貝殻と麻里

@oyamakensuke

第1話(完結)

 夜に海から持ちかえった貝殻が窓枠に置かれている。

 麻里は寝台に横たわりながら、頭上の貝殻が砂の音を運んで、ギイギイ鳴きはじめないを不思議に思う。それから恋人がくれた指輪のことも。どうして、かれは現在の両親に会わせてくれないのだろう。父がいたらこのことをどう思うのだろう。

 父は外資の人で何をやっているのかわからなかったが、外に女をつくっているらしいことは知っていた。父の帰宅は揺れない地震みたいで、朝晩問わずふいにあらわれてはいなくなり、しばらくして不在を忘れた頃になると居間でなにかを食べていたりする。父の姿を見るたび、心臓を小さな指で抓まれるような暗い驚きを感じた。母はだれよりもはやく、家庭にまたも不在が訪れたことを感知しては逃さず泣いた。そして泣くたび教えられた。パパに恋している女の人がいるみたいなの。母は病気になった。

「麻里ちゃんも、パパを誇りに思ってもいいのにね」

 姉の周子は父によく懐いていた。白い肌は父譲りで骨が細かった。その女の顔も知っていると言っていた。

 一年と三ヶ月後に、父は誰にも知られずひっそりと家から二駅のところにある病院に入院していた。麻里が見舞いに行った時には憔悴しきっていて、二度目の面会の前に死んだ。

 父の死後、周子は麻里をよくいじめた。麻里が着替えの為に服を脱ぐと、姉はねずみのようにさっと部屋にすべり込み、麻里の発育の加減を観察し、麻里のからだの線は何度も子を産んだ女のようだといたぶった。「パパのお姉さんのほうが線が細いわ」。麻里は空想の美人と陰毛の多寡まで比べられた。

 女たちは海の近くに越した。母の療養のためである。この時が麻里が人生でいちばん幸福だった時である。父の死は不在よりもやすらかだったし、海風に吹かれても母は清潔によく笑った。

 周子は、ある日の早朝にヨットを買いたいと言って家を出たきり戻らなかったが、この手の失踪に対する母娘の順応は早かった。だが、母が海辺をひとり散歩している間に、一度だけ父の愛人が電話をかけてきた。今まで耳にしたことのない、蕩けた色が三つも四つも重なったような声だった「お宅の周子ちゃんが」麻里は記憶の奥の方から燦爛とせりあがるため息を喉で潰し、そのまましずかに電話を切った。

 だれがだれに捨てられたのか、だれがだれを捨てたのか、麻里には問題を解きほどく何のよすがもない。太い涙が流れた。海の匂いが他人の家によく馴染んだ新鮮な異臭のように感じられた。

 母は溺れた人が助けられるように一息に死んだ。

 愛人の電話からわずか半年後のことだった。


 麻里は海での生活を懐かしみ、今も貝殻を窓際に散らしている。

 この頃はよく姉が遊びにくる。父の残した遺産は莫大だったが、貧相な躰つきの姉は遊び方をよく知らなかった。麻里の年下の恋人の直紀も早くして両親を亡くしている。かれは人生の風雪にくじけず、つよく生き、いまは善い里親と共に健気に暮らしている。全て嘘である。永遠に私はかれと同じ顔をしたかれの両親に会わせてはもらえないだろう。

 麻里は寝台から身を起こし、今日はどこか砂っぽく感じる体を洗い流そうと衣服を脱ぐ。母譲りの豊かな線である。父にとって足らないものはなんだったのだろうかと、麻里は鏡に映る女にさまざまな姿態をとらせた。

                               <了>

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