第12話 「すごい人」が来た!

 「すごい人が鉄研に来たので、ぜひ来てください!」


 1994年4月某日。

 O大学入学式当日の昼過ぎのO大学・学生会館。各サークルが、今年も新入生相手に勧誘にいそしむ姿を取材していた。

 鉄研こと鉄道研究会の後輩で現役会員の三宅実氏が、たまたまあって立ち話をしていたマニア氏とぼくを見つけ、血相を変えて飛んできた。

 何が起こったのだろうか?

 

「三宅君、どうしたの?」

 ぼくがまず、彼に尋ねた。マニア氏も、いささか驚いた様子だ。

 三宅氏は、落ち着きを取り戻してぼくらに要請する。

 「とにかく、米河さんだけは、ぜひともお越しください。あ、よろしければ、大宮さんも、お仕事に差し障りなければ・・・」

 ぼくよりもむしろ、マニア氏への用向きか。これで、どんな人間がその場に出現したのか、おおむね察しがついた。

 何だか、嫌な予感がした。

 マニア氏は、そこで、腹を決めたようだ。こういうときのマニア氏は、いかにも泰然として受け止め、行動する。ことが大きいほどそうだが、たいしたことでもないとき、かえって焦ったりするところが、意外ではある。

「わかりました、三宅さん。直ちに行きましょう」

「じゃあ、ぼくも、折角なので、取材を兼ねていかせてもらうよ」

 

 三宅氏の誘導に従い、鉄研のメンバーが集って新歓の例会をしている場所に向かった。

 そこには確かに、見るからに、「すごい人」が一人、来られていた。新入生とは言うものの、どう見ても昨日まで高校生でした、なんて雰囲気がほとんど見えない。

 その人物は、紺のブレザーにネクタイを合わせ、アイビールックっぽいいでたちで、鉄研の例会に現れていた。彼は眼鏡をかけていない。今どきの大学の新入生というよりは、軍事教練の教官として背広姿で帝国大学にやってきた陸士出の若手将校みたいだ。

 そこへ、牢名主? のマニア氏が、丸眼鏡のスーツ姿で出現。

 一見すると、戦前の日本軍の将校と文官が何やら対談でも始めるかのような風情だ。互いの素性を明かす挨拶が済むと、早速「鉄道談義」。

 

 目の前で始まったのは、これまでにない緊張感にあふれた鉄道「趣味人」同士の、「鉄道談義」の形をとった「対戦」。

 その火ぶたが、気づけば切って落とされていた。

 ぼくは、**ラジオ局のパーソナリティーで、O大学の新歓の様子を取材に来ていて、この会のOBの一人でもあることを告げ、名刺を渡し、取材用のマル秘と書いた大学ノートを出した。これまでメモしていたページから、さらに一つめくったうえで、「軍事教練の教官」と「帝国大学の教官」にそれぞれ、住所、氏名、生年月日、在籍(卒業)した学部名などの事項を、そのノートに書いてもらった。普段このノートを使って人に住所などを書いてもらうことはないのだが、このときは、こうしておいたおかげで、あとあと、大いに役に立った。そのことは、追って述べる。

 早速、彼らの「対戦」が始まった。

 最初からこんな調子だ。先が思いやられるな・・・。

 ともあれ、この時の彼らの対話を、当時ぼくがつけていたマル秘取材ノートの記述と記憶に従って、ざっと再現してみたい。


 「私の生年月日は、1971年4月26日です。何の日か、御存じですか?」

 「特急「おき」が伯備線経由で新大阪―出雲市間において運行を始めた日ですな。布原のD51三重連で湧いている頃やないですか」

 予想外の手ごたえを感じたのか、瀬野氏の顔、いささかひきつる。

 「ええ。ブームに乗った低次なファンがあちこち湧いていた頃です。業を煮やした機関士が、お立ち台に差し掛かった時に煙で機関車を覆ってみたり、ねぇ・・・」

 一方のマニア氏、そのくらいは想定内なのか、まったく平静そのもの。もっとも後で聞くと、相当な「手ごたえ」のようなものを感じたという。

 「のっけから厳しいことをおっしゃるなあ。低次というのはちょっと、とは思うが、わからんでもない。ああいう手合いは、そう言われてもしょうがない」

 「私が高次とは、もちろん申しませんがね」

 譲歩構文を使いつつも、瀬野氏は自己の主張をきっちりと押し出してくる。

 それをマニア氏が、受けて立つ。

 「私も、自分が高次だとは思っておりません。低次と言われたくはありませんがね」

 「ブルートレインのブームもありましたが、あれもまあ、今思うとひどかったですな。低次や高次を通り越して、幼稚そのものを地で行くブームでしたわ。忌まわしくもない」

 「私は、その世代の若干下のほうですが、確かにね。まああの状況は、年配の昔ながらの鉄道趣味人が「低次」呼ばわりしたくなる気持ち、今思えば、わからないこともないですよ。ただ、それがきっかけでこの世界に入ってきたところもあるので、私は、そう否定する気はありませんけど。とりあえず、その手のブームの話はやめましょう。ところで、瀬野さん、あなたは現在、どの雑誌を購読されておいでか?」 

 マニア氏の問いに、瀬野氏が返す。

 どちらも、存外「手ごたえ」を感じているようだ。

 「鉄道雑誌は基本的に立読みですが、ファンは時々買います。あとは、鉄道史資料保存会が発行している鉄道史料は必ず買うようにしています。おおむね季刊ですが、一級品の資料を毎度毎度出していますね。ところで米河さんは何をお読みで?」

 「私は、ピクトリアルとファンを時々買うのと、あとはプレス・アイゼンバーンのレイルですな。ちなみに最近は、西尾克三郎さんのライカ写真集をよく読んでおります。ジャーナルは、高校生の頃までは買っていましたが、今はどうも、買う気が起こりません。タビテツ(旅と鉄道)」も一緒ですわ。種村の文章、高校生の頃までは好きでしたが、今頃は、中高生と群れての日記ばかりで、正直嫌気がさして、離れましたね」

 「西尾さんのライカはいいとして、タビテツですか、あれは旅行雑誌ですね。あれを鉄道雑誌とカテゴライズするからややこしい話になるのですよ。そうそう、米河さんが今ご指摘の、あの種村ですけど、私は、全く評価する気になれませんな」

 「そうですか。私も、種村の文章は、最近のものは全く読む気がおこりません。ただ、先ほども触れましたけど、初期から1980年代半ばまでのものは、結構好きですがね。まあそこまでおっしゃらなくともよいのでは。それはそうと、1970年代に鉄道ジャーナルによく広告を出していたヨーコーシャって会社、ありましたでしょ。どうなったんでしょうか? 瀬野さん、ご存知かな?」

 「ヨーコーシャですか。1980年代初頭に経営悪化で倒産していますね」

 「そうでしたか。気が付いたら広告が出なくなっていましたからね・・・」

ちょっと思うところがあったが、ここは、黙って彼らの話を聞いていた。

 「毎日新聞社が毎年出していた「世界の鉄道」という雑誌がありましてね、私は、それを母方の伯父に幼少の頃から見せられて育ちまして、それこそ、そこで紹介されていた蒸機がまだ走っているものだと信じていましたよ、子供心にも」

 「私は、蒸気機関車には特別な思い入れはありません。小学校に入る直前に国鉄の営業運転が終了したぐらいですからね(1975年12月)。でも70年代後半には、子供向けの本にも蒸気機関車を詳しく紹介していた本がまだまだありましたし、何といっても、平凡社が出していた阿川弘之氏の「蒸気機関車」なる新書がよかったです。あれで、日本の蒸気機関車史をしっかりと概観できましたからね」

 後で瀬野氏に聞くと、あの信楽狸の親玉のおっさんの額面通り聞くわけに行きますかいな、とか何とか、散々ぼくに食って掛かられた。

 そやけど、知らんわ、そんなこと(苦笑)。

 「あなたの蒸気機関車観については、おいおいお聞きするとしましょう。どう見ても、本当に思い入れがないとは、思えないのでね。それはしばらく置いておきまして、ちょっと話がずれますが、軽便鉄道は、どうですか? 私は神戸ですから数度しか来ていませんが、元下津井軽便鉄道の下津井電鉄は、末期のあのメリーベルなる電車、いやあ、あれは遊園地の「お猿の電車」然としたシロモノでしたけど、それ以前は、いかにも昭和のローカル私鉄らしさにあふれていましたな。ただ、あの何ですか、「赤いクレパス号」と称された「落書電車」は、ちょっとねぇ・・・。岩井小百合命とか、ほら、この写真をご覧あれ。確かこの岩井小百合という御仁は、アイドル歌手でしたな、私はあまり詳しくないので、よくわかりませんが」

 「確かに彼女は、元アイドル歌手ですよ。私が中1のときに彼女がちょうど中2で、横浜銀蠅のマスコットガールというコンセプトでデビューしています。その後、横浜銀蠅のくくりからは抜けましたが、それと同時に、あまり露出もなくなりました。私より1歳上の女性アイドルです。実は私、ファンクラブに一時期入っておりましてね」

 「しかし、ここまで大きく、しかも、「合」の字の「口」の部分をわざわざ「ハートマーク」にして赤で、ねえ・・・。まさか、米河さんが書かれたとかおっしゃいませんよね。この写真は確か1988年の5月頃に撮影したものですけど・・・」

 「実は、それ書いたの、私です。あなたが訪れられた少し前に、ちょうど、鉄研の新歓旅行で下電にも参りましてね、丸亀からフェリーで下津井まで入ってきましてね。お恥ずかしいですが、その際私が書いたものです」

 

 瀬野氏、唖然としている。ぼくは、平静を装っていたが、実を言うと、必死で笑いをこらえていた。あとでたまきちゃんにこの話をすると、大笑いされた。

 そういえば、その新歓旅行、ぼくも付き合った。

 こいつ確かに、この落書きしていた。

 ご丁寧に、持参のマジックでね・・・。

 

 マニア氏は、さらに続けた。

 「児島まではね、瀬戸大橋開業までは国鉄線の連絡もなく、あそこまでバスで行くのは大変でしたから、先輩のクルマで一緒に行ったこともありますし、下電バスが出している無料のボート専用バスに乗って行ったこともありますよ、高校生の頃には。そういえば、弊会OBで医学部出身の石本秀一さんは、バスの運転手とも知り合いで、途中の児島駅前で降ろしてもらったなんて話もありました。ギャンブラーのおじさんばかりで、それはそれで楽しい移動ではありましたな。私は、たばこは吸いませんが、いかんせん、当時のああいうバスですから、たばこは、しゃあないと言えばしゃあないかなと。もっとも、禁煙車ができてこの方、煙草を吸わない以上、禁煙車優先で乗車しておりますけどね。嫌煙権訴訟ありましたでしょう。あれは確かに、裁判所は国鉄を一応勝たせはしたけど、実質的には、訴えた側の圧勝でしたな、長い目で見れば。当時の国鉄のメンツを立たせてやって、ま、「花」を持たせて、訴えた側と、その背後にいる人たちに実利=「実」を取らせたというわけですな」

 少し間をおいて、瀬野氏がおもむろに口を開いた。

 「たばこ云々、とりわけ嫌煙権訴訟の流れにつきましては、「メンツ」とか何とか、ちょっと引っかかるような表現はありますけど、それはともかくとして、米河さんのおっしゃるところに概ね同感です。しかし、何ですか、明らかに年上の先輩方に初対面で失礼かつ言いにくいですが、一体全体、どういう神経をされていらっしゃるのですか? バスでは金がかかり過ぎるからとはいえ、軽便鉄道を追っかけるために児島まで無料のボートバスに乗って行ったり、そうかと思えば岩井小百合命と大書きしたりする米河さんもですけど、その石本さんとおっしゃる大先輩もね。それはともかくとしまして、下電の茶屋町―児島間の廃線跡は、いずれ自転車ででも、たどってみたいですな」

 どういう神経をしているのかと言われるのは君もじゃないか、と、瀬野氏に向かって言いたくもなったが、言われている側も側だから、ほっといて、さらに話を聞いた。

 「下電の廃線跡、本四備讃線の高架右側手に見えますよ。私は毎月、児島までマリンライナーで散髪に行っておりまして、その散髪屋のおにいさんも鉄道が好きでしてね、中学生の頃は、岡山駅までバスか親のクルマで夜中に行って、駅に入って朝までブルートレインを撮影していたこともあったそうですよ。彼は、私より1学年上ですから、あなたとは、中学・高校とも入れ違いということになりますな」

 「でしたら、典型的なブルートレインブーム参入組の方ですか。まあ、あのブームについての論評は先ほど申しあげましたから、これ以上はしませんけど。夜中にガキどもがブルートレインの写真を撮りに駅に入り込んで、PTAまでしゃしゃり出てきて夜中にブルートレインの撮影に駅に行くなとか何とか・・・SLブームが低次なら、こちらはもはやねぇ、しつこいが、あれは高次とか低次とかの次元を通り越して、幼稚としか言いようがありませんでしたな」

 「しゃしゃり出て、とか、赤青黄色のリボンのテントウムシならまだしも、当時のPTAは、低次加減では、どっちもどっちと思いますけどね。まあともあれ、ブルトレブームの少年たちが低次であったか幼稚であったか、はたまた実は高次元の世界にいたのかは、ここで私からはあえて論じないでおきます。ところで瀬野さん、そういうことをおっしゃるぐらいなら、ブルートレインはお嫌いなのかな?」

 「てんとう虫のサンバの歌詞を引合いに出されるとは、あなたは年齢にしてはいささか古い時代の趣味の傾向のある人とお見受けしました。そんなところからも、あなたが幾分年長の諸先輩方から可愛がられてここまで来られていることは、よくわかります。ブルートレインにつきましては、私は別に嫌いではありませんし、趣味的にも興味を持てる余地は十分ありますがねぇ、そんなものより、蒸気機関車のほうが、よほど興味深いですよ。私は、英国製の輸入蒸気のデザインが好きでしてね・・・」

 「そうきましたか。私はね、阿川さんの新書で知って以来、ドイツはボルツィッヒ社製のテンホイール8850の運転台の山型食パンに似た窓枠に魅了されましてねぇ。国産でしたら、C51、C53、それにD50ですな。アルコのパシフィック8900は、何か、ガサツなデザインですなぁ。弁慶号一派はまだしも、アメリカ製は、ちょっと」

 「ボルツィッヒは、英語でいうところのスペリングが、べー、おー、アールのえる、えす、いー、げー、ですから、ボルズィッヒと読むのが妥当でしょう。ドイツ語の「s」は英語と違って原則濁りますから。例外的に、オーストリアでは、「s」が濁らない地域もあるようでして、「ザルツブルク」は、地元近辺では「サルツブルク」と言われているようです。ま、そこらはちょっと、細かい話ですし、やりだしたらきりがないからこの辺にしておきますけどね。それはまあいいとしまして、アメリカ製の機関車のデザインに対するご意見ですが、私もおおむね同感ですな。ガサツというのが何でしたら、大味なデザインとでも言いますか」

 「大味なデザイン、そうきましたか・・・、確かにね。もう少しよく言えば、大陸的とでもいうべきでしょうが・・・。鉄道国有化法施行前の官鉄の最急行の牽引機は、アメリカンロコモティブに吸収されたスケネクタディの6400でしたが、デザイン的には、同じ2Bでも、英国ネルソンの6200のほうが、しゃれてますな」

 「ニールスンの6200ですな。あれは気品があってよろしい。テンダーのデザインも秀逸で乙です。ただ、デューブスの1070は、種車が同じ6200でも、テンダーを取っ払ったが最後、サイドに水タンクやらついてねぇ・・・、お世辞にも気品があるとは言えませんな」

 「1070ね・・・ダブス社製の、あのタンクですか」

 「ええ。ところで、ネルソンとニールスン、ダブスとデューブス・・・お互いわかっての上での話ですからいいですが、外国語を日本語で表記するのは、難しいですな。英語の「v」は「ブイ」だが、ドイツ語では「ファオ」で濁らない。だから、「ハノーバー」ではなくて「ハノーファー」と読むべきであるとか何とかね。この筋でも、そういうことにうるさい御仁がおられますからねぇ・・・」

 「確かに仰せの通りです。それは認めますよ。でも、英国の「ハノーバー王朝」は、濁ってもいいでしょう」

 「英語では確かに濁ります。もっとも今は御存じの通り、「ウィンザー朝」ですがね。二度の大戦で、敵国の地名を名乗るのはいかがかとなってのことですが」


 こんな調子で、初対面の相手にも関わらず、周囲の反応などお構いなく、平然と鉄道の話。そのベースは、傍で見ても共通項があってのものであることは確かだ。初対面の割には、初めから、ディープなという言葉さえも陳腐なほどの濃さ。周りがついていけようがいけまいが、一切、お構いなし。周囲は誰も、彼らを止められない。第一、止める理由がなさすぎる。いかんせん、鉄道研究会と名乗った団体の集まりで、鉄道の話をしているわけで、そもそもの「筋」が通った場所での会話だからね。

 しかし、こいつら一体どういう神経しているのかと、一応鉄研出身者とはいえ、それほど鉄道知識があるわけでもないぼくには、不思議でしょうがなかった。

 その数日後だったか、三宅氏と同学年の京橋正泰氏が、瀬野氏と会って「マニア氏がもう一人」などと表現したそうだが、それに対する米河氏と瀬野氏の反応は、こう。

 「あの「マニア」のおっさんなんかと、一緒にされたくもないですな!」

(瀬野氏)

 「マニアを通り越した化け物と同類やとぉ? こちらから願い下げや!」

(米河氏)

 相手のいないところで、どちらもが相手に対して「同類」たることを固く否定して(というよりも、相手を相互に「罵倒」して?)いたという。

 要は「オレはあいつとは違う」と相互に宣言している、ってわけだ。

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