第5話 幼き頃の日

 その日は確か、雪が降っていた。一人の少女が座って俯いていた。


 泣いているか、泣いていないかは分からなかった。

 背の低い少年は聞いた。


 「どうして目から水が出てるの?」


 我ながら、馬鹿な質問だ。目から水が出ているのなら、それは泣いている。水ではない、涙だ。

 少女はそっと顔を上げる。


 「誰?」


 それだけを言った。その少女に向かって自己紹介をする。

 少女は首を縦に振り、頷いた。何の頷きなのかは知らない。


 きっと、名前が知れたから頷いたのだろう。

 少女も小さな声で名前を言った。透き通るような綺麗な声だった。


 名前はすぐに溶けてしまいそうな、そんな名前だった。

 泣いている理由は聞かなかった。多分、教えてはくれないからだ。


 子供の泣く理由なんてものは大体、想像がつく。

 友達と喧嘩しただとか、親と喧嘩しただとか、天気予報では飴が降ると言っていたのに雨が降ったりだとか。


 単純なことだ。ただ、少女はそんな単純な理由ではないと思った。

 単純で複雑。それが少女の泣く理由。

 例えば、ルービックキューブや知恵の輪は、誰にだって簡単に解ける。


 分解すればいいだけだ。でも、そんなことをする人はいない。

 何故か? そもそも、分解するものではないし、何よりもつまらない。

 つまりはそういうことだ。


 話を聞けばそれで済むだろう。だが、それでは少女を壊してしまう。意味がない。

 ルービックキューブを一回動かすことにする。


 「この花綺麗だね」


 少年は目の前の花を指差す。何の花かは知らない。

 まだ、幼い子供はあまり知識がない。

 真冬に花が咲いている。珍しかった。

 この花は強い。幼いながらにそう思った。


 少女は何も言わなかった。

 どうやら、色は揃わなかったようだ。


 「ちょっと待ってて」


 少女がいる場所から、少年の家まではそれほど遠くはなかった。

 全力で走った。口から白い息が揺らぐ。


 少年が家から持って来たのはホットミルクだった。

 蜂蜜入りのホットミルク。甘くて、温かい。


 少女に渡すと、そっと小さな手を差し伸べた。

 小さな声で何かを呟いた。よくは聞こえなかったけど、きっとありがとうや感謝の言葉だろう。


 少年はホットミルクの入っていたコップに手を離し、優しく笑った。

 少女はコップを両手に持ち、熱いホットミルクに口で息を吹き、冷ましてから飲んだ。


 ゆっくりと飲んだ。とろけるような唇だった。

 唇を離し、もう一度冷ましてから飲む。

 少女は微かにだが笑った。そんな気がした。


 「おいしい?」


 「……うん、おいしい」


 「よかった。ホットミルクは好き?」


 「……好き」


 「他に好きなものはあるの?」


 「……雪。私は雪が好き」


 少女は立ち上がった。ゆっくりと自然に。


 「君は何が好きなの?」


 少女は言った。


 「ホットミルク」


 「それ以外で」


 「人の手のひら」


 どうして、そんなことを言ったのかは分からない。

 多分、理由は。


 「どうして?」


 「暖かくて優しいから」


 だったと思う。


 「ん」


 少女は何かの擬音なのかは分からないが、それだけを言って手を少年に差し伸べた。


 その手が何を意味するかはすぐに分かった。

 少年は手を繋いだ。少女の小さな手にそっと、優しく。


 「どこかに行こうよ」


 少女は微かに、そう呟いた。


 「どこに?」


 「分からない」


 分からない? だったら、尚更こっちも分からない。

 季節は冬。にも関わらず、お互いは手袋もマフラーもしていない。


 子供は基礎代謝がいいと聞く。

 不思議と寒くはなかった。お互いの手が暖かかった。


 二人は見つめたまま話さなくなった。

 音が消えた。心臓の音だけしか聞こえない。


 「暑いね」


 少年は言った。

 深い意味なんてなかった。まるで、夏のように暑かったから言った。冬なのに。


 「走ろうよ」


 少女は言った。

 暑いのに走るなんて意味が分からない。少女は寒いのだろうか。

 だから、聞いた。


 「寒いの?」


 「ううん」


 少女は首を横に振る。

 それから、深く息を吸い込む。そして、吐く。


 「とても暑い」


 尚更、意味が分からない。

 雪が降っている日に暑いから走る。まるで、暗号のようだった。


 「走ろう」


 断ることができなかった。

 少年もどうやら、頭がおかしくなったようだ。


 これが正常。なのかも知れない。それは分からない。

 二人は走った。走って、走って、走りまくった。手を繋いで。


 雪が顔に当たる。口から白い息が出る。

 そんなこと、どうでもよくなるくらいに少女の髪は綺麗だった。


 少年の顔に少女の髪が当たる。雪が当たるよりも、感触がはっきりと分かる。

 お互いのペースは同じくらいだった。

 気が合うのだろう。


 「君はどうして泣いていたの?」


 走っている途中に聞いた。本当は聞くつもりなんてない言葉をつい、勢いで聞いてしまった。


 少女は少しの間、黙り込んだ。走ってる途中の沈黙で聞こえる音は、お互いの激しい呼吸だけだ。


 少女は一瞬、手を離そうとした。でも、少年はそうはさせなかった。強く握りしめる。


 「私は」


 少女は下を向いてから話す。


 「雪になりたかったの」


 それは応えではなかった。

 少なくとも、泣いていた理由にしては理解し難いものだった。


 雪合戦で投げられたいのか。雪だるまになりたいのか。雨の固体になりたいのか。

 その言葉の意味が理解できなかった。


 「雪?」


 「……そう」


 としか言わなかった。また、沈黙が続いた。

 お互いは止まった。丁度、ぴったりに。


 少女は帰っていった。少年も帰った。

 さようならも言わず、手も振らず。


 そこで情景は途切れた。目を覚ましたら、雪は降っていなかった。紛れもない自分の家だった。







 「やっと目を覚ました!」


 「どうして、雪乃が?」


 「風邪を引いた平坂のお見舞いに来たんだよ」


 そうか。昨日の雨のせいで風邪を引いたのか。


 「雪乃が夢に出て来たよ」


 「何それ」


 雪乃は笑った。


 「雪乃は風邪を引かなかったの?」


 「私は丈夫だからね!」


 「……強くなったな」


 「何?」


 「何でもない」


 それからもう一度、寝た。

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