第5話 歪みの半島、誇らしい大統領の憂鬱
2021年9月15日(水)
ソウル・
「これが北と中国、そしてアメリカからの要求か」
『……つきましては、大統領閣下のご判断を仰ぎたく』
「分かっている。分かっているとも」
大韓民国第19代大統領・
だが、それは彼個人の疲弊ではない。韓国という国家そのものの状況でもあったのだ。
(この頃、すっかり疲れた顔になられた……)
韓国大統領・民情首席秘書官の
ただ、無数のスキャンダルと政情の都合によって、めまぐるしく入れ替わる青瓦台スタッフとして、たまたま順番が回ってきた与党のメンバーに過ぎない。
うまく立ち回れば、かの
『大統領閣下、今夜はもう遅いです。お疲れでしたら明日にでも』
「何を言う。誇らしい祖国のために身を粉にしてでも働くのは大統領の責務だ。
まず、北の要求は━━『
『はい、大統領閣下。
昨年の暮れに兄である
「それにしても古くて根が深い話を持ち出したものだ。
『対外的には我が国への強い非難と罵倒のメッセージ、そして軍事挑発が予想されます。
ただ……おそらくは物資の援助……特に医療物資援助でなだめることが可能と思われます』
「北は新型コロナウィルスの第1次流行から、ずっと国内が蔓延状態にあるからな」
『はい。国民の大半が繰り返し感染する状況がつづいています』
南北関係が改善したとは言っても、あるいは文在寅政権が北朝鮮よりだと言っても、建国以来の対・北朝鮮諜報網は伊達ではない。
その精度も、情報量も、米国や日本の比ではなかった。
だが、失われてしまったものもある。
たとえば、2020年の後半に身体状態が極度に悪化したまま、現在も回復の様子がない━━あるいは、とっくに死亡していると思われる金正恩・前総書記は、率直に言って文在寅大統領をまったく信用していなかった。
そして、関係悪化の過程で北朝鮮中枢に対する情報源は、徹底的に取り締まられ、再起不能の打撃を受けたのである。
それでも韓国は北朝鮮社会一般に対する、強力な諜報網を維持していた。これは到底、諸外国のおよぶ水準ではなかった。まさに同じ民族ならではの強みといえる。
(途中までは……ハノイの会談が決まるまでは、すべてがうまく行っていたのだ。
何もかも順調だった。南北の指導者ふたりが平和への意志を確かなものとしたのだ。
法? 国連の制裁? 第三国の都合?
そんなものは私と金正恩氏が先導する平和という現実に、後から追いついてくるべきだったのだ! だが、誇らしい大韓民国の国民に選ばれた大統領たるこの私に対して、弓を引いた者たちがいる……!)
文在寅の戦略は一言でいえば、徹底的なトップダウンによる意志決定と、周辺事情の
韓国大統領の権力は言うまでもなく巨大である。そして、南北関係改善が最高潮だった2018年において、国内の支持は圧倒的であった。
(若者たちが支持してくれた。老人たちが夢見てくれた。それを……それを……!)
ならば、このまま進めるはずだ、と。細かな問題など打ち砕けるはずだ、と。
大統領である自分が率先して示した道に沿って、議会が、国民が突き進むはずではないか。忌まわしい38度線は消え去り、
祖国だけではない。北も同じである。最高権力者たる金正恩自身に確固たる意志があれば、どんな問題も打ち砕ける。
(かくして平和が来るはずだった……非核化などという
それを! それを邪魔したのは!!)
文在寅の理解では、第一に国内の保守層であった。
毎週土曜日にソウル駅前で、そして韓国最大の政治デモスポットである光化門前広場で、時代に逆行する主張を叫ぶ愚か者たち。
さらには朝鮮日報や中央日報といった保守メディアも、文在寅にとっては許しがたい民族の敵だった。
彼らは新型コロナウィルスの対応においても、徹底的に足を引っぱろうとした。それは卑劣な下心に起因している。2020年4月の総選挙において、少しでも有利な位置に立つためだった。
もはやいかなる慈悲も尽きている。隙さえあれば、まとめて奴らは監獄へ送ってやる。文在寅と与党・共に民主党のメンバーは心の底からそう思っている。
(そして、第二の邪魔者は……)
隣国・日本である。国内の保守層が民族内輪の敵であるとすれば、彼にとって日本は民族全体の敵であった。
つまらない弾道ミサイル実験のたびに日本は北朝鮮の神経を逆なでした。あまつさえ、文在寅と韓国民にとってはどうでも良い拉致被害者の問題などをいつまでも持ち出して、南北の平和到来を妨害した。
(憎き亞倍めが! 天罰を受けたのは当然だ!!)
それらの行動は日本の強い指導者として登場した亞倍晋三首相が、己の権力を強化し支持を高めるためだったと━━文在寅はおろか、韓国の大衆とメディアまでも信じ込んでいた。
ああ、憎き韓民族の仇敵・日本!
南北統一がなり、
(だが、最大の問題は!)
アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプである。
そもそも対外的な面子や儀礼上の格を重視する韓国人にとって、型破りなトランプのスタイルは忌み嫌うべきものだった。
無礼であり、欠礼であり、下品であり、野蛮そのものであった。マスメディアの目も気にせず、敵対者を罵倒するその姿は民主主義の失敗作としか思えなかったものだ。
そう━━ドナルド・トランプはG7の会合において「どうしてあんな男が大統領になってしまったんだ」と、自分をこき下ろすことさえしたのだ。
(許せるものか! もっとも偉大な我が国民が選んだこの私を!
世界でもっとも優れた民主主義によって選ばれた大統領であるこの私を! あのような田舎からトラクターで出てきたような、粗野で乱暴な不動産屋などが馬鹿にすることがあってたまるものか!)
ところがそんなトランプは、なぜか金正恩と不思議に意気投合してしまったのである。
もともと文在寅にとって、金正恩は密かに想いを寄せられている相手のようなものだった。こいつ、俺が好きだな、というわけである。
金は文を信じ、頼っていると思っていた。
だが、そんな金正恩がトランプとほんの二言、三言。一週間、二週間と交流するうちに、『友情』としか言い様のない関係を築いてしまったのである。
(すべては……トランプのせいだ……)
確かに横やりは入った。
同盟国たる我々米軍と調整しろと、何百回きかされたことか。同盟国たる我々の了承を得ずに先走るなと、何千回いわれたことか。
しかし、そんなものは振り払えるはずだった。誰がなんと言おうと朝鮮半島の当事国は韓国と北朝鮮なのである。
(朝鮮半島の運転席にすわっているのは私であり、助手席に金正恩氏がいるはずだったのだ!)
この二国の指導者が熱烈に平和を望み、実現へ突き進む限り、どんな他国も、国際条約も━━歴史すらも邪魔できないと文在寅は信じていたのだ。
「……千載一遇の好機だったのに」
『大統領?』』
「いいや、何でもない」
北朝鮮は新型コロナウィルスの第1次流行からまだ立ち直っていない。
そんな当たり前の情勢分析を口にしただけなのに、巨大な『恨(ハン)』のフラッシュバックにさいなまれるほど、文在寅にとって南北関係改善の失敗は強烈なトラウマと化していたのである。
「
『今は過去を振り返るのではななく、目前の問題を解決し、平和と発展へ向かうべきだ』……こんなところだろうな」
『適切かと存じます。大統領閣下。……また聞くにたえない罵倒がかえってくるかと思われますが、時間は稼げるでしょう』
「これだけでも本来ならば難題だよ。
だが、今日はまだ中国とアメリカからの要求も片付けなくてはいけないね」
どっしりと両肩に巨大な鉛の固まりがのしかかってくるような思いで、文在寅は中国共産党政府から送られてきた要求事項のデータを、サムスン製タブレットに表示した。
「……『アメリカと欧州が主張している虚偽の発表に惑わされていないと信じる』。
つまり、欧米の側につくな、ということか」
『はい、大統領閣下。
我が国は目下のところ、アメリカで発覚したという中国のウィルステロ計画についても……欧米で発見されたという
「民情首席秘書官。それは実際のところ、事実だな?
『ええ! ええ……事実、
それは能力不足や怠慢を意味するものでは断じてなく……実際、中国においてそうした計画……あるいは陰謀が画策されている兆候がまったくないというのです。
欧州で発見されたというコンテナについても、仁川空港を経由した形跡はありません』
「つまり、本当の意味で我々大韓民国には無関係な話というわけだ」
『仮に事実であったとしても……つまり、何らかの新型コロナウィルスを使った陰謀が存在するとしても、少なくとも我が国には向けられていないと思われます。大統領閣下』
「………………」
確かに
(そんな陰謀が動いているなら、わざわざ我が国に対して欧米側へつくな、などと言ってくるはずはない……)
弁護士出身の大統領として有名な文だが、その以前━━つまり兵役についていた頃は、泣く子も黙る韓国軍・特殊作戦司令部の第1空挺旅団所属である。
英米で言うところのSASやグリーンベレーに匹敵する最精鋭部隊の兵長だった文にとって、この現在進行形かどうかも疑わしい陰謀は、安全保障上からも祖国には関係ないと断定することができそうだった。
(だが、もしフェイクだとして……トランプはともかく、なぜフランスのエマニュエル・マクロンとイギリスのボリス・ジョンソンまで同調している……?)
トランプは文にとって全く信用できない相手だった。有り余る
しかし、フランスやイギリスの首脳に対しては、それなりの敬意を持っている。彼らが何の証拠もなしにトランプに同調して、中国を非難するとは思えなかったのだ。
『いかがされますか、大統領閣下』
「この件は慎重に協議する必要ありだ。今の段階では決めかねる」
『承知致しました』
「事案・甲A2。対応・AN。確認・ND」
それは音声認識アプリケーションを使ったテキストメモだった。
もちろん、機密保持のために喚字暗号化していることは言うまでもない。この場合、事案の甲A2とは『甲』つまり大統領が取り扱うAグレード情報の2番目という意味である。
対応のANは『A』が要協議。『N』が現時点で公表できる政府の姿勢はなしという意味になる。確認の『ND』はNext Day。つまり明日も状況を確認するという意味であった。
「最後がアメリカからの要求か……『今後予定される有志連合への参加要請』だと?
どういうことだ? ホルムズ海峡への派遣は一段落しているはずだが」
『それは……』
文在寅は首をひねり、
(まさかとは思うが……)
だが、
1つの想像が思い浮かんだ。けれど、それは文在寅大統領にはとても言葉にして伝えることができない想像だった。
(既に何らかの連絡が米国政府から入っているのに……我が大韓民国政府は処理しきれていないのか……!?)
それは民間企業で言うならば、営業部に入った大型受注の契約を社長や専務が知らされていないという話である。
むろん、民間企業がそうであるように、一国の政府でもあり得ないことではない。だが、米国という最重要同盟国からの連絡がトップに伝わっていない━━まさに、あってはならない失態だった。
(まずいな……)
そして、それは国家システムの失態であると同時に、大統領を支える官僚システムの失態でもある。
すなわち、
「民情首席秘書官」
『は……はっ、大統領閣下』
「何かアメリカから連絡は入っていないのかね?」
文在寅大統領の声色は明らかに疑問の音を含んでいた。
無理もない話だった。文の在任期間中、国家間の意思伝達で問題を引き起こしたことは一度や二度ではない。
文在寅自身も
米日のみならず、多数の民主主義陣営各国が『大変なことになるから破棄してはいけない』という意味のシグナルを送ってくれたのに、大韓民国政府はことごとくその意味を解読することに失敗したのである。
それは『この先に警察の取り締まりがあるよ』とすれ違うドライバーがハンドサインを送ってくれたのに、スロットルを捻るオートバイライダーが理解できなかったようなものだ。国家の外交でそんな醜態を晒せば、大恥もいいところであった。
『大統領閣下。誓って申し上げます、大統領閣下』
頭の中では悪い想像ばかりが膨らんでいく。これがスキャンダルとなり、青瓦台を追われたあと、朝鮮日報あたりの1面に叩き記事が載るのではないか。そんなことまで考えた。
『アメリカから本件に関する連絡は
あり得るとしたら、アメリカ側がむしろ取り違えているのでしょう。大統領閣下へ要請を出す前に、事務方への接触があって然るべきです。トランプのスタッフは職務を怠ったのではないでしょうか』
「そうか……なるほど、そういうことか……確かにトランプのスタッフならばあり得る……」
朝から晩まで文在寅の顔を見ている
(この手に限る……だが、後で外交部へ怒鳴り込んでおく必要はあるだろうな……)
1つの窮地を乗り越えたことに安堵する
「本日のA級案件はこれで全てだな」
『はっ。それでは続いて支持率対策の話に移らせていただきますが……』
大韓民国第19代大統領・
調査会社・リアルメーターの最新情報によれば、2021年9月現在で文在寅大統領の支持率は25%。
年間成長率の見込みは昨年に続いてマイナス。失業率は18%。光化門前広場で毎週土曜日に繰り広げられている政治デモの主題は、今や新型コロナウィルスではなく、雇用問題である。
それは大統領個人の疲弊ではない。韓国という国家そのものの状況でもあったのだ。
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