うしろ姿

ムラサキハルカ

 一

 最初の記憶は、大きなうしろ姿だった。 

 古いアパートの部屋。ややくたびれたスーツを着た大きな背中。たぶん男で、たぶんお父さんだけど、たしかなことは言えない。

 その後、私はその男の人の大きなうしろ姿を見送った。お父さんが背中をこっちに向けて出て行くまでの間、私は言葉をかわしたのだろか? あるいは言葉を覚えていなくてそれらしい奇声を発していただろうか? もしくは言葉は覚えていたけどなにも言わなかっただろうか? 残念ながら、記憶はないし、たぶんこれからも思い出せない気がする。

 ただ一つたしかなのは、その父親と思しき人のうしろ姿に、なにかしらの期待を込めて見送っていたこと。それは今も変わらないし、おそらく私の原典であるのだから。

 いやまぁ、気のせいかもしれないけど。


 そんな刷り込みじみた記憶のせいか。もしくは、覚えていないなんらかの事柄があったせいだろうか。私はお父さん子として育った。

 けっこうな頻度、出張で家を空けるお父さんだったけど、帰ってくればまず一番に頭を撫でてくれたし、できるだけ一緒にいようとしてくれていた、と思う。

 畳の上に置かれた卓袱台。私はお父さんの膝の上に腰かけて食事をとろうとして、よくお母さんに、やめなさい、と注意されたりした。当時は、なんで怒られるのかよくわからなくて、お母さん相手にむくれたりしたけど、お父さんが笑いながら、ご飯が終わったらいくらでも乗っていいから、とやんわりと口にしたのを聞いて、渋々矛を下ろした。そんな私とお父さんを見たお母さんが、お父さんは疲れているんだから迷惑かけちゃダメ、だとか、あんまり絵里子を甘やかさないでください、と言ったのを聞いて、げんなりしたりもしたけど、だいたいは食後に膝の上に座れば、ぽかぽかとした心持ちになってどうでもよくなった。幼い頃らしく、感情の浮き沈みは激しかったけど、おおむね幸せだったように思える。とりわけ、お父さんが帰ってきてかまってくれている間は。


  帰ってきたお父さんは、ほぼ必ずと言っていいほど土産話をしてくれた。

 出張先にあった城跡に伝わるお姫様の悲恋話といったいかにもその場で仕入れたという話から、ジャングルの奥にいると人食い部族から命からがら逃げることができたなんていう明らかに盛ってそうな話まで、手を変え品を変え、私を楽しませようとしてくれた。もっとも、当時の私は人食い部族の話を頭から丸ごと信じこんでいたから、体の芯から指の先が冷えるみたいな感覚を味わいながら、怖くなかった、とお父さんの身を案じたりして、ああ平気だよ、お父さんは強いからね、なんて罰の悪そうな顔で言わせてしまったりもした。

 振り返れば、お父さんは口こそそれなりに達者に動かしていたけど、話の盛った部分を真実として貫き通すのを苦手としていたように思う。子供相手の話なんだから、冗談だと軽く考えればいいのに、小さな嘘を吐いたという罪悪感に振り回されているところがあった。それでいて、話を盛るのは好きで罪悪感がジェンガみたいに重ねられていくんだから始末におえない。

 けれど、そんなところは憎めないし、今も昔も私はたぶん愛おしく思っている。

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