二

 そんなゆりかごみたいな時代に一区切りがついたのは、私が小学生にあがるかあがらないかといった頃。

 転機は我が阿賀野家に弟が生まれたことだった。その少し前に最初に住んでいたアパートよりもやや広めのマンションに越したところだったから、要は以前に比べて家計に余裕ができたから次の子を、ということだったのだろう。

「絵里子もお姉ちゃんなんだから」

 そんな枕詞を耳にすることが多くなるのと同時に、両親の愛は虚無からあらわれた赤子の方に移っていった。

「音也」

 その三文字の弟の名前が家の中で響く回数が増え、その泣き声に昼夜かまわず家中が振り回され、お父さんもお母さんもよくその腕に弟なる生き物を抱いた。

 一人娘として割合勝手にやっていた身としては、急にかまわれる回数が減ったことに寂しさとともに苛立たしさを覚えた。とりわけ年齢が微妙だったのもあるものの、父が私を膝の上に乗せなくなったのが、どうにも耐え難かった。おまけに母ほどではないにしても、弟の泣き声がうるさくてあまり眠れていないし、大切にしていたおもちゃを齧られたりすることもあった。

 全部、音也のせいだ。必然的に苛立ちは弟に向けられて、赤子を睨みつけたり、いーっとすることが多くあった。そして、その現場はお母さんにおさえられては、あの忌まわしき、お姉ちゃんなんだから、という枕詞とともに怒鳴られもした。ますます、母に対しての苦手意識が膨らんだ。

 それでも、子供ながらに最低限の理性が働いていたのか、少なくとも赤子の時点では、弟に手を上げはしなかった。

 母に言われて弟を胸に抱いている時、おおむね憎らしく思いつつも、その小ささだとかか細さだとかが不安になってどうにも落ち着かなくなった。この子は誰かが守らないと生きていけないんだ。そんなことを半ば本能的に理解したんだと思う。


 ある日、お父さんと一緒にお風呂に入っている時に、その話をしたら、

「そう、生きていけないんだ」

 と柔らかい声で返された。

 この頃のお父さんは、子育ての手伝いのせいか、もしくは仕事自体に余裕ができたのか、家にいる時間が増えていた。それでも時間の大半は弟に割かれていたから、私との触れあいは減っていたけど、家でお父さんと顔を合わせる機会が多いのは嬉しかった。

 私はといえば、この頃はもう一人でお風呂に入ることができるようになっていたけど、まだ寂しかったのもあり、お父さんと一緒に入りたいとよくねだっていた。

 とはいえ、その頃の家の中心にいるのは音也だったから、必然的に弟の話になることが多かった。

「生まれたばかりの頃は絵里子も音也みたいによく火がついたみたいに泣いて、俺やお母さんを一生懸命呼んでたよ」

 懐かしげに目を細めるお父さんに、私そんなことしてないもん、と頬を膨らました。途端にお父さんは楽しげな様子で、そうかそうか覚えてないよな、と言った。私は身に覚えがなくて、やってないもんと泣きそうになったりした。

 たぶん、というよりもほぼ確実にお父さんの言う通りのことがあったんだろうけど、私としてはどうしても認めたくなかった。

 お父さんは私を肩まで浸からせながら、まあまあ、となだめて、

「とりあえず音也が生きていけるようになるまで、絵里子が支えてあげてくれないかな。それまでお父さんやお母さんも頑張るから」

 と控えめに付け加えた。

 私はお父さんが向けてくる媚びるような眼差しだとか、言っていることが少しだけ気に食わなかったけど、弟が一人で生きていけない、ということだけはわかっていたので渋々小さく頷いた。お父さんは頭の上に大きな手でぽんぽんと私の頭に触れてから、そろそろ百秒たったから出ようか、と促し立ちあがった。私は湯船の縁に両肘をつけながらそのうしろ姿を見つめる。

 なだらかな瘤のように膨らんだ太ももから視線をあげていって、楕円形のおわん型の引き締まったお尻、薄く肉の乗った背中、赤く染まったうなじなんかを眺めてから立ちあがった。お父さんにタオルで体を拭いてもらうのがとても気持ちいいのを知っていたから。

 

 /


 とにもかくにも私の小学生時代のいくらかは、お父さんがかまってくれる時間を奪い、お母さんの説教を増やした、弟という名義の小さな生き物の面倒を見ることに費やされた。

 よく面倒くさくなってダンボールに入れて川の下に捨てに行きたい、とか思ったし、今も捨ててくれば良かったな、とか半ば冗談、半ば本気に考えたりもする。とはいえ、時間で計れば、お母さんやお父さんの方がよっぽど弟の面倒を見ていただろうし、家の中の忙しさからすれば随分と自由時間を与えてもらっていたように思う。

 それでも低学年の時はお母さんの手伝いのために、高学年の時は幼稚園に迎えに行くために、早めに帰ることも多く、友人たちと遊ぶ時間を作るためには、前もって家族に申告する必要があったりと少々の手間がかかった。

 家の事情で断わりを入れるとき、阿賀野って付き合い悪いよな、とあからさまな文句を口にされたことも一度や二度じゃなく、友達付き合いも上手く行っていたとは言い難い。これで幼稚園の時からの知り合いでもいればまた違ったのかもしれなかったけど、アパートからマンションに移った際に学区が変わったので、付き合い自体も一から築きあげる必要があり、あらゆる意味で上手くいってなかった。

 そうやって帰って来てみれば、感情を隠すことなく暴れまわる小さな生き物の世話が待っている。成長するにつれて手はかからなくなっていくものの、私が小学生の間はそのかぎりではなく、お母さんの名を呼びながら泣き叫んだり、私のお気に入りの人形の足をへし折ったり、嫌いな食べ物を吐き出したりした。問題を起こすたびに私やお母さんが叱りつけ、音也は泣き、ついでにやりすぎだとかいう理由で今度は私が怒られたりして逆上したりと、家の中は地獄絵図じみた阿鼻叫喚に包まれた。たぶん、お父さんも音也を叱っていたとは思うんだけど、良くも悪くも私やお母さんに比べれば感情表現の仕方が大人しかったので、あまり印象に残っていない。代わりに悪印象も抱かなかったので、そこは私的に良かったのかもしれなかった。


 そんな四人での暮らしの中で、お父さんはどことなく窮屈そうにしていた。表面上はいつでも笑っているし、時間がある時は音也の面倒を見たり、私の相手をして、お母さんと当時の私にはよくわからない難しげな話をしてたりする。けれど、しっかりと手と口を動かしている間も、どことなく目は心ここにあらずといった感じだった。

 なんでお父さんがそんな目をしていたのか、ある程度成長してから、本人にそれとなく聞いてみたことがあった。けれど、お父さんは私のもう少しで肩まで届きそうな髪を撫でながら、俺は絵里子や音也、お母さんがいてくれて幸せだよ、と柔らかい声で否定するだけだった。直感的に、嘘だ、と思ったけど、わがままを口にして困らせるのも本意じゃなく、引き下がった。

 その後、あまり気が進まなかったけど、お母さんにも尋ねてみた。皿洗いをしていたお母さんは、一瞬あからさまに嫌そうな顔をしたあと、無表情になり、さあね、と苦々しげに言った。私にはその態度がいつになく恐ろしくて、それ以上、踏み込む勇気が持てずに、すごすごと弟の元へと引き返した。怪獣のおもちゃを両手に持って振り回している能天気さは普段は苛立たしいだけなんだけど、この時ばかりは安心できた。

 そんなわけで深く追求できなかったから、お父さんが窮屈そうにしている原因はわからないままだった。とはいえ、ぼんやりとした理由は徐々にではあるけど察しもした。

 きっかけは、お父さんの傍で寝ていた時のこと。私の隣には幾分か成長した弟も寝ていたから、小学校高学年くらいだったと記憶している。まだ、寝るには少し早かったのもあって、私は例のごとくお父さんにお話をねだった。

 この日は山奥で大猿を見た話だった気がする。

「何年か前に東の方へ出張に行った時だったかな。けっこう長い空き時間ができたんで、ふと近くの山に散歩に繰りだしたんだ。それで、ついつい熱中してけっこう奥まで入っちゃって、帰り道がわからなくなった。これは弱ったな、って思っていると近くの藪が大きくざわついたんだ。その時は何の武器も持っていなかったから、熊だったらどうしようと思って藪をじーっとにらみつけた。しばらくして出てきたのは毛むくじゃらの猿みたいな生き物だった。顔は赤くて毛は黒い、両手足は丸太みたいにぶっとい。だけど、二本足を踏みしめてしっかりと立つ猿は俺よりも体が大きくて、正直、熊よりも怖かったかもしれない。俺は食べられるかもしれない、なんてますます、身を固くしたんだけど、当の猿の方は大きな足で地面を踏みしめながら俺の前を横切ってから、こっちを一瞥して、くいっと顔を動かした。俺は直感的に、ついて来いって言われているんだって思って、おそるおそるついて行ったんだ」

 そんな具合に下山までの間の話を、さも不思議そうに口にしたお父さんは、いつになく生き生きとしていた。どれだけ言葉がわかっているのか、ひたすらそれでそれで、と無邪気に物語の続きをせがむ弟。私もまた似たような気分でありながらも、なんとはなしにお父さんの横顔を眺めていた。ふと、頭に浮かんだのは、昔住んでいたアパートで外へと出て行く際のうしろ姿。大きな背中が遠ざかっていく時に感じた、寂しさと一抹のわくわく。

 ああ、お父さんは外に行きたいんだな。大猿が付近の森で守り神として祭られているというのを地元の人から聞いたと話している最中に、ぼんやり思う。そして、お父さんが家を出て行けない理由が、弟、それに私だということを遅まきながら理解する。

 あまり、面倒をかけちゃいけない。眠たい目蓋を開いたり閉じたりしながら、小さく決意した。

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