種村直樹と僕

Tohna

第1話 甘ちゃんの乗り鉄

 もう、40年近くも前の話。


 少しませていた僕は、小学の頃から種村直樹が好きだった。


 鉄道のムック本に映る、赤いランプを曳光させた夜汽車の写真の上に書き込まれた鉄道旅行記は、旅情を誘い、無限の想像力を与えてくれた。


 彼のように、いつか夜汽車に乗って一人旅がしたかった。



 ある日、時刻表だけで脳内の列車旅行を楽しんでいた僕は、「青春18のびのびきっぷ」という新しい企画乗車券が発売された事を知る。確か当時の料金は8000円ではなかっただろうか。

 

 この切符は、1日券3枚と2日券1枚の4枚綴りで、全国の国鉄の普通列車と快速列車の普通席に乗車できる、「乗り鉄」の僕には夢のような切符だったのだ。


 中学生二年生になったばかりだった僕は、父親に無心してこの切符を手にしたのだ。

 

 自営だった父に、仕事をなんでも手伝う、という空手形を掴ませて。


 思えば中学二年生に一人旅を許す家庭が我が家の他にあっただろうか。

 

 そもそも自宅のあった千葉県のベッドタウンから、祖母の住む名古屋までそれよりも四年前、つまり小学四年生で一人旅を許した両親だ。

 

 僕には両親が許す確信が 、いや、否定されるなど微塵にも考えていなかったが、実際両親から全く反対をされた記憶がない。


 ――かくして人生初めてのお一人様外泊旅行が幕を開けた。


 僕は「種村直樹」になった ーつもりだった。




 さて何処に行こうかなどと、逡巡する間も無く行き先は決まった。


 毎日のようにシミュレーションを繰り返していた、「普通列車で最短で北海道に行く」事を実行する事にした。

 

 上野を5時台に出る常磐線の仙台行きに乗り、仙台に昼頃到着する。


 13時過ぎに仙台を出る青森行き東北本線で青森へ。


 そして出発の青函連絡船で函館に渡り、翌朝6時ごろに出発する札幌行きに乗る、と云うのが今覚えている大雑把な旅程だ。


 問題は、当時東京の世田谷に引っ越していた我が家から、どうやって上野発の常磐線にそんな早く乗るか、であった。我が家には、当時マイカーはなかった。


 父が妙案を出してくれた。


「一番近い国鉄の駅、目黒までタクシーで送ってやろう」

 全くの親バカである。バカ親だとすら思う。


 可愛い子には旅をさせろ、と言うが、何故彼が中二の企みに積極的に関与し補助を与えたのか、16年前に鬼籍に入った父から理由をついぞ聞くことはなかった。


 詳しい旅程を残しておけば良かったのだが、もう36年も前の話だ。流石に記憶は怪しい。多少辻褄の合わない所があってもご海容願いたい。


 まだシャッターが上がったばかりの目黒駅でのびのび切符を改札し、僕の ―― リトル種村直樹の旅は始まった。


 僕の中では旅の初めは7月の末ごろではなかったかと思う。

 

 山手線内回りで上野をまず目指す。車内は流石に殆ど人はおらず、七人掛けのシートに一人でぽつねんと座った。


 この時点では、未知への好奇心で満たされており、眠気など微塵にも感じなかった。

 

 荷物はアルミフレーム付きのバックパック一つで、中には着替え、母が作ってくれたおにぎり、何故か夏休みの宿題をやりもしないのに入れて来た。


 時刻表は当然だ。


 僕は、乗り鉄なのだから。


 カメラは当時高級品で、我が家には二眼レフのミノルタしかなかったので断念。


 ゴソゴソと荷物を確認していると見覚えのない封筒が入っていた。


 手に取った封筒は、父の会社の社用封筒で、父のゴツい字でこう記してあった。


「困ったら開けなさい」

多感な14歳である。


 父親に切符を無心したくせにそこで生まれたのは反発心であった。封筒をバックパックの一番奥底にしまい込むと、ようやく上野駅のホームに山手線は滑り込んだ。



 小学四年の夏休みに、京成線、山手線、新幹線、中央西線を乗り継いで祖母の住む名古屋の千種まで一人で行くことにした時も、父親は新幹線の改切符を買うまで実は僕を尾行していた。


 新幹線の切符を買う段になって、僕は勝手が分からず、近くの大人に尋ねていると、何か危険を感じたらしく、父はいきなり姿を現した。


 僕は少し憤慨していた。


 今思えば、おもむろに切符を買う為の一万円札を取り出し、見知らぬ男に買い方を乞う方がおかしいのだが、とにかくなんで尾行なんてしていたんだと見当違いの憤慨をしていた。


 その記憶が蘇り、いつまでも子供扱いしやがって、という身勝手な反発心で頭が満たされていたのだった。


 ともあれ、僕は仙台行きの常磐線普通列車に乗る為に、18番線(だっただろうか)ホームを目指した。


 母の実家は常磐線の石岡で、幼少の頃はよく常磐線に乗って帰省をしていた。


 その頃の微かな記憶だが、電車ではなく、機関車が引く客車だったような気がするのだが、大人になってから母にその記憶を話すと、

 

「私は若い頃品川まで毎日電車に乗って通勤していたわよ」

 とのこと、子供の頃の記憶などいい加減だと思い直す。


 しかし、ボックスシートに家族三人(姉と僕と母)で座り、駅のキオスクで買った冷凍ミカンを食べ、ビニールのような容器に入った日本茶をすすった鮮明な記憶があるのを自分で消化することが出来ない。


 上野から石岡までは今で言えばわずか一時間すこし程の行程だが、その一時間余りが、当時の僕には恐ろしく長く、恐ろしく退屈だった。


 そんな記憶を思い出しながら仙台行きの普通列車に乗り込む。やはり朝が早いので乗客は少なかった。


 ボックスシート脇の2人がけシートに腰を降ろし、他に人が居ないからと言ってバックパックを隣の席に置いた。


 不覚に陥ったのは恐らく利根川を渡った頃だろうか、水戸に近づいた列車は通勤時間帯に掛かり、寝ている耳にも車内の喧騒が届いて来た。


そして、


「まったく、どういう教育を受けているんだろうね。親の顔が見たいよ」

 という女性二人組の声で僕は完全に覚醒した。


 目を覚まして、声が聞こえた上の方を見やると、二人組の自分の母親よりも歳上に見える女性がこちらを睥睨していた。


 自分が乗車した時とは打って変って車内は混雑し、2人がけのシートを荷物で占領していた僕を非難していたのだった。


 ああ、これはマズイと思い、隣に置いてあったバックパックを膝に抱えると、2人のうちの1人が座ったがもう一人の方がまだ収まらない。


「だいたい若い子が座ってるなんてあり得ないわよね!」

 とかなんとか目は座った方に向けながら、言葉は僕を突き刺していた。


 いたたまれず、席を譲った。


 水戸に着くと、二人は再度「親の顔がみたいよ」と捨てゼリフを吐いて下車して行った。


 二人が座っていたシートに腰掛ける気力がなかった。父や母に申し訳ない気持ちになった。


 水戸で粗方の乗客は降り、再びガランとした車内。同じ轍を踏まぬよう、ボックスシートに座り、貴重品だけジーンズのポケットに入れて網棚にバックパックを置いた。


 高萩を越えた辺りから、トンネルに入ったり、海岸線が見えたり、景色がクルクルと変って再び眠くなることはなかった。


 勿来を越えてからは常磐線はまた内陸に進路をとり、海は見えなくなったが、また海が見えた辺りは広野や富岡、東京電力の火力発電所、福島第二原発のあたりだった事を9年前の事故で知ることとなった。F1(福島第一)は駅からは随分離れている事も。


 約30年後に起こることなど知る由もなく、普通列車仙台行きは時折見える海水浴場とトンネルを交互に抜いながら進んで行った。

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