日下美由紀

アリッサは急遽ラボに向かってしまう。


家に取り残されたわたしは、血で汚れた椅子に居座る『アリッサには見えていなかった』小型のクリーチャーと見つめ合う。


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10分ほど前の話。


アリッサと話を終えた小暮さんとすれ違う、疲れているのだろうか顔が真っ青。

小暮さんはその後、榎本さんとラボに向かった。


わたしはアリッサに呼ばれて個室に入る。

室内には僅かだけど、はぐれ堂で出会ったクリーチャーの気配『纏わりつくような粘着質の冷気』忌々しい邪気を感じた。

この2日間、チームは混乱している。

理由は教えてもらえないが、混乱の発端は小早川の白昼夢だということは判る。一々気に入らない女だ。

そのチームのヒリヒリした緊張感から、わたしも神経が過敏になっていた。

その不安定な心理が原因で昨夜の体験を気にして過敏になっているのが僅かな邪気を感じた理由だと、勝手に府に落ちていた。


座った席から、その椅子が死角だったこともあるが、気配は感じていたのだからクリーチャーに気づかなかったのは迂闊だった。クリーチャーが小型とはいえ。


アリッサの話は、聡太郎様が協会の任務でしばらくは戻らないこと、明日からは学校に通い小早川にも聡太郎様のことを話しておくこと、など。


その話の途中で、わたしの頭の中には知らない女性の声が聞こえていた。


『美由紀、アリッサに気づかれずに聞きなさい、気づかれたら山村聡太郎の命は永遠に失われます』


『詳しい話は美由紀だけが家に残ってから話します、妾の分身が美由紀の正面の椅子に居ます、分身は見鬼の美由紀には見えますがアリッサには見えません、アリッサが分身の存在に気づけば全ては終わり山村聡太郎が戻ってくることは永遠にありません、美由紀はアリッサが家からいなくなるまで分身に気づかないフリをしてやり過ごしなさい』

声はアリッサの話をわたしが聞き漏らさないよう配慮しながら、ゆっくり丁寧に語りかけている。クリーチャーと気遣いという、意外な組み合わせに少し戸惑う。


アリッサの話が終わり、わたしは席を立った時。

意識しないように考える余り不自然な間を作ってしまい、慌てたわたしはクリーチャーを凝視してしまった。

嗚呼、もう終わりだ。わたし馬鹿、聡太郎様ごめんなさい。聡太郎様を独りで逝かせません、わたしも死にます。

感が良く鋭いアリッサなら、不自然なわたしの視線から簡単に気づいてしまうだろう。

わたしは自分の命を投げ出してでも救わなければならない聡太郎様が助かるチャンスを、こんな間の抜けた失態で潰してしまったのだ。


目に映るクリーチャーは、二股の尾をもつ短い白蛇が赤い一つ目を咥えている。大きさは10センチにも満たない姿だった。

赤い一つ目とわたしの視線が合うと、クリーチャーもわたしの失態に気づいたようで『あっ』と間の抜けたクリーチャーの声がわたしの頭の中に響いた。


咄嗟に訳も分からず策もなく考えなしに「これは?」などとアリッサに尋ねてしまった。

何を血迷った、最悪だわたし。失態に失態を重ね恥の上塗り。これはもう、わたしが聡太郎様を殺したに等しいのではないか?死んで償えるレベルではない。末代まで呪われてしまえ、自分で自分を呪いたい。否断じて巫山戯てなんていません、笑いごとじゃねぇーし。


しかし、アリッサは勘違いをする。

椅子には血痕があり、わたしがそれについて尋ねたのだと勘違いしたのだ。


わたしの疑問にアリッサは何かに勘づいた顔をした、その時アリッサの携帯が鳴る。

会話のニュアンスから通話相手は榎本さんのようだ。

携帯から榎本さんに指示するアリッサをポカンと見ていたわたしは、アリッサが通話を終える頃まで椅子の血痕に気づいていなかった。


わたしが余りに馬鹿正直に尋ねたものだからアリッサは、わたしに隠し事や裏があるとは思わなかったようだ。

つまり頭脳明晰なゆえにアリッサは、こんなにも愚かで不合理な失態をする輩の心理など想像だにしないのだろう。

ある意味、わたしの馬鹿が聡太郎様を救ったのだ。皮肉ですけどね。


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アリッサがいなくなると『信じられない、聡太郎が死んでもいいの?』とクリーチャーに呆れられた。

わたしは自分の失態はもう棚に上げ、聡太郎様を呼び捨てにするクリーチャーにイラッとした。


『まあ結果オーライだから、妾はかまわないけど』

わたしの馬鹿がバレてからクリーチャーの言葉遣いが軽薄だ。

彼女からは威厳というか、尊大さというか、畏怖すべき対象としての迫力が感じられない。

恐れ多いが親しみすら感じてしまう。

本当に神様なのか?


わたしはチビのクリーチャーに尋ねる。

『貴女様は、はぐれ堂にいらした化け物の分身なのですか?小暮さんは貴女様のことを神様に違いないと話していたけど御名前は?』

声は嬉しそうに答える。

『化け物って酷くない?まあかまわないけど、神様というより神様の絞りカスね、美由紀が見ている目の前のチビは絞りカスのカスっていったところかしら』


『貴女様は絞りカスなの?神カス様?』

『妾はかまわないけど口悪いよ美由紀、死にたい?』茶化すように脅す。


『失礼を承知でお話ししますが、何か人間ぽいというか、わたしたちが対象にしている神様ぽくないというか、だいたい人間の感情や言葉遣いを気にする神様は人間の都合で造られた神様でしょ?外の神々ならそんな人間の思惑なんて塵芥なのでは?』怖くないのではない、怖がっていたら聡太郎様は助からない。


『なるほどね、確かに馬鹿ではない訳だ、知識がないだけで』言い回しから、わたしのことを誰かから聞いていたようなニュアンスを感じる。

わたしに神様の知り合いはいない。


では誰がわたしのことをクリーチャーに話した?恐らく、はぐれ堂でクリーチャーに刺された時に小暮さんは分身つまり『カスのカス』を身体に埋め込まれたのだろう。


分身は山村邸で先程のアリッサと小暮さんの会談中に身体から抜け出した。

小暮さんがその痛みに気づけなかったのはクリーチャーに箇所麻酔の能力があり、気づかれずにクリーチャーは這い出て来れたのでは?

嗚呼、推測は程々にしないとマスターエックハルトに修正されてしまう。


アリッサと小暮さんの話題の中で、わたしの話が出たというのが妥当な発想だが決めつけはよくない。


『美由紀の理屈でいえば、妾の名前など人間次第なのでは?外の神々にとって名とは何ぞや』

そう言われれば人間が呼称している旧支配者や外の神々の名前が本当の名前を表しているのか?何て誰にも判らないはずだ。

そもそも外側のクリーチャーたちに、名前といった概念があることすら疑わしい。


『それでは何時迄も貴女様を貴女様と呼ばなくてはならない、嘘でもいいので名前を教えてください』


『そう?なら美由紀がつけて妾の名前を』

何でもいいなら、わたしが名づけてもかまわないのか。

そんなこと突然言われても。


ふと待機中の榎本さんの話しを思い出す、それはホロスコープの話題『美由紀ちゃんの太陽は双魚宮でしょ?だから処女宮に配置された惑星と太陽はオポジションになるの、オポジションって自分では見えない自分っていう解釈もあって』

対話は自分の投影との邂逅。

そもそも神に人格などない、人を真似て話すだけ。

ならば目の前のクリーチャーは日下美由紀の鏡像。


『ヴァルゴ』

処女宮を意味する言葉を、思わず呟いていた。


間があった、気がした。

『ヴァルゴね、判った』声色が変わる。

『美由紀、戯れは終わりにして本題に入ります、この分身はもう宿主を失い消滅するだけです、もちろん宿主とは小暮のこと、本来なら小暮に数年は寄生するはずでした、しかし事態が大きく変化して課題が発生した』その不測の事態に聡太郎様は巻き込まれたのだろう。


『美由紀、取引をしましょう、山村聡太郎が助かる唯一の方法は妾の取引に応じることです、まずアリッサに知られずに、はぐれ堂に再びいらっしゃい、すべてはそれから』


そう言い終えると、ヴァルゴの分身は塵となりサッと吹き消えた。(了)

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ハイドラ・レポート【適合者シリーズ5】 東江とーゆ @toyutoe

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