第17話 麻薬・劇薬・反日という名の支持率覚醒剤

2021年11月7日(日)

ソウル・韓国大統領官邸青瓦台


「さて、安建龍アンゴンヨン氏の件については、司法当局の判断を待って対応することとなります。

 我が国は三権分立の国であり、行政当局としてはいかなる決定が出ようとも、それを覆すことは成熟した国家として考え難く……日本国としても理解をいただけると考えています」

(そんな馬鹿な……強制動員被害者の時とおなじことを繰り返すつもりか!?)


 青瓦台の記者会見場で声明を読みあげる文在寅ムン・ジェイン大統領に、朝鮮日報記者の鮮于儀俊ソンウ・ウィジュンは愕然とした。


 それは東京パラリンピック閉会式で、亞倍晋三前首相を狙撃したと自称する男━━つまり、安建龍アンゴンヨンの引き渡しについて韓国政府が公式の立場を述べる会見だった。

 日韓犯罪人引渡し条約に基づく日本からの安建龍アンゴンヨン引き渡し要請に対して、韓国政府はなんとも露骨な責任回避と時間稼ぎ戦術を表明したのである。


(……あの時と同じように膨れ上がった爆弾になるだけだぞ!)


 鮮于儀俊ソンウ・ウィジュン記者が懸念するのも無理はないことだった。

 日本ではいわゆる『徴用工』とされる、太平洋戦争における労働者たちが韓国で起こした訴訟の要点は基本的にシンプルである。


『我々は韓国人なのに強制的に日本の企業に働かされたのであるから、正当な賃金・慰謝料を賠償せよ』


 遠い戦後の未来からみれば、一見、簡単に解決できそうな問題だった。細かな認定の差異はあるにせよ、戦争の時代にはいかにもありそうな話であり、戦後に起こりそうな要求であった。

 しかし、ここで国と国との条約である日韓請求権協定で1965年に「解決済み」とされていることから、半世紀ごしのいざこざが始まる。


 日本政府と司法は『国と国との条約でその賠償請求権は解決しているので払えない』と言い、韓国政府は『あのような条約は結んだが、実は個人の請求権は消滅していなかった』と言い始める。

 そして、事態を決定的に混迷へと陥れたのは韓国司法の判決であった。実に太平洋戦争終戦から73年が経った2018年、韓国の最高裁判所にあたる大法院は判決を下す。それは日本企業に対して賠償を命じるものであった。


 ここで態度を変えたのが韓国政府であった。そこで用いられたロジックは『三権分立なので司法当局が判決を下した以上、行政当局にはどうにもできない』というものである。

 つまり、国内裁判の判決が出てしまったので覆せない。何とかそちらも態度を変えてほしいと言うのだ


(1965年の韓日請求権協定から半世紀も経って、そんなことを言われた日本が怒り狂うのは当たり前だった……)


 鮮于儀俊ソンウ・ウィジュン記者は2018年から悪化の一途を続けた韓日関係を思い起こして、ため息をつきたくなった。


 日本も韓国も己の立場を振りかざすだけだった。もっとも、保守派メディアである朝鮮日報の記者である鮮于儀俊ソンウ・ウィジュンからすれば、どう考えても韓国政府の論調は正当性がなかった。

 しかも、前政権である朴槿恵政権の時代から散々国内政争の道具にしたあげく、いざ大法院の判決が出てみれば「行政当局は司法当局に介入できない」と、まるで他人のせいと言わんばかりの口ぶりである。


 これがポピュリズムの国である韓国内であれば通用もしようが、外国に対して通じるわけがなかった。

 外国から見て国家間の約束事を保証するのは、どこまでいっても行政当局であり、その国の司法当局ではない。どんな判決が何年後、何十年後に出ようが、一度締結された国際条約にとっては知ったことではないのだ。


(50年以上も経ってから、国家間の基本条約を司法当局が覆せるというのなら……我が大韓民国と条約を結ぼうという国はなくなってしまう)


 日本側の言い分はそれであり、韓国内でも比較的、外交に明るい者ならば皆、そう考えたのである。


『大統領にご質問いたします。日本国には明らかに歴史的に背負った罪があり、我が国には被害者としての道徳的優位があると国民の多くが考えております。

 このことからも、日本国が我が国に対して譲歩するのは人類的正義から当然であると思われますが、もし、彼らが正義に目を背けた場合はいかがされますか?』


 皇帝陛下にでも訊ねるような口調で、うやうやしく質問したのは左派の急先鋒であるハンギョレ新聞の記者だった。


(金王朝に仕える朝鮮中央放送のようだ!

 何が道徳的優位だ! 何が歴史の正義だ! そんな観念が我が国以外で通じるものか!)


 鮮于儀俊ソンウ・ウィジュン記者はハンギョレ新聞の記者と大統領との間に割って入って、マイクを奪ってやりたい気持ちだった。

 だが、ここが大韓民国である限り、そんなことをすれば自らの首を絞めるどころか自らを━━そして朝鮮日報という会社そのものすらも破滅に導きかねない。床を足で突き破りたいほどの悔しさだが、どうしようもない。


(歪んだ被害者意識を敗者の奇妙な論理で包み込んだのが『道徳的優位』という言葉だ!)


 そして、韓国という国を貫く価値観が『正義』である。恐ろしいことにこの正義はほんの数年ごとに平気で揺れ動き、一定の基準ではない。

 むろん、西欧諸国の『自由』や『民主』も大変怪しいものだと鮮于儀俊ソンウ・ウィジュン記者は思う。

 だが、韓国の『正義』ほどにあやふやで、そして歪んではいない。


「記者にお答えします。

 正義は我々の胸中に確かに存在するものです。三・一運動韓国独立運動から100年余り、我々、韓民族の魂に受け継がれてきた正義です。これは万国普遍の価値観であり、もし日本国が背を向けるのなら、歴史の、世界人類の審判を受けることになるでしょう」


 なんと便利なこじつけであることか。これほど具体性のない正義もないものだ。

 しかし、恐ろしいことに少なくとも左派━━つまり、この場合は質問しているハンギョレ新聞の記者と、文在寅大統領はおおむね似たような『正義』を共有しているのである。


(同じ思想を是とする者たちが便利に使う言葉……それが大韓民国における『正義』だ)


 これを異国、そして異文明の日本に呑ませようというのだから、鮮于儀俊ソンウ・ウィジュン記者はその無謀ぶりに戦慄せざるを得ない。


 しかし、韓国民の大半はそれが成せると思っている。

 なぜなら、自分たちは正義であるから。正義は正しく、必ず勝つのだから。


 たとえすぐ隣にいる誰かが違う『正義』を抱えているとしても、自分の正義こそは正しいのだと。万人と万国に通ずる正義なのだと。よって、他者は無条件に従うべきなのだと。


「誇らしい大韓国民の1名である安建龍アンゴンヨン氏には、司法当局の判断によって適切な保護が与えられるでしょう。

 正義が彼を守るならば、日本国政府に出来ることは何もないのです。我々、行政当局は司法当局の判断を最大限に尊重するでしょう」


 文在寅の表情には自信と満足感があった。

 だが、保守系メディアはその理由を見抜いている。安建龍アンゴンヨンの一件以来、文政権は『韓民族の英雄』となったこの男を祭り上げ、さらに日本からの要求をはねのけることで、支持率の劇的な回復に成功している。


 かつては新型コロナウィルス、そして次は亞倍首相狙撃犯、まさに文政権にとって、どん底に舞い込んだ二度目の福音であった。


(五年ごとに……何度も……何度も……こんなことを繰り返していく……)


 鮮于儀俊ソンウ・ウィジュン記者は絶望感にも似た思いに押しつぶされそうになった。

 韓国大統領の任期は五年であり、再選することはできない。従って、任期末期では必然的に死に体レームダックの政権運営となる。


 そのたびによろよろと歩くのが精一杯の末期政権は、危険な麻薬に頼っていた。

 すなわち、もっとも身近な敵をつくって支持率を集める━━反日である。


<だが、このたび文政権が打とうとしている麻薬の分量は……歴代政権のそれとは比べものにならない……隣国の首相をオリンピック・パラリンピックの舞台で暗殺しようとした人物を庇おうとするのである……これは大韓民国そのものを破滅に導く可能性すらある、最悪の薬物中毒となるだろう……>


 鮮于儀俊ソンウ・ウィジュン記者が翌日の朝鮮日報紙面に載せたコラムは大きな評判を呼んだ。彼はそれを韓国内に残った良心の発露だと考えた。

 だが、真逆の行動に至った者達もいる。売国、親日、土着倭寇の極みだと叫ぶ者達がいた。彼らは自らを韓国内を正す正義の代表だと考えた。


 数日後、光化門広場近くの朝鮮日報本社・編集部ビルに1台のタンクローリーが突っ込んだ。

 もっとも、そんな程度のことは予想された内であった。慌てた記者はいなかった。


 冷戦時代、大韓民国では政権に反する言論を主張することは文字通り命がけであり、多数の記者が命を落としていた。

 左派・右派の区別無く、大韓民国のマスメディアにはそんな嵐の時代を生き抜いてきたDNAが受け継がれていた。


 記者個々人それぞれに政治的立場による偏向がどれだけあろうとも、それが韓国のマスメディアである。

 彼らには少なくとも己の信念に賭けるものがあった。


 ぬるま湯の戦後に浸かり続け、善良なる大衆を騙すことしか考えなくなった日本のマスメディアよりは、よほど『記者』の名に値する人々だったのである。

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