ニヌムと天空の覇者
国枝桜子
第1話
雪と氷につつまれた静寂の世界を切りさくように、ピョオオと笛のような音がした。
ニヌムは思わず、音のしたほうへと目をやった。遠くの
双睛というのは、
中でもほかの鳥と違うのは、彼らの獲物だ。
(……あ、沈んだ。きっと獲物がいたんだ。この時期、クマは穴ぐらで冬眠しているだろうから、トラでも見つけたのかな。ちょうど、トラのつがいが交尾をはじめるころだから……)
多くの猛禽が、ほかの小さな鳥や魚、小動物などを餌にする中、この高貴な鳥はトラやオオカミ、クマなどの猛獣を狩る。
猛禽の中には、大きな動物や猛獣の子どもなどを狩るものもいるが、それでも成獣した猛獣ばかりを狙うのは、双睛くらいのものだった。人間にとっては、危険な動物を追い払ってくれる、ありがたい存在だ。
だから、双睛は〈神の鳥〉だ。決して傷つけず、たとえ王であっても手を出すことは許されない。
――なんて美しい鳥だろう。
うっとりと吐き出したため息が、白いけむりに変わった。
と、そのときだった。
バサバサっと羽ばたく音がして、ニヌムはハッと我にかえった。一羽の大きなクマタカが、彼女のほうへと一直線に飛びかかってきたのだ。
慌ててニヌムは体をまるめ、顔をかばった。
間一髪だった。クマタカの爪は厚手の
ピイっと
「こンの……バカタレがッ! なにボサっとしてやがる!」
祖父のサンシュが、クマタカが驚かないギリギリの声量でどなった。
口調のわりに抑えた声だったが、雪があらゆる音を吸う静けさの中では、ふしぎなほどハッキリと耳に届いた。
まだ誰にも踏み荒らされてない綿のような積雪を、まるで一歩ずつ泳ぐようにして、祖父はこちらへ近づいてくる。
どちらかというと小柄なサンシュだったが、目を怒らせてのぞきこまれると、まるで何百年も生きた巨木のような迫力があった。
思わず、ニヌムは肩をすくませる。
「
「……ごめんなさい」
鷹使いとして生きる彼らにとって、冬は一年で一番だいじな、狩りの季節だ。山々が雪につつまれ、積雪が三尺三寸(約一メートル)を超えるころにはじめる。草木が雪におおわれるので、鷹使いが山を歩きやすくなるし、なにより木々が葉を落とすと、視界がひらけて鷹も獲物を狙いやすくなるのだ。
しかし、それにはまず、鷹を仕込まなければならない。鷹が獲物を狩るのは本能だが、人間の腕から狩りをすることは、彼らの本能に刻まれていないからだ。
いま、彼らがしているのは、〈突っ込み〉と呼ばれる最後の仕上げだ。獲物を捕まえる訓練である。
このとき勢子は、生きた獲物を放り投げたり、
今日は、生きたウサギを訓練に使った。こういうとき、勢子は危険な立場だ。おとりに投げたはずの獲物が、勢子のほうへ逃げてきたりすると、鷹は勢いあまって勢子に突っ込んでくる。
それに、おとりの獲物がうまく逃げ切ってしまうと、これもまた危険だった。勢子がまだ獲物を隠し持ってるんじゃないかと勘違いして、鷹が襲いかかってくることがあるのだ。
鷹使いの見習いとして勢子役を任されたニヌムだが、見習いだからといって、簡単な役目ではない。
それがわかるから、ニヌムはしょんぼりと肩を落とした。
そうなると祖父は弱い。愛孫に悲しい顔をされると、つい甘くなってしまう。
なんだかんだいって、自分の跡を継いで鷹使いになりたいという、この賢い孫のことがサンシュは自慢だった。
「まあ……〈
そう、不器用になぐさめた。
双睛は、この音に似た鳴き声を出す。だから、彼らの声もまた〈
「さあ、気を入れ直したら、もう一度だ。今度は気を抜くんじゃないぞ」
「うん」
ニヌムは素直にうなずいて、すっくと立ち上がると、服についた雪をパンパンと払った。
すうっと深く息を吸いこむ。冷たい空気が体の芯まで染みわたり、のどと胸がピリピリした。
冬だ。大気が乾き、生き物の体臭が薄まって、草木の青くささが消え、しかし湧水のような澄んだ香りがする――冬のにおいだ。
そして、鷹たちがもっとも活躍できる、狩猟の季節でもある。彼らを生かすも殺すも、鷹使い次第なのだ。
(だから、気を引きしめないと)
ニヌムは頬をパチンと張ると、かんじきをはいた足を必死に動かして立ち上がった。
あたりでは樹氷が、まるで満開の桜の花のように、キラキラ光っている。白と青と、そして銀色の世界を、一羽のクマタカが舞い上がり飛んでゆく。その白い腹が、空の青さに溶けこんだ。
美しい光景だった。
少女の目に、その情景は鮮烈に焼きつき、いつまでも記憶に残り続けた。
※
鷹使いにとっては、冬こそが待ち望んだ季節だが、ほかの多くの人間にとってはそうじゃない。
秋の間にたくわえなければ、あっという間に飢えてしまうし、なにより寒さが身にしみる。今年の冬を乗り越えられるかどうか、というのは、貧しいものほど深刻な悩みだ。
ニヌムの家も決して裕福というわけではない。ニヌムは五人きょうだいの長女だが、末の弟が生まれる少し前に、父が亡くなってしまったからだ。
それ以来、田畑の世話をするのは母の仕事になり、ニヌムが家のことをしなければならなくなった。
けれど、冬ごもりの間は、母がきょうだいの面倒をみてくれる。だからニヌムは、いくつかの家事を手伝うだけで、ほかは自分のことに時間を使えた。末の弟を背負わずにいられるだけでも、夢のような身軽さだった。
だから、ニヌムは冬が好きだった。水が氷のように冷たくなるので、汚れたものを洗うのは大変だったが、洗濯そのものは嫌いじゃなかった。
こっそり布を使って、〈
羽合せとは、タカに助走をつけて空に送り出す技のことだ。うまく呼吸が合わなければ、タカの足を痛めてしまう。
「〈
サンシュはよくニヌムに、そう言って聞かせた。
「いつか、その瞬間を味わいたい」
それが、いまのニヌムの夢だ。
「こら、ニヌム! いつまでやってるの! 洗濯ものが凍ってしまうでしょ!」
洗濯をサボって羽合せの練習をするニヌムを見つけ、母のホーコが叱った。
この時期、ぬれた洗濯ものをいつまでも外に出していては、たちまち凍ってしまうのだ。だから外干しはせず、囲炉裏で乾かす。
ホーコは怒り顔で続けた。
「言っておきますけど、わたしはまだ、あなたが鷹使いになるのを認めたわけじゃありませんからね。じいちゃんを見てごらんなさい。若いころ、うっかり鷹の爪に引っかかれて、うでに大きな傷が残ってるでしょう。女の子の肌に傷が残ったらどうするの」
「そんなの気にしないよ」
「あなたがよくても、男の人は気にしますよ。嫁のもらい手がなくなったらどうしますか」
「いいよ、それでも」
まだ数えで十のニヌムにとって、〈結婚〉と言われてもピンとこなかった。
そんなことより、自分の鷹を得ることのほうが、よほどだいじなことに思えたのだった。
母が呆れた顔になる。
「そんなこと言って、結婚しないなら、あなたどうやって生きていくの」
「鷹使いの中には、結婚しないで、狩りをしながら生活している人もいるよ。わたしも、そうやって生きていくつもり」
「現実は、そんなに甘くないわよ。大人になればきっとわかるわ」
「自分で選んだ道だもの。自分の責任は自分でとるよ」
「ああ、もう。ニヌムの頑固なところは、間違いなくおじいちゃん譲りね」
そう、ホーコはため息をつくのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます