四

 あの同級生たちとの打ち上げの日に予感した嵐は、お父さんが帰ってきてからも起こることはなかった。むしろ、渦中の人になると思っていたお母さんは平静そのもので、私の好物のおでんを振る舞いながら不器用そうな笑顔で入学おめでとうと言ってくれたし、お父さんはお父さんでホールサイズのストロベリームースケーキや入学祝いということで茶色い革作りの日記帳を買ってきてくれたりした。弟もまた、お姉ちゃんのおかげでケーキを食べれた、と欲望を少しも隠さないまま、怪獣のキャラがプリントされた鉛筆を一本くれた。つまりは、だいたいいつも通りで、拍子抜けしつつも、心の底で絶えずびくびくしていた。


 いつ来るかいつ来るか、と思っているうちに、卒業式が終わり、隣の県の古い町への家族旅行を楽しんだり、友人の家にパジャマパーティーをしに行ったり、といった風に中学時代と長くも短くもない春休みは終わって、私は新しいセーラー服に身を包み、高校生なるものに姿を変えた。

 あまりにもなにも起こらなすぎて、狐につままれたみたいな気分のままはじまった高校生活は、どことなく現実感を欠いていた。授業内容と時間数の変更や新たな友人関係の出現をはじめとする忙しさにともなう混乱で目を回しそうになっていたはずなのに、その実、さほど心を動かしもせずに応じていたような気がする。いいことも悪いこともそれなりにあったはずなのに、ただただ胸の中は静寂に包まれていた。


「高校は楽しいか」

 家にお父さんがいる時、無邪気そのものな口ぶりでそう訊かれたりする。私は、うん、と頷いたあと、同じ学校に進学した中学時代の友人たちと高校でできた友人たちとの昼に話した世間話だったり、名前だけ貸して欲しいと言われて入ったミステリーサークルという名の超常現象研究同好会に、放課後寄った時に起こった出来事だったりを、適度に脚色して話した。そうするとお父さんは決まって楽しげに笑ってみせて、昔よりもやや現実に引き寄せられたような旅先で食べたおいしいものの話題や空で高速移動した発光体の話などを語ってくれて、私もまた楽しい気分にさせられる。

 その一方、頭の片隅で、お父さんといつも通りに話していていいのか、という焦燥感みたいなものもあった。中学時代の友人たちとの打ち上げ後の出来事に関して、あらためてあの日、お父さんがなにをしていたのかを問い詰めなくていいのかと。その上で、もしも私の予想通りのことをお父さんがしていたとすれば。できれば無視して気付かないふりをしていたかったけど、このまま見過ごしたままでいいのか、という気持ちが小骨みたいに刺さっていなくもない。とはいえ、仮に尋ねて、私の想像通りだったとしたらどうなってしまうのか、という小さくない恐怖に包まれて、結局訊かずじまいでいる。


「無理して早く帰ってこなくてもいいよ」

 おおむね変わらない日常の中で、なぜだかお母さんは以前より少しだけ柔らかくなった気がした。私に当り散らすような言動が減り、こちらが家事手伝いをしようとすると、いいから休んでなさい、と言われたりもする。こころなしか日常会話も増えはじめ私が、新しくできた友人に彼氏ができたという話をすると、あんたもできたらいいなさいよ、だとか、ミステリーサークルに対してそんな怪しい同好会に入って大丈夫だとか心配されたりした。お父さんと話している時ほどの楽しさはなかったけど、この当たり障りのなさみたいなものは悪くなかった。

 お母さんに対しても、例の打ち上げの日に端を発する罪悪感みたいなものが残っている。今からでも、お父さんは一人じゃなかった、と話すべきなのではないのかと。けれど、口にしてしまえば、お父さんに対して以上に取り返しのつかないことが起こる気がして、どうにも気が進まなかった。


「高校ってどういうとこ」

 家に帰ってきてから顔を合わせると、音也は無邪気にそんなことを尋ねてきたりする。こころなしか、少し前よりも目の中に理性の光が宿ったように見えた。私はどう答えてやろうかと思いつつも、忙しいけど楽しくもあるよ、と曖昧な答えに落ち着いた。弟は、結局どっちだよ、と不満げに言いながら、私の背中を叩いてきたりしてむかついたから小突き返し、なんとはなしに小競り合いになる。比較的、大人しい子だといっても、怒りの沸点自体はまだまだ低い。もっとも、私も人のことはあまり言えないけど。とにもかくにも、そうやって体を動かして落ち着いたあと、なし崩しに謝りあった。その時になると、私の方もまた、それらしい言葉が生まれ、ぽつりぽつりと、忙しいけど楽しいの内実を、授業や人間関係の端っこにあるしんどさだったり、友人たちとのどうでもいい馬鹿話やミステリーサークルで教えてもらった嘘か本当かわからない話を語ったりする。弟は具体性を増した質問の解答に、面倒くさそう、と顔を顰めたり、そんなことあるわけないじゃん、と腹を抱えたりしたあと、変な場所なんだね、と本音らしきものを漏らしたりした。

 こんな風に弟との話は、家の中でもっとも毒も薬もないものになることが多かったけど、逆を言えば考えることが少なくて楽で、ある意味一番力を抜ける気がした。

 

 生活は今までにないくらい平穏だった気がする。少なくとも私が見ようと決めた範囲においては、劇的なことは起こらなかったし、なによりも家族の誰かが他の家族の誰かに当り散らすことがないというだけで、心の海はただただ凪いでいた。

 そんな生活においても、私の一番の楽しみは、お父さんを玄関から見送る瞬間。

 それじゃあ行ってくるよ。いってらっしゃい気をつけてね。絵里子も気を付けろよ。ありがとう、お父さんも気を付けてね。

 他愛のない言の葉の交し合いのあとに向けられる背中は、幼い頃よりも幾分か萎んだように見えたけど、それでも大きくて、私にこの上ない安堵と高揚をもたらした。その感情は、お父さんが遠くへ出張に行く時により膨らむ。

 そうやって玄関からお父さんを見送ったある休日、うしろ姿が見えなくなったところで振り返ると、お母さんの無表情と音也のほっとしたような顔が目に入った。二人はこんな顔をしているのかと気付かされ、なにを思っているだろうという疑問が頭の中に浮かぶ。直接、聞いてみようかとも考えたけど、わざわざ聞くのも変な気がして取りやめてから、いつの間にか微かな笑みを称えだしたお母さんに、この日にする予定だった掃除の割り当てについて尋ねたりした。

 そうして高校時代は穏やかに過ぎ去っていって……。

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