルは」
「何が悪い」
兄には言わないが、プログラムの更新にあたりキャラを変更したのは、長年ハルと戦場を共にしてきたエドマンドの方から提案してきたのだった。
ジョンのコンピュータ上で、AIは色々と話してくれる。それはジョンにだけ理解できる特殊な言語で、いわば秘密の会話だ。
ジェーンの奔放に駆けるスタイルは、実はハルそのものなのだ。人に合わせて行動するのは苦手で、朝起きてから夜寝るまで自分のペースを乱されるのが何よりストレス。しかし人の上に立つ者として、あるいは長男として、ハルはずっと我慢している。
ジェーンはハルの無意識の領域へ潜り込みすぐにそこへ辿り着いたのだから、ジョンのプログラムは何一つ誤っていない。
しかしそれは言わず、「はいはい、じゃ調整しておくからね」とジョンは大剣を受け取った。
ハルの顔には右眼から口元にかけ、大きな傷跡がある。それでもくっきりとした目鼻立ちには品があり、傷跡を含めて美丈夫なのだから、腹が立つのを通り越すというものだ。
受傷で右目の視力をほとんど失っていて、ジョンがエンパワメントシステムを開発したのは、失われたハルの視界を取り戻したいというのが始まりだった。大剣を持ちエンパワメントを使う間は、AIが補完した画像を視界としてハルに認識させる。
「そういや、父上の使者がここにも来たよ。シャットアウトしたけど、しつこかった」
「そか、悪ぃな」
ハルはジョンの肩に手を置き、エルサム宮殿を後にした。
それからテムズ川に唯一かかるロンドン橋へ向かう。街中をスピーダーでぶっ飛ばすわけにはいかないし、ハルは
音もなく追従してきた男は、側近のモーだ。
「国王陛下は相当にお怒りです。何らかの措置を講じられるでしょう」
「だろうよ」
ブラッドプラントとは、その名の通り血の精製工場である。血は燃料であり原料だ。鮮血はスピーダーの燃料くらいにしかならないが、戦場に染み込んだ埋蔵血はあらゆる原料に精製できる。だから掘削から抽出、精製まで可能な巨大プラントは、古戦場に造られる。
森に囲まれた『バトル』はかつての天下分け目の合戦の地で、その埋蔵量は果てしない。だからハルにはどうしてもこのプラントが必要なのだが、父王ヘンリー四世には強く反対された。ましてや、プラント所有者のアランデルは父の腹心だ。
それを独断で、早朝の奇襲をかけてしまったのである。
「モー、おまえにも面倒をかけるかもしれん」
「何を仰いますか」
「ずーっと大事にしてきたんだぜ? お前も知ってるだろ? それがあんな惨めな姿になってよぉ、もうなんなんだよ……」
「いつまでもめそめそするんじゃありません」
埋蔵血から抽出した成分を原料とするアスファルトに覆われた、曇り空の街———それがロンドンだ。
議場や王の居住があるウェストミンスター地区には電気が通っているが、外側に向かうにつれガス灯、灯火に変わる。
ロンドン橋を渡り自宅に戻ると思いきや、ハルがくぐったのはイーストチープに店を構える居酒屋「猪頭亭」の扉だった。
「いらっしゃいハル王子! 今日も圧勝だったってな!」
名は体を表す、猪そっくりな店主が、迎えると同時になみなみと
店内では既に熱気あふれる宴会が繰り広げられていた。今朝共に出撃した古くからの仲間もいれば、馴染みの職人や商人の常連客もいる。皆一様にハルの勝利を称え、我が事のように喜び、酒がうめぇやと口にする。
その中にくりくり金髪の末弟ハンフリーの姿を見つけ、ハルは隣の椅子を奪った。
「トマスはどうした?」
「宮廷の父上から呼び出しだって、出かけてった。今度ばっかりはまずいんじゃないの?」
そう言いながら、トマスもジョンもハンフリーも、ハルの依頼を断らなかったのだ。
「感謝してるよ、お前らにはいつもな」
そう言われるとハンフリーの口が横に伸び、白い歯がこぼれる。
「今度こそ父上とハルの溝が修復できなくなるんじゃないかって、トマスが心配してるよ」
ハルは答えなかった。今に始まったことではないのだ。
「ね、ね、ハル王子、今日アップルパイ作ったの。食べてみてくれる?」
これが猪の娘とは思えぬほど可愛らしい十七歳の看板娘なのだ。ハンフリーが横から手を伸ばす。
「俺が毒見してやるよ」
「ダメっ! ハル王子に作ったんだから、ハンフリー王子は後。あっ、ちょっと返しなさいよ、あんたたちも後なんだから!」
ハルを見つめる顔だけ全然違うあからさまな態度に、ハンフリーも周りも苦笑する。
ハルが一切れ口に運ぶ様を、吸い付けられたように見つめるジュリア。
「んんっ、うんめえぇぇ~! このリンゴを煮たのがいい味してるな。腕を上げたじゃねぇか」
ぱああっと、明るく照らされたようにジュリアの顔が輝く。
「うん! やったあ! 次はもっと頑張るからね!」
ハンフリーが手を伸ばして一口頬張る。リンゴの味付けが良いのは認めるが、パイの部分は少し粉っぽく、正直うんめえぇぇ~というほどではない。
しかしジュリアの笑顔を見つめるハルの横顔がこの上なく幸せそうで、ハンフリーもまた和やかな気持ちで美味い
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