第19話 6月の小雨の日曜日 鉄道少年マニア君・局に行く

 海野たまき氏の日記  1983年6月X日 日曜日 より


 朝から雨がぱらついていた。今日は太郎君のおじいさんとおばあさん、それに伯父さん夫婦はそれぞれどこかに出かけて一日中いない。私も、特に大学の用事もなく、下宿先でもある太郎君のおじさん宅でゆっくり過ごした。太郎君は勉強していたような、そうでないような。いずれにしても、今日は同じ家の中で二人きり。太郎君と一緒にご飯食べて、他愛ない話をしばらくした。彼といる時が、やっぱり、心から楽しい。そんな狼のいるようなところで下宿して大丈夫かと思う人もいるけど、大丈夫。何かあってもそのときはそのときって、いつもはぐらかしている。実は、何かあってそのときはそのときを、期待している自分もいる。


 雨が降っても風が吹いても、鉄道、鉄道、また鉄道。

 鉄道の申し子・マニア君は今日も小雨の中、自転車をこいで、昼過ぎには「局」に行ってきたんだって。鉄道ジャーナルを読ませてもらったとか何とか、嬉々として太郎君に報告してきた。それを喜んで聞いている太郎君にも困ったもの。そんなことより、もっとじっくり見るべき「人」が、近くにいるでしょうが!

 でも、あのマニア君が、相手がだれであれ、鉄道雑誌をちょっと読ませてもらったぐらいであんなに喜ぶというのは、何だか珍しい気もする。(日記引用おわり)

 

 大宮(海野)たまきの回想

 久しぶりに学生時代の日記を見てみると、こんなことを書いた日がありました。太郎君に見せたら、ああ、あの時だ、と言って、マニア君の話になりました。私の太郎君への思いよりも、マニア君の話しぶりや、当時の鉄道趣味界がどうとか、そういったことが話題になりました。ということにしておきます。私たちのことは、のろけ話にしかなりませんから、ここでは申しませんけどね。


マニア氏こと米河清治氏から最近頂いたメールより

題:鉄道ジャーナル1978年関係各号購入しました

本文:大宮太郎様

 ご無沙汰しております。米河です。

 先日申上げた鉄道ジャーナル1978年8月号と10月号、それと12月号をヤフオクで入手し、久々に読んでいます。私が中2の時ですから、1983年6月のある日曜日のこと、今もはっきりと覚えています。当時の岡山鉄道管理局に行って、知り合いの職員の方に読ませてもらったものです。ちょうどその頃のこと、思い出したので、このメールにまとめてみました。


 局に行ったら、まず受付で守衛さんにあいさつし、入館手続をしました。そこは、どの会社にもある、典型的な受付でした。

 受付のボックスの壁には、週1日は休肝日を設けようなんてポスターも貼られていました。当時は何のことかさっぱりわかりませんでしたが、酒を飲み始めて30年以上も経つ今、他人事ではないので、ひどく身につまされます(苦笑)。


 玄関口には、局館内下駄履き厳禁という注意書きの書かれた、少し年季のかかった木札が置かれていました。私はこれを土足厳禁かと思って守衛の人に聞いたら、土足でいいが「下駄」がダメという意味で、びっくりした思い出があります。

 そこから階段を上がって、守衛さんに申し上げた目的地まで行きました。

 私が行っていたのは、主に2階の営業部か運転部がほとんどで、時に、4階の販売センターという部署に出向いたこともありました。

 その日は、営業部で休日出勤していた大野さんと小盛さんのお二人に呼ばれていたので、雨の中、自転車をこいで出かけました。日曜日でしたので、おられたのはお二人だけ。ノーネクタイで、しかもその日はポロシャツか何かを着ておられました。のちに営業部長になられた大野さん(岡大の先輩でもあります)に、


 「おいマニア君、この前あんたが持っとった鉄道ジャーナルのタブレット欄(読者欄)で言われとった記事だけどな、その記事の載ったのが、うちにあるで。コピーいるなら取ってやるけど、まず、ちょっと、読んでみ」


と言われて、読んだことを覚えています。

 当時コンビニで、コピーが20円か30円もした時代。それを無料で、ってわけですから、思えば罪なことしていました。

 しかし、なぜ私があの時そんなに喜んでいたか。思い当たるところとしては、鉄道趣味人としての「生い立ち」を知ることができた嬉しさからかもしれません。


 その記事は、ブルートレインブームたけなわ、1978年10月号の読者欄の記事でした。

 鉄道ジャーナルの竹島紀元編集長が思うところあってか、1ページ丸々使って、特定読者の意見を掲載しました。

 今思っても珍しいことですが、それだけ当時のブルートレインブーム下の少年ファンや、それをあおる鉄道趣味関連の業界に対する風当たりが極めて強かったことが伺われます。

 その記事は、年少者に媚びを売るような鉄道趣味業界の現状を批判し、「正道に還れ」といった趣旨の、アツいとしか言いようのない内容でした。反発するよりむしろ冷めた目で読んでいましたね。


 ちなみにその引き金は、鉄道ピクトリアル1978年6月号の読者欄に投書してきた、小松さんという方の文章でした(これは今回、はじめてじっくり読みました)。それはまさに、ブームで参入してきた当時の鉄道少年たちを「低次」とみなし、彼らを除外しても、趣味の王道を行くべきである、といった内容でした。

 鉄道ピクトリアルに掲載された読者欄の発言に対し、竹島氏は同年8月号を用いて、ピクトリアル誌に公開抗議をされました(その文章も、実は今回初めて読みました)。

 これを受けた鉄道ピクトリアル編集長の田中隆三氏(竹島氏とは親子ほど離れた大先輩で、元鉄道省職員です。竹島氏も鉄道ジャーナルを創刊する前は、ファンだけでなく、ピクトリアル誌にも投稿されていましたから、旧知の関係であることは間違いありません)が同誌1978年9月号に読者欄を用いて寄せた回答が、簡にして明。改めて読んで、度肝を抜かれました。文面だけなら私も書けるかもしれませんが、これだけ真摯に回答し、一発でトラブルの元を断ち切るようなことは、とても私には無理です。


 そんな状況下、年少の鉄道ファン予備軍に対し優しく、根気良く指導してくださった、鉄道写真家の南正時さんやレイルウェイライターの種村直樹さん、年配の方々との間に立って見守ってくださっていた竹島紀元さんといった諸先輩方もおられました。

 現に鉄道ジャーナル同年12月号では、10月号の角田氏なる人の意見に対し、私よりいくらか年上の「年少者」とくくられていた中高生を中心としたファンや理解のある大人の方が、大いに反論されていました。そうですね、それこそ、太郎さんやたまきさんの年齢ぐらいの少念たちが多数投書してきていました。さまざまな意見を載せて、私たちのようなブルートレインをきっかけに鉄道趣味の世界に入ってきた新参者を、ともに生きる仲間として扱ってくださった竹島氏には、今も感謝しています。ただ、この年齢になってみると、批判的な意見を述べられた方のお気持ちも、よくわかりますけどね。

 そもそもどんな趣味にも、「低次」も「高次」もありません。鉄道趣味界も、その例に漏れません。この手の問題、たびたび雑誌をにぎわせても、全体として何か解決したという話は、残念ながらないと言っても過言ではないでしょう。今はそれが、ネット上で行われるようになっただけで、本質はまったく変わっていません。それどころか、すそ野がなまじ広がったばかりに、世間にさらに知られるようにさえなってしまいましたからね・・・


 そうそう、その日初めて、私は0系1000番台の16両オール小窓車を、局の2階から見ました。確かあの日も、そのことをお話したと思います。

 その後2度ほど乗車する機会がありましたが、戦前の食堂車みたいで、なかなか味があってよかったですね。


 まだまだ申し上げたいことはありますが、さすがにこれ以上長く書いてもまとまりがなくなりますのでやめます。

 もしよろしければ、ぜひ近く伺って、お話しできれば幸いです。

 たまきさんにも、よろしくお伝えくださいませ。

            2017年11月**日      米河清治

                           

 追記: この件に関する鉄道ジャーナルと鉄道ピクトリアルの記事を、今日、コピーをとってお送りしました。それにしても、鉄道ジャーナル1978年12月号のタブレット欄の10代の皆さんのご意見、今読み返してみても、しっかりしています。どなたも私より少し年上の方々ですけど、こんな人達がいる限り、鉄道趣味界が滅びることはないでしょう。(メール転載おわり)

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