第30話 マニア大戦10 「マニア」論

 会場であるホテルの外は、小春日和の晴天。

 しかし、この会場で行われている会話には、少しずつ、波が高くなってきた模様。日本海海戦時の東郷平八郎提督ではないが、この会場に身を置く者としては、こうも言いたくなるところ。

 

 「天気晴朗なれども波高し」。

 

 たまきちゃんの新入生の頃の「鉄研」の話が起爆剤となって、話はやがて、現在の「鉄研」の現状に。

 だがここは、当時の会員各位に迷惑が掛かるので、その詳細は伏せます。


 瀬野氏は話題を変え、今度は「マニア」という言葉を議論の俎上に乗せてきた。

 彼の「攻撃力」は、はたで見ていてもなかなかのもの。

 「ところで米河さん、あなたは中学生の頃から国鉄の人にまで「マニア」と呼ばれ、この鉄研でも先輩方から「マニア君」と呼ばれておいでですけど、そもそも「マニア」という言葉、御存じのとおり、「キチガイ」という意味も含んでいますね。もっとも、それは嫌味や非難の意味を込めて使われるものでは必ずしもなく、特にあなたの場合は、親しみや敬意をもって呼ばれていることは認めますが。敬称が「君」から「氏」に格上げになったとか、そういう問題は別としましてね」


 ぼくやたまきちゃんからすれば年下のマニア氏だが、瀬野氏よりは2歳年長。

 その分、彼との対談上は、いささか落ち着いた雰囲気が見られるのは、何とも不思議な気もしないではない。


 マニア氏はすかさず、瀬野氏に反論する。

 

 瀬野さんがどう思われようが、私は別に構いません。少なくともあなたが述べていることは、きちんとした見識に基づくものであり、それが私と相容れなかったからと言って、こちらがケチをつける筋合いのものではありません。

 ところで、あのレイルウェイライターを「自称」された種村直樹氏は、マニアというのは「偏執狂」という意味があると、ジャーナルやタビテツの記事において、しきりに書かれていましたね。

 よって、「マニア」という言葉を使わず「レールファン」という言葉を使おうとか何とか。

 どうでもええわい、そんなもん。

 辞書を引けば、確かに、「マニア」にはそういう要素がないわけではないですが、「偏執狂」というのは「一つの」を示す「mono」という接頭辞がついて初めてそうなるわけで、「マニア」だから直ちに「偏執狂」は、少なくとも本来の言葉の意味からは、飛躍があります。じゃあ、「モノファン」という造語を作ったらどうか、さして変わらんやないか、と、食って掛かりたくもなりますわな。

 まあ、種村氏はSLブーム以前からの流れの鉄道趣味人諸氏に対しては、あまりいい印象を抱いてないのでしょう。

 それに対抗しているのが、例えば和久田康雄氏の種村著書へのあのピクトリアルの書評ですよ。あれは傑作です。大いに留飲が下がりますな。

 

 いつか父が言っていた通り、この場では、マニア氏は敬称をつけてきたぞ。

 ただし今回は「さん」ではなく「氏」だ。

 「和久田さんの種村への書評、確かに、皮肉が効いていましたな。ともあれ、私は、種村作品を基本的に評価しておりません、ってことで」

と、瀬野氏。やっぱりこいつは、呼び捨てできたか・・・。

 なぜかたまきちゃん、笑いをこらえている。

 正直、ぼくもだ。

 マニア氏は弁護士を批判するときには、よく「三百代言」という言葉を使うが、そういう自分自身が自己弁護的に「三百代言」をしているじゃないか、と言ってやりたくなったが、やめておいた。


 「皆さん、ちょっといいですか。「マニア」論はですね、「ファン」や「おたく」などと一緒で、言葉自体の問題になって不毛な議論にしかならないし、一種仲間内の「差別」を助長するようなものですから、やめた方が賢明です」

 ここでゲストのX氏がたしなめてきた。

 

 先日、たまきちゃんの高校の同級生で鉄道雑誌の編集者をしている下山信二氏(世界史が得意で、共通一次で満点を取ったほどの人だ)と電話で話したのだが、ある鉄道雑誌によれば「テッチャン」という言葉自体、もともとは鉄道趣味界内部から生まれた「差別用語」だったとか。

 ただ、仮に最初がそうだったとしても、言われた側がそれを名乗りだせば、そうでもなくなる例もある。例えば「ちゃん」付けについても、親しみを込めての場合もあれば、あえて相手を「茶化して」いる場合もあるからね、と。もし「テッチャン」が差別用語として生まれたなら、それは後者の典型例ということだ。

 ちなみに氏はぼくのことを「小(しょう)太郎」、叔母である梅小路はな(旧姓「横川」)の夫であり、ぼくとたまきちゃんが中学生のころ入院していた病院の現院長でもある梅小路太郎を「大(だい)太郎」と呼ぶことを提案した人だが、これは、英国首相の「大ピット」「小ピット」、ローマの博物学者の「大プリニウス」「小プリニウス」のように、親子(前者)や伯父と甥(後者)といった、親等や年齢の上下に基づく呼称で、同じ名前の別人物を「区別」するための手法であって、「差別語」ではない。

 下山氏は、こんな例も述べた。

 オランダの新教徒は「ゴイセン」と旧教徒らから呼ばれたが、それは本来「乞食」の意。しかし肝心の新教徒が、「返って」それを名乗りだしたものだから、もはやそうなると「差別」ではないってこと。先ほどの「小太郎」とは違った形ではあるが、差別や侮蔑のようでも、そうではないパターンだ。


 「テッチャン」というのも、それと同じ。

 今やその言葉、一般の人たちにまで浸透していて、O県北のT市の観光客誘致広告には「テッチャン 歓迎」と、焼肉を名物としている街であることを意識してこんなフレーズの広告まで出している。

 当初、実際に鉄道趣味人同士の「差別語」だったしても、T市のポスターからは、そのような面影は感じられない。

 それを見る人たちにしたって「差別語」的な要素など感じとってもいないだろうし、そんな経緯など、そもそも知らない人がほとんどだろう。

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