第3話

 それは、小さいけれど気持ちのよさそうな店でした。

 出来たばかりのように真新しすぎず、かといってっても古びているわけでもなく、まるでずっと昔からそこにあったように、ひなびた田舎の風景にすっかり溶け込んでいます。

 藍の匂いがしそうなのれんに「とんとん庵」と白く染め抜かれた文字が躍って、よく磨き込まれたたたきの隅にちゃんと盛り塩がしてありました。


「…ちょっと入ってみようか…」

 

 校長先生は、ふとそんな気になりました。

 夏休みが近くてもう給食がなく、おなかはすっかりぺこぺこでしたし、何より校長先生はおそばが大好きでしたから。

 それに、キャンプをしようと言う思いつきですっかり嬉しくなって、なんだか祝杯でもあげたい気分でしたから。


「こんにちは」


 のれんを片手でひょいと上げて、先生は店の扉をがらがらと開けました。


「へい、らっしゃい」


 奥から誰かが応えました。

 おそらくこの店の主人でしょう、法被を着て和帽子を被ったかっぷくのいい後ろ姿が、逆光を浴びて黒く大きく見えます。

 カウンターのほかには二人掛けと四人掛けのテーブルがそれぞれ一つずつの小さな店でした。

 手造りらしい素朴な木の椅子には、やはり手縫いらしい藍の絣の座布団が引いてあります。

 店にほかに客の姿はなくて、校長先生はカウンターに座りました。

と、すぐに桃色の太い腕が延びてきて、目の前におしぼりとお茶が出されました。

 校長先生はやけどをしそうな熱いおしぼりで手をふきました。

 それから、おしぼりを広げてぐるりと顔もふいて、すっかりさっぱりしたところでコップのお茶をごくごく飲みました。

 そば茶です。

 それも、ほどよく冷えていて香りの高いものでした。


「…うまい」


思わず声がもれました。

校長先生は、これでも味にはうるさいつもりです。

お茶ひとつをこんなに丁寧に入れる店のそばはきっとうまいにちがいない…。  

そう思いながら、厨房に声をかけました。


「冷やしとろろと、それから…冷や」

「かしこまりました。

…おや、校長先生じゃありませんか」


先生はえっ、と思って薄暗い奥に目を凝らしました。

誰だろう…? 

声の主はかまわず続けます。


「冷やですかい。ようく冷やした冷酒もございますよ」

「…それなら冷酒にしようか」

 

 主人は薄闇の中で水を張った大なべを火にかけると、冷蔵庫を開けて中の物を取り出しながら言いました。


「なんだか、ご機嫌ですね」


「うん、ちょっといいことを思いついてね」

 

 相手の正体がわからないまま、先生は答えました。

 ここは近所だし、大方、昔教えた生徒かその父兄あたりだろうと思ったのです。


「へえ、それはようございましたね。

 で、どうされたんですか?」


「うん、実は夏休みになったら、学校でキャンプをしようと思ってね。

 と言っても、飯盒でご飯を炊いて、校庭でキャンプファイヤーをするぐらいだけれど」


「そうですか。子供たちは喜ぶでしょう」


「うん、二人きりの生徒がお盆過ぎに引っ越してしまうから、思い出にもなると思ってね。

 それから、閉校になってしまう学校へのお礼とねぎらいの気持ちもあってね」

 

 白い毛のたくさん生えた桃色の手が、今度はお酒の入った器とグラスを並べました。

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