第6話 斜陽の帝国は死なず。ただ、欧州の外にあるのみ

2021年9月18日(土)

ロンドン・ダウニング街10番地首相官邸


「親愛なる国民の皆さん。

 我々、ユナイテッド・キングダムいわゆるイギリス政府はこのたび米国とEU、そして有志諸国政府と共に、中華人民共和国に対して一連の賠償請求を行いました」


 BBCのカメラに向かって語りかける男、ボリス・ジョンソンは希有な運命の導きによって、今、この時に英国首相となった人物である。

 8年の長きにわたってロンドン市長を務めた経歴からも、政治的には大人物と言えた。EU離脱決定に伴って英国の政治状況が混迷を窮める中、テリーザ・メイから首相を引き継ぐと、彼は強硬とも言える手法でEU離脱の『確定』を推し進めた。


 すなわち、国民投票でEU離脱が選択されたと言っても、英国はまだ揺れていたのである。

 再投票を望む声は小さくなかった。離脱の日時は幾度となく引きのばされた。

 その間、政治は混乱し、投資は逃げ、民衆は動揺した。


 ボリス・ジョンソンはその状況に終止符を打ち、EU離脱を実際に成しとげた男だった。

 だが、その直後にさらなる試練が英国に襲いかかる。他でもない新型コロナウィルスのパンデミックである。


「皆さんもご記憶されているとおり、我々は2020年春の新型コロナウィルス第1次流行と、昨年秋から冬にかけた第2次流行において、実に8万名以上の尊い命を失いました」


 第1次流行の感染者数だけでも30万人以上。死者数は5万名を超えた。第2次流行でも3万名もの命が失われた。

 他でもないボリス・ジョンソン自身も感染し、一時は集中治療室で24時間態勢のケアを受けるほどに病状が悪化したのである。


 ヨーロッパでも指折りの被害を受けた英国は、当然、パンデミック以前のような態度で中国に接することはなかった。その応対は厳しくなった。

 だが、少なくともドナルド・トランプのように軽々に損害を賠償せよと公言することはなかったし、貿易上の制裁処置を下すこともなかった。

 これは英国なりの品格でもあったが、実際のところ彼ら一国では立ち向かえないほどに、中国が強大になっていた事実もあった。


「我々が要求するのは……中国が情報を隠蔽し、隔離を怠り、新型コロナウィルスが世界へ広まることを放置した、国家的責任に対する賠償の請求です。

 これは戦争被害に対する請求や、人道上の罪に対する請求と類比されるものと言えるでしょう」


 欧米の政治家は演説がうまいと言われる。だが、ボリス・ジョンソンが新型コロナウィルスに関する問題を語るとき、その表情には他国の政治家にはないオーラがこもっている。

 それは彼が新型コロナウィルスの回復者サバイバーであることと無関係ではない。


 多くの国でウィルスに恐怖にさらされた大衆は思う。

 政治家どもめ。お前たち金持ちはこのウィルスには無縁じゃないか。衛生的な環境でふんぞりかえって、俺達の生活を保障などしてくれないじゃないか、と。


 だが、少なくともイギリス首相については違う。彼は等しく大衆と同じ苦しみをわかちあい、そして生きて帰ってきた男なのだ。


「中国が素直に我々の要求に応じてくれればいいと願っていますが、残念ながらそうでない時のことを考えなければなりません。

 私はこの問題について、G7をはじめとした主要国の首脳と討議しました。各国の首脳は忌憚ない意見を聞かせてくれました。

 もちろん、現在、治療を受けている亞倍晋三・前首相とも、オリンピック開催中に意見交換しました。彼がまた元気な姿を見せてくれることを確信しています。

 繰り返しますが、中国が素直に我々の要求に応じてくれればいいと願っています。

 しかし、これまで彼らは何度も不誠実な態度を示してきました。今回もそうなった時、どうすれば彼らに我々の意志を強制・・・・・できるか」


 後年の調査では。

 この時、演説を見ていた多くの英国民が「何か大変なことが始まる」と予感したと回答している。カメラを向けるBBCのスタッフですら、『ぞっとした』『寒気がした』という。


「これは難しい問題でした。ですが、ドナルド・トランプ大統領およびエマニュエル・マクロン大統領から格段の協力と確約を取り付けることができました。

 彼らに感謝します。近いうちにさらなるご報告ができるでしょう。

 どうもありがとうサンキュー・ベリーマッチ


 演説を終えると、ボリス・ジョンソンは大きく息を吐いた。

 身長175cmの体はドナルド・トランプに比べれば小さく見える。しかし実際のところ彼に相対した者は、2メートル以上の巨漢のような印象を受けるという。一国を背負う政治家というものは、それだけの存在感を持っているのだった。


『失礼ですが、首相』


 演説の中継が行われたのは、ダウニング街10番地・首相官邸の録画室だった。そのまま演説原稿を手にして退出しようしたボリスを、BBC記者の1人が呼び止めようとする。


『首相。ボリス・ジョンソン首相』


 だが、ボリスは「聞こえているよ」とでも言うように一瞥をくれると、録画室を出て行ってしまった。慌てて記者は追いかけたが、官邸スタッフの一人に止められてしまう。

 英国首相官邸は生活のための家屋が一体となった構造である。すなわち、官邸スタッフと言っても二種類存在し、公務のためのスタッフと、生活のためのスタッフ━━執事とでも呼ぶべき人物が記者を制止した。


『ここから先はプライベートルームです。ご遠慮願います』

『ですが……首相! 何が始まるというのですか! それは英国にとって重大なことなのですか!』


 記者は何も特ダネを掴みたいというわけではなかった。タブロイド紙やパパラッチのように、紙面を賑わすネタをいち早く知りたいという欲望もない。

 ただ、国家を左右するような重大な何かが始まるのだ、と彼は演説を聞きながら感じたのだ。

 映像ではなく、生身の人間ボリス・ジョンソンが目の前で喋るのを見て、聞いて、直感したのだ。


(何としても知りたい……!)


 それは記者としての本能的な衝動としか言いようがなかった。こんな行動を取るのは、彼の人生で初めてのことだった。

 だが……記者を無視して、官邸のプライベートルームへ引っ込んだと思われたボリス・ジョンソンは、それから数秒後にひょいと姿を現した。


「紅茶はいかがですか」


 両手に持ったテーブルには、ダウンタウンで数ポンドもしないような安物のマグカップが載っていた。香り立つダージリンが満たされたカップが4つ。どうも中継に携わったBBCの関係者に紅茶を振る舞おうということらしかった。


「紅茶はいかがですか」

『あの、首相。先ほどの演説は……これから英国に何が……』

「紅茶はいかがですか」

『それよりも首相。一体何が起こるのか、教えていただけませんか』

「紅茶はいかがですか」

『首相……』

「その質問に答えることはできない。けれど、私は今、君たちに紅茶を振る舞いたいんだ」


 にこりと笑うことなく。一見、不機嫌そうにもみえるいつもの顔・・・・でボリス・ジョンソンはあくまでも紅茶を勧めた。


「紅茶はいかがですか」

『……いただきます』


 結局、ボリス・ジョンソンはそれ以外、何も言おうとはしなかった。

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