第8話
そのすぐ後、怜花は魔力硬直とやらから解放されたようだった。直春は「こいつ、また具合が悪くなったみたいなんだ」と、彼女に説明して、邪悪様を背負って家に戻った。
家に入り、箱を居間に置いて、邪悪様を自分の部屋のベッドに横たえたところで、彼女のまなじりに涙が流れているのに気づいた。表情も、どこか苦しそうだ。悲しい夢を見ているようだった。
彼は一瞬、彼女を起こそうか迷ったが、やめた。過去の記憶のない彼女にとっては、どんなに悲しい夢でも、意味のあるものかもしれなかったからだ。彼は彼女の手を握った。今はそばにいてやろう、悲しい夢から目覚めた時、一人なのはきっととても心細いだろうから……。部屋は、スタンドの灯りのみがついていて、薄暗かった。
やがて、邪悪様は目を開けた。彼女は寝起きの、ぼんやりとした目つきで直春を見て、以前と同じように「たまちゃん?」と言った。
「悪い、俺だ。直春だよ」
「……あ」
邪悪様ははっとしたように目を見開き、急にそこに涙をいっぱいに浮かべた。ここにいるのが「たまちゃん」ではないのが悲しいんだろう、直春はすぐにそれがわかった。もう一度「悪い」と言った。
「ナオ、あのね……ぼく、今夢を見てたんだよ。たぶん、昔のぼくのことだと思う」
邪悪様はやがて、ゆっくりと上体を起こした。
「夢か。どんな?」
「ぼく、たまちゃんとずっと遊んでた。たまちゃんはかわいくて、やさしい女の子だった。大好きだった。ぼくたち、すごく仲良しだった。でも……」
邪悪様は悲しげに眉根を寄せた。
「ぼくね、約束してたんだよ、その日。たまちゃんと、一緒に遊ぼうって。でも、たまちゃん、ぼくたちの秘密の場所に来なかったんだ。ぼく、なんだかすごく心配な気持ちになって、たまちゃんの家のある方に行っちゃったんだ。ほんとはぼく、そっちに行っちゃダメだったんだけど、行っちゃったんだよ。そしたら、街の向こうに煙が上がってるのが見えて……」
邪悪様は固く目をつむり、やがて涙を流し始めた。直春はその震える手をそっと握った。辛いなら話さなくてもいい、そんな言葉が喉元から出かかって、しかし声にはならなかった。「たまちゃん」との思い出は、邪悪様にとって、たとえ悲しくても大切なものだったに違いないだろうから。だから、受け止めてやりたかった。
「ぼく、あわててそっちに行ったんだ。でも、たまちゃんはもう動かなくなってて……。体はそんなに火傷してなかったよ。いつもの、かわいいたまちゃんだった。でも、さわると冷たかった。誰かが言ってたんだ。煙をたくさん吸っちゃったんだって。だから、助からなかったんだろうって。みんなたまちゃんを見て、悲しそうな顔してた。ぼくもすごく悲しかった。だから、ぼく――すごく悪いことをしちゃったんだ。悪いやつになっちゃったんだよ。それでもう、たまちゃんとは遊べなくなっちゃったんだ」
邪悪様そこで耐えられなくなったように直春にもたれかかってきた。
「ぼく、さみしかった。たまちゃんを一人で待ってて、いつまでも来ないから、さみしくてたまらなかった。ぼくたち、いっぱい遊ぶ約束してたんだよ。それなのに、たまちゃんはもう、冷たくなって、笑わなくなって、何も言わなくなって……。だから、ぼく、たまちゃんを……。なくしたくなかったんだ。たとえ、どんなに悪いことでも、もう会えなくなっても、ぼくにとってはそれが一番だったから……」
直春は震えるその体を胸に抱き寄せた。そうせずにはいられなかった。
「お前は悪くない。世界全体のルールなんてどうでもいい。俺には、お前が悪いやつとは思えない。だから……許す。たとえ世界がどれだけお前を悪だと責めても、俺だけは、お前を……」
直春は言いながら、自分の声が驚くほどかすれているのに気づいた。彼には邪悪様の気持ちが痛いほどわかった。どんなに待っても帰ってこない大切な誰か、その誰かと交わした、決して果たされることのない約束……。心の底にずっと沈めていた感情が、にわかに泡のようにあふれてきた。
「同じなんだ。俺もお前と」
彼は独白のようにつぶやいた。
「前に話したっけな。俺の父さん、六年半くらい前に死んでるんだよ」
「うん……」
「父さんが死んだのは間違いなく事故だった。葬式もちゃんと挙げた。新聞にも死亡者として名前が載った……。でも、当時の俺はどうしても納得できなかった。だって、俺が最後に見た父さんは、本当にいつも通りだった。それに、俺、約束してたんだよ。父さんと、いろんなこと。来年もまたみんなで海に行こうとか、すごく小さな、どうでもいいことばかりだったけど、でも、それが全部なかったことにされるなんて、一方的に反故にされるなんて、許せなかった。……信じたくなかったんだ」
直春は拳を固く握りしめた。
「だから、俺は、父さんが死んだなんて嘘で、本当はどこかで生きてるんじゃないかって、そう思えて仕方なかった。いつかきっと、出かけた時と全く変わらない普通さで家に帰ってくるような、それで、俺とのいろんな約束をちゃんと果たしてくれるような……そんな気がしてならなかったんだ。俺の中での父さんとの一番の約束は、誕生日にゲーム機を買ってもらうってもんだった。ソフトじゃなくて、ゲーム機本体だ。新しく出たばかりのやつでさ、子供じゃ絶対に買えない値段のやつなんだ。でも、思い切って頼んだら、父さんは次の誕生日に買ってくれるって言ったんだ。うれしかった。だから、俺……それだけは絶対に守ってもらえるような気がしたんだ……」
バカだよな、と言って、彼は小さく首を振った。
「俺の誕生日は四月八日だ。それまでずっと待ってた。冬の間、ずっと待ってた。でも、その日になっても父さんは家に帰ってこなかった。春らしい、いい天気の日だった。近所の桜はもう葉桜になってた。本当に平凡な、毎年同じように繰り返されている春の一日だった。でも、その日、俺はようやく思い知ったんだ。父さんは死んだんだって。もう絶対に帰ってこないんだって。悲しかった。苦しかった。さみしかった。ゲーム機なんて、本当はどうでもよかった。ただ、いつも通り家を出た父さんが、いつも通り家に帰ってきてほしかっただけだったんだ……」
熱い涙が彼の頬を流れた。彼はそれを手のひらでぬぐった。けれど、ぬぐってもまた涙は出てきた。
「ナオ……」
ふと、邪悪様が、涙でぬれた彼の手をつかんだ。まるで、ぬぐうのを止めるように。そして、顔を上げ、直春の顔をじっと見つめた。その淡い紫の瞳にはやはり涙がたまっていて、横からのぼんやりとしたスタンドの光を受け、夢のようにきらめいていた。
直春はほんの一瞬、その美しさに見とれた。すると、その隙に、邪悪様は彼の首にしがみついてきた。彼はそれが彼女なりの慰撫だとわかった。自分もさっき同じことを彼女にしたから。こういうとき、相手になんて声をかければ一番いいかなんて、彼らは共に知らなかった。彼らは共に、同じ悲しみを負った不器用な子供にすぎなかった。
直春は彼女からの抱擁に、そのぬくもりに、少しずつ胸の痛みが和らいでいくのを感じた。
「……ナオ、ぼくのたまちゃんはもうどこにもいないんだよね」
やがて直春の耳元で彼女はつぶやいた。
「ぼく、なんとなくわかるんだよ。邪悪様だから。きっと、たまちゃんはもう……。でも、いいんだ。だって、ぼく、たまちゃんとお別れしたから、ナオに会えたんだもん」
「え……」
直春は瞬間、顔が熱くなってしまった。またいきなり何を言うんだ、このお子様は。照れくさくなってしまう。
「お、俺は別に、お前のたまちゃんみたいにいいやつじゃないぜ……たぶん」
祖母のことなどさっぱり知らないのに、思わず言ってしまう。
「そんなことないよ。ナオはいいやつだよ。ぼくの家来だもん」
そうつぶやく邪悪様の吐息が、直春にはとてもくすぐったかった。
「ナオはね……すごくやさしいよ」
「やさしい? 俺が?」
また予想外すぎる言葉だった。直春は自分のことをそういう人間だと思ったことは一度もなかった。
「何かの間違いだろう。俺はそんな……」
「ううん。ほんとだよ。ナオはやさしいやつなんだ。でも、それを隠してる感じもする。心の奥に大きいやさしいがあって、それがちょっとずつ外に出てきてるのが今のナオだよ。きっと」
「そ、そうか?」
「そうだよ。だって、ナオはぼくにフレンチトースト作ってくれたもん。ごはんも。それに、電車でぼくの座るところ作ってくれたし、辛いの食べちゃったら牛乳くれたし、夜は一緒に寝てくれたし、髪の毛が濡れたら拭いてくれたし、すごく悲しい気持ちになったとき、一緒にいてくれたよ」
「それは年上の者として当たり前のことをしただけ――」
「あと、あとね。ぼくをこうしてくれたよ」
と、邪悪様は急に彼から離れ、ベッドの上に登って、背後から直春に抱きついてきた。
「抱っこ。こうやって二回もしてくれたよね」
すぐ背中から邪悪様の楽しそうに笑う声が聞こえた。その吐息は相変わらずくすぐったい。
「まあ、確かにな……」
と、そこで彼は、その言葉の裏に隠された真実に気付いた。
「お前、俺に背負われてる時、寝てたんじゃなかったのかよ?」
「あ……」
しまった、という感じの声が聞こえてきた。
「起きてたのか。それなのに寝たふりしてて、俺に担がせてたのか」
「え、えーっと……」
「しかも二回ともか。お前を運ぶのけっこう重かったんだがなあ」
直春はわざと意地悪な口調で言い、いかにも怒っているような勢いで後ろに振り返った。たちまち邪悪様は「わっ!」と声をあげて後ろに下がった。
「ち、ちがうもん! ぼく、ナオの背中で起きてたの、ちょっとだけだもん! ほんとだよ!」
邪悪様はおろおろしている。「おろおろ」の見本のようなうろたえっぷりである。直春はそれを見て、こらえ切れなくなって笑った。
「別にいいよ。お前が俺の背中で寝てようが起きてようが」
「ほんと? 怒ってない?」
「ああ」
直春は微笑みかけた。たちまち、邪悪様はほっとしたようで、彼のすぐ隣に戻ってきた。
「ねえ、また抱っこしてくれる?」
「いいよ」
「抱っこされながら寝たふりしててもいい?」
「構わないさ。お前、邪悪様なんだろう?」
「え?」
「悪いやつなんだろう? だったら、俺の背中ぐらい好きに使えばいいさ。そこで思う存分悪いやつになればいいさ。俺はお前が狸寝入りしてようが振り落としたりはしない。何があっても」
直春は邪悪様の頭を撫でながら穏やかに言った。
「ナオ……」
邪悪様は目を輝かせて微笑んだ。そして、また、弾むようにベッドの上に登って、直春の背中に抱きついてきた。というか、全体重をそこに乗せてきた。まるで彼を前に押し倒そうとするようだった。
「どう、ナオ? 重たいでしょ?」
「重たいなあ。潰されそうだよ」
「ぼくのこと叱る気になった?」
「そうだな、悪いやつだな。お前は」
「当たり前だよ。邪悪様だもん」
二人は笑いあった。直春は背中から伝わってくるささやかな重みとぬくもりがとても心地よく感じられた。そして、いつの間にか、胸の中にあった強い悲しみが雪が解けるように消えているのに気づいた。
ああ、そうだ。こいつといるといつもそうだ……。
今までもそうだった。胸の内に暗鬱な感情がわだかまっていても、邪悪様と話しているうちに、笑いあっているうちに、いつの間にか消えて行ってしまうのだ。
直春は邪悪様の体温を背中に感じながら、ふと目を閉じた。あの春の日に、ついに手に入れられなかったものが、今ここにあるような気がした。
その後、邪悪様は泣いたり笑ったりはしゃいだりで疲れたのか、すぐ眠ってしまった。直春は邪悪様に強く頼まれて添い寝していたが眠れなかった。彼の手を握り締めた彼女の小さな手が完全に力を失ったのを確認すると、そっと彼女から離れ、部屋を出た。
居間に行くと、キッチンカウンターの上に置いていた箱がいびきをかいていた。今は話せる状態ではなさそうだ。灯りをつけると、冷蔵庫から麦茶を出し、グラスについだ。そして、窓を開け、縁側に腰かけ、それを飲んだ。まだ夜は浅かったが半月はすでに西の空に沈みかけていた。時折、遠くから車の音や、花火を打ち上げる音が聞こえてきた。
直春は生ぬるい微風に吹かれながら、邪悪様のことを考えた。彼は知った。彼女の罪のなさを。彼の目から見れば、彼女は善良そのものだった……。だったら、自分はどうすればいいのだろう? どうすればそれが一番彼女のためになるんだろう? 少なくとも、今の鎖で自由を制限されている状態はよくないと思った。それでは、まるで罪人かペットだ。彼は彼女を許したかった。自分ができる範囲のことをして、彼女を罪の意識から解放してやりたかった。
けれど、それはつまり、箱と契約解除するということだ。そして、それにより彼と彼女は一緒にいる理由がなくなる……。
いや、そもそも、それが正しいんじゃないか。元々、住む世界の違う、異なる存在の二人なんだから――。
彼の脳裏にふと、幼いころの体験がよみがえってきた。子供のころ、けがをしていたセキレイを拾って、父と共に世話をしたことがあった。セキレイはやがて元気になり、空を飛べるようになった。幼い彼はずっとそれを飼っていられると思った。
けれど、父は言ったのだ。それはもう自然に帰さなくちゃいけないよ、と。彼は納得できなかった。セキレイは彼によく懐いていた。彼も愛着を感じていた。
だが、父はさらに彼にこう言った。
「ずっとうちで飼っていたら、この子は仲間に会えないし、結婚して子供を作ることもできないんだよ」
彼ははっとした。人には人の住む世界があるように、鳥にも鳥の住む世界があるのだと気付いた。
やがて彼は父と共に近所の公園に行き、セキレイを籠から外にはなった。幼い彼は、その遠くに飛んでいく姿にさみしさを感じずにはいられなかった。
「これでいいんだよ。野鳥は元の自然に帰してやるのが、一番なんだ。これが一番正しいことなんだよ」
父は彼の肩を叩きながらやさしく言った。
「一番正しいこと、か……」
直春はぼんやりとつぶやいた。
と、そのときだった。庭の隅から女のすすり泣く声が聞こえてきた。
まさか、幽霊? 一瞬肝が冷えたが、それにしては妙に聞き覚えのある声だったし、泣き方も本格的というか、幽霊らしからぬ生々しさがあった。直春は麦茶のグラスを縁側に置いて、声のする方にそっと近づいた。すると、庭木の枝の上でおいおいと泣いている若い金髪の女を発見した。その背中には白い翼が生えている。どう見てもファラルーシェである。
「おい、お前、人の家の庭で何してるんだよ?」
声をかけた――ら、
「きゃあっ!」
彼女はひどくびっくりしたようで、木から落ちてしまった。霊体であろうと、翼があろうと、木から落ちるものなんだなあと、直春は感心してしまった。それぐらい見事な落ちっぷりであった。
「お前、なんでこんなところにいるんだよ?」
「も、もちろん、わらわは姉様を取り戻しに来たのじゃ!」
尻をさすりながら、ファラルーシェは立ち上がり、思い出したように直春を睨みつけた。その泣き腫らした目元は赤い。
「じゃあ、なんでこんなところで泣いてるんだよ」
「わ、わらわは泣いてなどおらぬ! ぬしの見間違いじゃ!」
「いや、確かにお前今……」
「黙れ! わ、わらわは別に……別に……うえええん」
と、話しながら急に張り詰めたものがぷっつり切れたように、また泣きだしてしまった。
「やっぱり泣いてるじゃないか……」
「ちょ、ちょっとだけじゃ! 少し、先ほどのことを思い出してしまっただけなのじゃ!」
「ああ。あれか」
そりゃあ、泣くよなあ。あんなに一方的にぼこぼこにされては普通はPTSDものである。
直春はなんだかかわいそうになってきて、とりあえず彼女を縁側の方に招いて、一緒に並んで座った。
「あいつの、美命の体のほうは大丈夫だったのか?」
「ああ。回復魔法のおかげで、傷一つ残ってはおらんかった。何も覚えておらぬようじゃったし、わらわが無事に家に帰してやったぞ」
「そうか、あいつ何も覚えてないのか」
あんなに自分の体が大変なことになってたのになあ。
「そんなことより姉様のことじゃ。ぬし、いい加減に、姉様をわらわに渡すのじゃ! さもないと……た、大変なことになるかもじゃぞ?」
その語尾はなんとなく自信なさそうだったが、直春は気になった。彼女はやはり人間ではない。それが、人間の世界にずっといるということがどういうことなのか、彼は全くわからなかったからだ。
「その大変なことっていうのは、具体的にはどういうことなんだ? あいつが――
「そうじゃのう……。それはもしかしたらあるかもしれぬ」
ファラルーシェは少し考え込んだのち言った。
「元々あのお方たちは、
「魔力で世界に影響を与えるって……?」
「
「マジか」
やはり、天使じゃなくて神としか思えない種族である。
「まあ、今のは極端なものの例えじゃ。
ファラルーシェのその言葉は筋道が通っているようだったし、自分の要求を通すために適当な屁理屈をこねているようにも聞こえなかった。一つの可能性として、それは正しい話なのだろう、きっと。
「そういうことじゃ。ぬし、わらわに姉様を託してはもらえぬか。姉様は天界にお戻りになられるのが一番だと思うのじゃ」
ファラルーシェは直春を上目遣いで見つめ、嘆願してきた。実に切迫した表情である。
「でも、
「それは……そのう、わらわが何とかするのじゃ!」
「いや、お前だって、あいつのことよく知らないんじゃないか?」
「あるのじゃ! なんかこう……魂の記憶のようなものが!」
「魂って、なんか適当だな」
「て、適当ではないのじゃ! ほんとにほんとにわらわは姉様のことを想って……この五十年間ずっと……うう」
ファラルーシェはまた泣き始めた。やはりメンタル弱いようである。
それから、彼女はこの五十年間、どういう気持ちでいたんか、長々と語り始めた。初めは心に大きな穴があいたような、正体不明の喪失感だけだったという。しかし、次第に時がたつにつれ、まぶたに「姉様」の顔が浮かんできたのだとか。それは自分にとって大切な人に違いない。記憶はなくても直感でそれがわかったのだという。彼女は天界で「姉様」を探した。しかし、手掛かりは何一つなかった。
そして、ついに二年ほど前、霊体のまま人間の世界に降りてきたのだという。「姉様」を探して。
「それから、わらわはこの人間の世界で失せ者を探すには、まず金というものが必要だと知り、さっそくアルバイトというものを始めたのじゃ」
「霊体で?」
「もちろん、このままで仕事はできんかったよ? わらわは、体を貸してくれる人間を見つけて契約したのじゃ」
「美命みたいな?」
「そうじゃ。中でも、いい歳をして働かず家でごろごろしているような人間を探しての、その中でさらにわらわと波長の合うものを見つけて、契約したのじゃ。よいか、そこな人間、わらわにその体を一時預ければ、少しばかりの金を稼いでやろうぞ、と。そして、ぐうたら人間達に憑依したわらわはアルバイトにいそしんだのじゃ。チラシ配り、パン工場、コンビニ店員、ピザの配達……やれるものはなんでもやったぞ? わらわはがんばったのじゃ!」
ファラルーシェはなぜか得意顔である。武勇伝なのか、これ。
「そして、そうやって稼いだ金のうちのいくらかをピンはねして、へそくりを貯めたのじゃ。この体でも人間の世界の金くらいは持ち運べるでのう、ふふ」
「お前、本当に天界では上級の天使なのか……」
なんかすごく話のスケールが小さいような。確か、ちょっと前までは世界全体の話をしていたような。
「もしかして、或香に渡した五十万円って、そうやってコツコツためた金だったのか?」
「そ……そうじゃ! あれはひどい女じゃ! わらわの足元を見よってからに! わらわは、最初、二十万円と言ったのに、気がつけば、へそくり全部巻き上げられておって……うう」
また泣き始めた。二年間必死に働いてためた五十万円を根こそぎ奪うとは、相変わらず鬼のような女である。しかも、肝心の依頼は果たせてないし。それはさすがに泣いてもいい……っていうか、さっきからこの
でも、悪いやつじゃないみたいだ……。
話を聞いてみると、不器用だがまっすぐな邪悪様への想いがよく伝わってくるようだった。そして、何より、直春よりはずっと邪悪様に近い存在である……。
瞬間、直春は決断した。
「わかった。俺、お前にあいつを預けるよ」
「え……ええええ!」
ファラルーシェはとても驚いたようだった。
「よ、よよよいのかえ? わらわが姉様を天界に連れ帰っても?」
「ああ。そのほうがあいつのためになると思うから……」
直春はかすれた声で言い、うつむいた。
「でも、今すぐは無理なんだ。あいつに今のこと、ちゃんと話して納得してもらわないと。明日の夜、またここに来てくれないか。それまでには話しておくから」
「承知した! では、わらわもその間、天界に戻って姉様を迎え入れる準備をしておこう」
ファラルーシェはよほどうれしいのだろう、満面の笑顔だ。
「……ああ。頼む」
直春はつとめて平静を装い、そう答えた。そして、空の向こうに飛んでいく彼女を見送った。
これでいいんだ。これが一番正しいことなんだから。これが一番あいつのためになることなんだから……。
縁側に一人腰掛け、直春は呪文のように、その言葉を何度も胸の内で繰り返した。固く握った拳の内側がやけに冷たかった。
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