第2話
毎年、冬至のひと月ほど前になると、月影山の周辺は根雪におおわれる。そして冬至になるころには、すっかり降りつもって、鷹狩りができるようになる。
鷹の訓練もまた、秋分と冬至の中ごろにはじめ、冬至に差しかかるころに終える。仕上がるころには、ちょうど山の環境も整っているというわけだ。
だが、冬の月影山は雪も風も強くきびしい。吹雪の中では鷹を腕にとどめておけず、視界が悪いので獲物を見つけるのも容易じゃない。たまに晴れても、やわらかい新雪がたっぷりつもった山の中では、足がとられて思うように歩けない。
よって、もっとも鷹狩りがしやすいのは、立春から春分にかけてとなる。そのころには天候も落ちつき、雪も固く引きしまってくるからだ。
けれど、ニヌムにはひとつ問題があった。晴れ間が続くということは、すなわち農作業がはじまる時期でもある。
そうなると、ニヌムも畑仕事を手伝わなくてはならない。母だけで畑の世話をするのは大変なことであるし、きょうだいたちはまだ幼く、働き手としては頼りない。すぐ下のヨヒラは最近しっかりしてきたが、やはり彼だけでは心もとない。
とはいえ、鷹狩りで得られる毛皮や肉は、貴重な稼ぎだ。特に毛皮は、都の貴族の間で防寒着として流行しており、高値で売れる。
そういった事情もあって、ニヌムは農繁期のはじめのころだけ、しばしば祖父の鷹狩りについていくことを許された。近所に住む叔母が畑の手伝いにきてくれる日だけ、という条件つきだったが、それでもじゅうぶんだった。
いや、本音をいえば、もっとたくさん鷹狩りに関わっていたい。けれども、家のことを思えば、母ができるかぎり譲歩してくれていることがわかったから、わがままは言えなかった。
そのぶん、狩りに出かけられる日が楽しみになるから、それでよかった。
「ニヌム、用意はできたか」
左の腕に〈エガケ〉と呼ばれる、いぶし鹿革でできた手袋をして、そこに鷹を乗せているので、できるだけ体は動かさない。鷹を安定して腕に〈
今日の祖父の相棒は、イモギという名の
「うん、できたよ」
「はい、じいちゃん。これ」
「ああ。ありがとう」
サンシュに木の杖を手渡す。〈カイシキ〉といって、鷹を据えた左腕を休ませる腕かけにしたり、獲物を追いたてたりするときに使う。
右の腰には、〈
「さあ、準備ができたなら、行くぞ」
家を出ると、冷たい風が頬をなでた。いくら動物の毛皮で防寒しても、肌のむき出しているところはどうしようもない。
けれど、そんなことはどうでもよくなるくらい、美しい一面の銀世界だった。
太陽の光を雪がキラキラと反射して、ちょっとまぶしいくらいだ。細かい光のつぶが弾けては消えていく。
ニヌムは、すうっと冷たい雪のにおいを胸いっぱいに吸いこんだ。興奮してほてった体を、冬の空気が冷ましていく。
それからしばらく、二人は獲物を求めて、雪の大地をひたすらに歩いた。あてもなく、ただ獲物がいそうな場所を、目の前の地形から読み取って移動する。疲れたら、イモギを木にとまらせて休み、ひと息ついたらまた黙々と歩く。このくり返しだ。
やがて、サンシュがピタリと足をとめて、
「見ろ、ウサギの足あとだ」
と、言った。
見ると、サンシュの指差す先に、点々と雪のへこみがある。
「八の字の上にふたつ、たてに並んだあとがあるだろう。これがウサギの足あとだ」
「じゃあ、これをたどればいいんだね」
ニヌムが歩き出すと、サンシュは少しおどろいた顔をした。
「……ん? どうしたの、じいちゃん」
「いや。ニヌム、よくこっちだってわかったなぁ」
「え?」
「いやなに、はじめてウサギの足あとを見たやつは、勘違いしたりするからな。ウサギの足あとってのは、八の字が後ろ脚で、たてに並んだのが前脚なんだ」
「うん。ウサギって飛ぶように走るでしょ? だから、こっちが前脚かなって」
「そうか。おまえは動物を見る目があるぞ」
そう言って、サンシュは嬉しそうに笑った。
足あとをたどっていく途中、ふたりは雪の中に埋まった糞を見つけた。
「ウサギの糞だ」
サンシュは言った。
「丸くてコロコロしていて、シカのものとも似てるがな。ウサギの糞は、押しつぶされたような形をしてる」
「ほんとうだ」
ニヌムは糞に顔を近づけて、まじまじとのぞきこんだ。
村の女の子たちなら、「きたない」と嫌がるところだろうけれど、ニヌムには好奇心のほうが勝った。
だいたい、〈ヨドミ〉なんかのスカ料理では、ウサギの糞ごと内臓を食べるのだ。クロモジやタラノキなどの新芽を食べたウサギのヨドミなんかは格別の美味とされ、ほろ苦くて、よい香りがする。ほかの料理でも「ヨドミの味がする」というのが、ほめ言葉として使われるくらいだ。
村の子たちだって、ヨドミなら平気で食べる。冬の貴重な肉であるウサギを、あますことなく利用する、マタギの知恵だ。
それを思えば、ウサギの糞くらい、なんてことない。
ふと、ニヌムは近くの木に目をとめた。
「ねえ、これ、ウサギが食べたあとじゃない?」
ヤマザクラの樹皮が、一部だけ丸はだかになっていた。
サンシュが、おもしろそうな顔になる。
「ほう。なんでそう思った?」
「だって、下のほうだけ木の皮がはがれてるでしょ? これって、ウサギの背が届くところまでなんじゃないかなって」
「そうだな。じいちゃんも、そう思う」
言いながら、サンシュは内心、舌を巻いていた。
この子には動物を見る目がある。鷹使いにとって、こういう動物を見きわめる才能は、もっとも必要なものだ。
(女鷹使いとして生きるのも、悪くないかもしれないな)
ホーコが聞いたら烈火のごとく怒りそうなことを思った。
「……あれ? じいちゃん、足あとがとぎれちゃってるよ」
点々と一本の縄のように続いていた足あとが、ある場所から煙のように消えていた。
「
こつぜんと消えた足あとを観察して、サンシュはそう言った。
「とめあし?」
「そうだ。キツネなどの捕食者の追跡をまくために、後ろの足あとを踏みなおして後退したり、大きく飛びはねたりして、足あとがつかないようにするんだ。こうすれば、急に消えてしまったように見えるだろう?」
「そっか。そうやって、天敵から身を守ってるんだ」
納得したが、
「でも、どうしよう? これじゃ見つけられないよ」
「落ちつけ。こういうとき、だいたい足あとが消えたところから百尺(約三十メートル)くらいの場所で寝てるんだ。経験上な」
「そうなんだ」
すごい、とニヌムは感心した。まるでウサギと人間の知恵くらべだ。
そしてこの日は、祖父の知恵のほうが勝った。
雪にとけるように真っ白な野ウサギが、林の中で休んでいたのを見つけたのである。
(よし、林から出せ)
(わかった)
獲物をおどろかさないよう、手信号で合図を交わす。
それぞれが持ち場についた。ニヌムが林の下、サンシュが上で待機する。
ウサギは後ろ脚が発達しているため、上に向かって逃げる習性があるのだ。なので、下から追いたて、逃げてきたところを、待ちかまえていた鷹使いが仕とめる。
逆に、イノシシなどは下に降りて逃げる。このように、獲物の習性を知っておくことが、鷹使いには必要だ。
「ホーホッ! ホーヤッ!」
獣のように叫びながら、ニヌムはウサギを追いたてた。おどろいたウサギが、たまらず林から飛び出していく。
狙いどおり、ウサギは上へ上へと逃げていった。しかし、斜面をかけあがるウサギは速度が落ちる。そこを、イモギがあっさりと仕とめた。
「よーし、よくやった!」
全力で走りよってきたサンシュが、すばやくイモギからウサギを取りあげて、代わりに
「じゃあ、さっそく〈
サンシュは懐から〈
ニヌムたちの村では、動物とはすべて神さまが姿を変えて、地上へ降り立った存在だと言われている。動物の肉体は神さまのまとう甲冑のようなもので、ときに御身をわけ与えて、生きとし生けるものに恵みを授けてくださる。人間たちは〈魂送り〉をすることで、神の魂を天にお返しする。そうすれば、いつの日かふたたび肉や毛皮を手土産に、地上へと遊びにきていただける。そう信じられていた。
ふたりは手を合わせて祈った。
「神さま、ウサギの姿で我らのもとへ降り立ち、その身をわけ与えてくださり、感謝いたします」
「どうぞ、神の国へとお帰りください――」
本来なら、もっと大仰に儀式をするのが正式なものだが、今回は簡単なものですませた。
鷹狩りの場合、目を離したすきに鷹に獲物をかすめ取られてしまう可能性があるし、あまり放っておくと肉に臭みが残ってしまうからだ。
儀式をすませるやいなや、サンシュは手際よくウサギの血抜きをしていった。
内臓を取り出し、丸めた雪で腹の中をぬぐう。抜き取ったモツは、イモギに与えた。
「よし、この調子でどんどん狩るぞ」
「うん!」
村には肉屋がないので、冬の貴重な食料となるウサギ肉はどんどん売れる。炭焼きや、林業の手間仕事をするより、ずっと稼ぎがいい。
だから、大黒柱である父が亡くなったあとも、ニヌムたちはそれなりに暮らしていけた。
それでも母が畑仕事に精を出すのは、年老いた祖父が、いつまで鷹狩りをできるかわからないからだ。
だから、稼げるときに稼いでおこうというのが、一家の共通の思いだった。
母はニヌムが鷹使いになるのを嫌がるが、いずれ祖父のあとをつげば、家族を養える。実力さえあれば、鷹使いは稼げる職業だ。
だから、少しでも祖父から技術を盗まねばと、ニヌムは意気ごんでいた。
――数日後、それが叶わなくなるとも知らずに。
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