三

 決意したといっても一朝一夕で効果があがるわけでもなかった。私は自分に甘く、他人に平気で責任を押しつける性質のままだったし、この本質は後々もそんなに変わっていないだろう。それでも、しっかりしようという意識付けをしていって、多少なりともマシになっていった、と思う。というよりも、信じたい。

 私自身がマシになったかダメになったかはさておき、中学にあがる頃になると、お父さんが家を空ける時間がまた増えていった。ただ単に子供から目を離していてもなんとか家が回るようになった、というだけかもしれないけど、頻繁に出張に行くお父さんのうしろ姿を見守るのに、寂しさと薄っすらとした高揚感を覚えた。

「姉ちゃんって、父さんのこと嫌いなの」

 以前よりも使える言葉が増えた音也に、そんなわけのわからないことを言われて、小突いたりもしたけど、生活に対する不満の幾分かがやわらいだ。小学生になった弟は、生意気なままではあったけど、どちらかといえば大人しめな子に育ち、積極的に私に絡んでくることもなかったから、個人的には満足していた。

 一方、お母さんの方はお父さんの出張が増えるにしたがって、どことなく不安定になっていっているみたいだった。お父さんがいる時に顰め面をしているのはいい方で、出張に出ている時なんかはどことなく当たりが強くなった。私や音也の些細な間違いや勘違い、仕事の不出来に声を荒げ、時には手が出ることもあった。お父さんがいなくて寂しいのかな、なんて考えつつも、私たちに当り散らすのはやめて欲しいな、とますます母を煙たがるようになった。この頃になると、お母さんとの会話というのは事務的なもの以外ほとんど消えていて、家族らしい会話はお父さんが家にいる間くらいしかかわされなくなっていた。

 あらためて振り返れば、冷えた家庭だったように思えるけど、当時の私はそれなりに満ち足りていた。弟や母と仲はあまり気にしていなくて、ただただお父さんが窮屈でなければそれでよかった。それで、よかったのだ。


 /


 そんな私にとって安らかな中学時代が終わりかけていたある日。本命にしていた地元の公立高校にも合格が決まったのもあり、同じく受験が終わった友人たちとともに、近所のファミレスで延々とだべっていた。ようやく終わった、という開放感もあって、友人たちにそれぞれの行き先を伝え合い、同じ高校に行くものにこれからもよろしくを伝え、他の高校にいくものにはまた連絡を取り合おう、なんて言い合いながら、受験中我慢していたことを思う存分やろうと騒ぎ合った。

 そうやって何杯もドリンクバーをお代わりし、ひたすら粘る迷惑な客になって数時間が経ち、日も暮れはじめていた。さすがにそろそろ帰らないとお母さんも一人で大変かもしれない。心の端っこでそんな想念が湧き、いまだに楽しげに話し続ける友人たちの会話を耳にしながら、暇を告げる機会を窺っていた最中。窓の外でよく知っているうしろ姿の人物が誰かと並んで歩いているのが見えた。

 お父さんだ。薄暗くてややはっきりしなかったものの、何年も見慣れていた背中だっただけに、間違いようがなかった。今から、出て行けば追いつけるかな。心に沸く嬉しさとともに、そんなことを考えたあと、ふと、疑問が湧く。

 今って、出張中じゃなかったっけ。記憶では、三日前に旅立ったお父さんは、明後日の夜に帰ってくる予定だと聞いていた。出張先もけっこう遠くなはずだったから、ここにいるのは変な気がした。なにか忘れ物でも取りに来たのかな、と思いつつも、友人たちに暇を告げると、私の分の支払いをテーブルの端に置いて、店外へと出る。

 お父さんが向かった方へと小走りしていくと、さほど時をおかずにお父さんのうしろ姿を捕捉する。さっきと同じようにその隣には、細身の女性が歩いていたから見つけやすかった。

「お父さ~ん」

 声をかけると、お父さんが振り向く。私を認めると同時に瞬きを二三度してから、ああ絵里子か、と頬を弛めた。少し間を置いて、隣の女性も踵を返す。色白で綺麗な人だった。

「どうしたの。こんなところで」

 首を傾げ尋ねると、お父さんは頭を掻きながら苦笑いをして、

「いやあ、こっちに戻らなきゃできない仕事があってな。それが終わったから、これから出張先にとんぼ返りするところ」

 そうよどみなく説明した。忘れ物ではなかったけど、やっぱりこっちでやることがあったのか。そっかぁ、と答えて納得しながら、お父さんの隣にいる人に視線をやる。途端に女性はどことなくそわそわしだした。

「こちらは同じ職場の後輩で笠原さんだ」

 紹介に合わせて女性が、笠原です、と二度三度と頭を下げた。私も、こんばんは、娘の絵里子です、と頭を下げ返す。顔をあげると、お父さんが満足げにこっちを見ていた。少し照れる。

「てなわけで、これから俺は笠原さんと出張先に戻るよ。できれば家に帰りたいと思ってたんだが」

「いいよいいよ。その気持ちだけで嬉しいし」

 自分で言ってから少し恥ずかしくなる。笠原さんが、仲が良いんですね、と薄く微笑んだ。お父さんはなぜだか、そうだろそうだろ、と胸を張る。なごやかな空気が私たち三人の間で共有された、気がした。

「じゃあ、そろそろ行くな。暗いし気を付けて帰れよ」

「うん、お父さんも気を付けて」

「ありがとう。帰ったら、盛大に合格祝いしような」

 晴れ晴れとした笑顔のお父さんはひらひらと手を振りながら背を向ける。その隣の笠原さんはどことなく後ろ髪を引かれるみたいな顔でこっちをちらちら見たあと、

「ごめんなさい」

 と再び頭を下げてから踵を返した。私はその言葉の意味がよくわからないまま、首を傾げながらも、二人の背に向けて大きく手を振った。お父さんのうしろ姿はいつになく大きく生き生きとしていて、良かったなぁ、なんて無邪気に思ったりした。


 帰宅後は母にいつも通り、今日も遅かったのね、などと平坦な声で言われた。一応、今日家を出る前に、友人たちと打ち上げしてくるから遅くなる、と教えたはずなのにもかかわらず、そんなことは関係がないという言い草だった。少しカチンときたものの、食ってかかったらかかったで疲れそうだったので、ごめんなさい、今度からもっと早く帰るようにするよ、と答えてから逃げるように洗面所へと向かう。

 手洗いうがいをできるだけ時間をかけて済ませたところで、すぐ後ろに音也が立っているのに気付いた。

「ただいま」

 振り向き際にそう言った私に、弟はやや無愛想に、お帰り、と応じてから、洗面所の隣にあるトイレへと小走りする。どことなく大人しげな年下の少年の小さなうしろ姿を見送りながら、台所へと向かった。

 仏頂面をしたお母さんは鰤大根の仕上げにかかっている。私はこの場でやることはもう少ないだろうと察し、とりあえずできる範囲の配膳を済ませようかと思いながら、それが終わったあとのことを考え、洗濯やお風呂洗いが済んだかどうかを尋ね、両方まだ終わってないことを確認し、あらためて箸や既に出来上がっているほうれん草のおひたしを食卓に置きに行こうとした。

「絵里子」

 不意にお母さんに呼び止められる。珍しいこともあるな、と立ち止まり、なに、と尋ね返した。お母さんは少し言葉に迷っているように間を置いたあと、今日は楽しかった、なんて聞いてきた。ここのところはなかった類の会話だったので、一瞬、どう答えていいか戸惑ったものの、結局無難に、うん、という曖昧な答えを返した。

「そう。良かったね」

 曖昧に微笑むお母さん。少なくとも、機嫌は悪くないらしい。そうなってくると、会話が弾まないことに小さな罪悪感を覚える。いくらここのところ事務的な会話以外していなかったにしても、すすんでぎくしゃくしたいというわけではない。なにか、話を膨らませる事柄はないだろうか。そう思ってから程なくして、

「そう言えば、今日お父さんに会ったよ」

 ついさっき、あったばかりの出来事が口から漏れだした。途端にお母さんの顔が固まる。話題選びを間違ったと悟るものの、一度言ってしまった以上、ある程度きりのいいところまでは話さなければならないと思い、ファミレスの帰りに一時的にこちらにお父さんが戻ってきたらしい、という話を簡潔に説明するにとどめた。お母さんは眉間に皺を寄せながら、そう、と重々しげに言う。当の私はといえば、なにが母の逆鱗に触れたのかよくわからず、配膳をしにいこうとした。

「お父さんは誰かと一緒だった」

 背中に低い声が浴びせられる。体の芯を貫く冷え冷えとした響きに、一瞬、言葉を詰まらせかけ、

「ううん、一人だったよ」

 と嘘を吐いた。そう、というどのような感情が込められているかよくわからないお母さんの言葉が耳に届くのと同時に、今度こそ箸を配りはじめる。手を動かしながら、私は家の中と外でなにが起こっているのかおぼろげに察しつつも、できうるかぎり気付かないふりをすることを決めこんだ。言葉にしなければ、なにも起こらない気がしたから。

「なんか手伝おうか」

 トイレから出てきたとおぼしき弟は、何も知らなさそう顔で尋ねてきた。私は、音也に料理を受けとってきてほしいと頼んでから、とてとてと台所へと向かう小さなうしろ姿を見送る。そのか細さがなによりのやすらぎに思えた。

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