第36話 マニア大戦16 寝台車と寝る場所
先日マニア氏が言うには、中国相手のビジネスをしようとしている年配の人が、ある先輩を通じて「米河君に中国人の嫁を紹介して云々」などと言ったのを聞きつけ、その人物にその後呼ばれたとき、
「ふれあいかじゃれ合いか知らんが、群れる奴はクズです。私はそういう意味でも、結婚などしません。外国人などもっての他。私は異文化交流会の世話係ではない!」
などと言って、相手の度肝を抜いてきたそうな。
彼には実は「前科」が「2犯」ほどある。
と言っても、刑法犯でもなければ、特別刑法犯でもない。その意味では確かに彼には「前科」はないのだが、あの話はやっぱり「前科」としか言いようがないと、ぼくもたまきちゃんも思っている。
その話というのは、こうだ。婿養子の縁談を持ち込もうとした母親(DNA鑑定の必要もないほど、顔つきはそっくりです)に向かって、彼は、
わしは乞食じゃねえ!
そんな話を聞くぐらいなら、米軍の捕虜服を着て、巣鴨プリズン13番刑場で2月23日午前0時2分をもって、大日本帝国万歳、天皇陛下万歳各々三唱の後A級戦犯として絞首刑になったほうがましや!
と電話口で怒鳴って、結果的に縁談を「実力粉砕」した。
もっとも彼に言わせれば、母親に反抗したのは、人生でこのときだけだそうな。その後、父方の祖父の従弟に当たる人物から、娘の婿養子にと言われたときも、負けず劣らずのエピソードがある。これにはぼくも、度肝を抜かれたものだ。
「田舎はいいよ、空気もうまいし」
という相手に対して、こんなことを言って「ふざけた」縁談を蹴飛ばしたそうな。
「東京程度の空気にも耐えられないようなら、私は人間を辞退させていただきますわ」
その後、何かの折でその人の家に伺ったときに至っては、
「私には、田舎町の一つや二つ、叩き潰すだけの力の持合せはありましてねえ」
と、言い返したのだそうです。
しかしこのいびつさ、良かれ悪しかれ、彼の生き抜く原動力となっていることは間違いないけど、なんだかな。
同じような傾向は、瀬野氏にもあるようだ。
「理想の女性、ですか。いや結婚相手でさえね、そんなものは砂漠で金を見つけるようなものですな。まあ、大宮さん御夫妻はお幸せのようで慶賀に堪えませんが、結婚すれば誰もがそうなるなんてことはあり得ません。米河さんのエピソードにはノーコメントですが、私の見解につきましては、今述べたところで御賢察ください」
ここにも両者の違いが見えないわけでもないが、彼らの言動を聞くほどに、共通の土台があることに、否応なく気づかされる。
それらの相違は、何も鉄道「趣味」に関してどうこうだけではなく、もはや、人間全体の根本的な相違の次元での話。ぼくに言わせれば、そこまでかたくなにならなくても、とは思うが、そんなことを彼らに言ったところで、言われた側から何百倍返しを食らうのがオチ。茶化す余地さえない。
くだらねえ結婚生活なんて送るぐらいなら、それこそ、大正時代の寝台車のように、おねえさんを買って移動中の寝台で同衾(「どうきん」~同じベッドや布団で複数人が寝ること。男女の性別は不問)しつつ何とかかんとか・・・、そのほうがよほどましですわ。
あ、でも、出稼ぎ外国人の「オニイサンアソバナイ」は、勘弁ですよ。
あるいは、O駅前中筋あたりに夜な夜な出る「肉風呂寄っていかない?」の客引きオバサンとかね。ヘンな病気までもれなくついてきます、ってか?
あ、先日は中筋を自転車で夜通ったとき、「肉風呂ノーサンキュー!」と叫んで走り去ってやりました。客引きのオバハンども、大笑いしていました。今度は何を言ってやろうかと、今あれこれ、考えているところです。
そうそう、終戦直後に広まったあの言葉と掛けまして、パンパンパン、何とか屋(某県の老舗パン屋)のパン! と叫んで逃げてやろうとも思いましたが、そのパン屋に迷惑がかかるなと思って、それは、やめましたけどね」
と、マニア氏。
吐き捨てるような口調が、最後はオチャラケさえ見せる話しぶり。
瀬野氏は苦笑しつつ、その話のバトンを受けとって語る。
そういう信楽焼の酒飲み狸の親玉みたようなおっさんの下品きわまる与太話はさておきましてですね、実際、大正時代には3等寝台車車はなく、寝台があるのは1等と2等だけでした。
全般的に今ほど日本人の体格は大きくありませんでしたが、その割にはそれなりの広さでしたから、当時の男女が同じベッドに入っても何とかなるぐらいのスペースはあった。それに加えて、寝台料金は高かったですから、それなりの所得のある人しか利用できませんでしたけど、中には、そういう行為に走る人もおられたわけです。
当然、鉄道省はこの状況を問題視しましたね。
連れ合ってくるとか、途中駅から合流するとか、それこそ、出発駅では奥さんの見送りを受け、途中駅から不倫相手と合流、って流れが、その典型例です。
そういうパターンばかりでなくてね、寝台客相手に「客引き」みたいなことをする女性もいたようですな。鉄道史料あたりでも、当時の寝台車の資料が時として紹介されますが、その解説あたりを読んでいけばわかりますよ。
ちなみに3等寝台ができたのは、1931年、昭和に入ってからです。
「鉄道史料」なんてもの読む人間がどれほどいるのだとツッコミたくもなるが、「トーシロ」にそんなことはさせないぞと言わんばかりに、マニア氏が即座に応戦。
「そういえば、西尾(克三郎)さんのライカ鉄道写真集でも、2・3等特急の「さくら」の3等寝台からの写真が何点か紹介されていましたな」
とのマニア氏の弁に、瀬野氏が返す。
当時は3等寝台と言っても、そうそう乗れるシロモノではありませんでしたからね。とはいえ、当時の3等寝台車の寝台幅はご存知の通り52センチしかありません。これは20系時代まで続いて、70センチに広がったのが、1972年からの14系14型で初めてです。しかも、当時は3段ですからね。2段になったのは、1974年の24系25型からです。
いかんせん三段で52センチの寝台では、下手に起き上ったら頭も打ちかねないし、横になっていても、寝返りも打てなければ、そこで着替えさえもできません。
いくら当時の人の体格はそれほど大きくなかったと言っても、それでは、男女の行為なんて、無理ってものですよ。
ご存知の通りとおっしゃるが、それは諸君の世界だけだとツッコみたくもなったが、そうしてみたところで、虚しい限りの話だ。まあ、いいとしよう。
マニア氏、女っ気のない割には、彼は存外、そういうネタを出してくることもある。たまきちゃんはというと、ムッとするどころか、笑いを必死でこらえてマニア氏の弁を聞いていた。
「まあ、それでもとおっしゃるなら、できないわけでもないでしょう。個室寝台で何とか、と申し上げるしか、なさそうですな。シャワーも、こっそり二人で浴びて・・・ってところですか。まあ、あまり品のいい話ではありませんがね」
食堂車や寝台車の話をすれば、こういう人間の本質にも関わる何かが出てくるのも必然。なぜなら「食」と「睡眠」のどちらも、動物にとって生命を維持するために必要な本能的欲求だからね。ついでに言えば「性」にしたって、そうじゃないか。
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