第7話 煙草と巻紙とセロテープの煙

1983(昭和58)年4月29日(祝)岡山市内の河東敏氏下宿にて


 2日前の水曜日、私は函館から「里帰り」してきた太郎君を連れて、鉄研の例会に行った。彼は函館の中高一貫校を病気のため中3終了とともに退学し、大検を受検して昨年に全教科合格していた。あとは、大学受験のための勉強さえしていればいい状態。時間は融通が利く。

 大学のサークルの例会というものを、彼は高3の年で経験したことになるけれども、あの少年はすでに小5で体験しているから、今年の1年生よりもある意味はるかに先輩ということになる。

 同世代の人との付合いが減っている彼には、こういう刺激が必要だと思ったので、折角だからというので、せいちゃんこと米河君を介して鉄研の例会に初めて顔を出した。確かにマニア君をさらにパワーアップしたような人もいたが、そうでない人のほうが多かったように思えた。

 18時過ぎに解散になった後、学館の外で、会長の河東さんから声をかけられた。これから自転車で旭川の向こうの下宿まで戻るという。

 「今度29日の昼でも、うちの下宿に大宮君と一緒に来てみるか? せっかくやさかい、いろいろお話聞かせていただけたらありがたい。米河君も呼ぶけど、ええけ?」

 マニア君とはすでに話ができている模様。太郎君に、どうする? と尋ねたら、じゃあ、ぜひ伺いますというので、私もいっしょに行くことにした。

 なぜマニア君を? 

というと、自転車で道案内その他を兼ねて呼ぶとのこと。


 4月29日(天皇誕生日)の昼過ぎ、太郎君と私はマニア君の家に自転車で行った。今日は祭日。彼の自宅にある叔父さんが経営している塾は、連休関連で休みとのこと。

 昼食を終えたマニア君、叔父さんに

 「ほな、ちょっと河東さんの下宿に行ってくる。帰りは夕方や」

とだけ言って、私たちとともに自転車で河東さんの下宿に向った。今日は学生服ではない。

 新鶴見橋という少しきつめの勾配のある橋を渡り、警察署とS高校のある細い道路に入り、ちょっと行った先に、河東さんの下宿「今岡学生アパート」があった。この頃の典型的な学生向けで風呂やトイレ、さらに公衆電話も共用という建物の2階のB21号室が河東さんの下宿先。河東さんは私たちを部屋に入れるとともに、マニア君には近くのコンビニで何と何を買ってくるようにと言って、メモとお金を渡した。

 彼は、早速出かけていった。4人も入ると、結構窮屈になる。

 「どや、海野さん、大学生活は慣れたか?」

「おかげさまで、随分慣れました」

 河東さんはものすごく優しい「京ことば」を使って話される。

 それでいて、一般に言われているような「嫌味」はない。

 

 「あの米河君やけど、6年生の初めまでO大の近くにあった養護施設で過ごして、その間の経験からか、いささか攻撃的な言動をすることがあるようやが、人間不信があるのかもしれん。君らも、長い目でみてやってくれへんか。お願いするわ」

いろいろあったのね、彼も。河東さんがマニア君と私たちを呼んだ理由と、それに加えて今のタイミングで彼を買い物に行かせた理由が、この時点でなんとなくわかった。

 「彼から聞いた限りの話やけど、養護施設ちゅうところは、結構閉鎖的なところで、彼からしてみれば、自由を束縛されるどころか、そこにいる子どもの人生をかなり軽うみとる節のある場所やと。実際その現場を見たことないし、職員の人らもそんなつもりでやっとるわけやないやろから、軽々しくは言えんが、彼の叔父さんにでも聞いてみたらええ。叔父さんはなんせ、大検を使ってO大の二部の法学部に行って、授業料なんかを免除で5年間過ごした人で、その施設が2年前、郊外の丘の上に移転したけど、その移転の話を聞きつけて、そんな辺鄙なところで勉強になるか! ゆうて、児童相談所や施設の職員さんらと掛け合って、引取ったぐらいや。米河君も、叔父さんとよう似とるところがある」

 「今のところ、ぼくやたまきちゃんには、彼、激しい言動はしていませんけど」

 「それならええ。うちに来とるときは何ともないが、小学校では、時々ひと悶着あったらしいさかいなぁ。せやから、叔父さんが中学受験の勉強をさせたんや」


 マニア君は戻ってきたのも束の間、なぜか、また出ていった。

 「なんか、おもろいことがありそうやナ」

といいつつ、河東さんは太郎君と私にジュースを勧めてくれたので、いただくことに。少年は、ほどなく戻ってきた。なぜか、シュンとしている。

 「河東さんすんません、たばこ落として、自転車に踏まれてしまいまして・・・」

 「しゃあないなあ・・・」

と言いつつ、河東さんは、とりあえず少年にジュースを勧めた。

 それから早速、たばこの封を開けて、つぶれてないものとつぶれたものを峻別し、つぶれた数本を別の紙において、その上に置いた。太郎君が思わず尋ねる。

 「え、何されるんです?」

 「セロテープ巻いて吸うわ。何かもったいないやないか」

 河東さんは、つぶれたたばこを近くにあったセロテープを巻いて、試しに1本吸い始めた。頃を見て、シュンとしていたはずの少年が、おそるおそる尋ねた。

 タバコの火が、ちょうどセロテープに差し掛かろうとしていた。

 「あの、美味いですか?」

 「アホ、美味いわけ、ないやろ!」

 河東さんは笑いながら、答えた。太郎君と私は、思わず、顔を見合わせて笑った。もう4月後半。外はぽかぽかと陽気に包まれている。西日の当たる部屋なので、これからさらに暖かくなる。少し開けた窓の隙間から、煙草と巻紙とセロテープの煙は、自由を求めてか、そそくさと狭い部屋から出ていった。さすがに、途中で火は消された。

 この日は、大学のことや鉄研のこと、それから、旅のことなどをいろいろ聞いた。

河東さんは鉄道も好きだが、それ以上にローカル線の旅が好きな人で、この頃新車だった気動車のキハ40、キハ47などに対しても、いかにも「マニア」な先輩方と違い、好きな車両のひとつとして、会誌に堂々と書いていた。

 ちなみにこれらの気動車については、鹿田の医学部の人たちや香西さんなどは、

 「新車=自分たちの好きな気動車を追い払う「敵」」

といった目で見ていて、実際ある人は、それらの気動車の「朱色(首都圏色)」を赤=社会主義に見立てて「迫りくるアカの脅威」などと会誌に面白おかしく書いていたほど。マニア君はというと、趣味的には確かにその人たちに近いところがあるけれど、どういうわけかその真逆の筋の人である河東さんに、しっかり目をかけられている。

 河東さんの「旅」の話は、鉄道に対して深く極めようとしているマニア君や医学部などの人たちとは明らかに異質だそうで、それは私も同感。だからこそ、私にも十分理解できる範囲だったし、聞いていてとても楽しかった。そのうちのいくつかをご紹介します。


 青春18きっぷの有効期間内のある日、徳島まで用事で行ってくる、という名目で京都の御両親に伝えておきながら、それにかこつけて、山陰方面の「乗りつぶし」とやらをされたそうです。向かったのは、連絡船で徳島ではなく、山陽本線で下関。寝坊して目的の元急行型電車の普通列車に間に合わず、途中新幹線を使って追いついた。下関からは山陰本線を回って、京都の自宅に戻る予定。徳島の用事が終わったら連絡しろと言われていたので、適度な頃合いを見計らって、下関駅から公衆電話で自宅に電話。早く切ろうと焦るも切るわけにいかず、何とか振切ろうとしたその矢先、ホームの案内が・・・

 「しものせき~、しものせき~」

 「下関? え? おまえ、またどこ、ウロツイトルンや!?」

 織物職人のお父さんが電話口で呆れている。焦った河東さん、思わずこんなことを。

 「おやじすまん、うに、買って帰るさかい、勘弁してや」

 結局、5000円からする「うに」を下関駅近くの店で購入して、山陰本線をしっかり回って、京都の自宅に戻ったそうです。

 しかもこれには後日談があって、この話を鉄研の例会で披露して山陰本線を「完乗」したぞと言ったところ、同期の香西さんから、

 「河東君、長門市・仙崎間も一応「山陰本線」やでぇ」

と言われ、その時は平静を装ったけど、下宿に帰って、ショックで寝込んだとか。

 他にも、ある行止まりの路線で、終点から2駅前で同行していた友人に、降りようと言われて降りてしまった話とか。どれも聞いていてとても面白く、太郎君も私もそろって大笑いした。さてマニア君はというと、こんな減らず口を披露してくれた。

「自分は絶対にそういう「ヘマ」はしません」

 タバコを落としてきてよく言うわね、と私が言うと、マニア君以外の皆さん大笑い。

 河東さんは、Nゲージの「気動車」の模型を持っておられた。よく走るのはいいが、「気動車らしい音がしない」と言って、モーターの歯車を1つ削ったところ、いい音が出るようになった、って。アプローチの仕方は相当違うけれども、いかにもマニアな人たちとよく似た要素をお持ちのところもありました。

 しかし、「鉄道研究会」と一口に言っても、そこに集う人たちは全く同質というわけじゃなく、それこそ、スポーツなら確実に別競技になりそうな人たちの集まりみたいね。

 マニア君は、O大のある学区にできた中高一貫校に通っていて、大学近くの一軒家に、父方の叔父と一緒に住んでいた。おじさんと言っても彼より17歳ほどしか年が離れていなかった。このおじさん、マニア君のすることは基本的に放任していたのだけど、最低限度の約束だけはさせていて、そこは彼も、きちんと守っていた。


 今でこそ米河清治氏は、当時の経験や取材した内容を本やエッセイなどで語っていますが、中学生の頃は、よつ葉園にいた当時のことを「思い出したくもない」と言って、語りたがりませんでした。後に30歳になる頃、鉄道研究会OBで2歳下の瀬野八紘氏と対談したときも、瀬野氏が幼少期の鉄道との関わりを熱弁する半面、彼はその点についてほとんど語りませんでした。私や太郎君の前で語るようになったのは、かなり後のことです。

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