第7話
その日の夕方、怜花がまた家にやってきた。直春が学校を休んだと聞いて、風邪だと思ったようだった。玄関を開けて出迎えると、妙に緊張しているようなその顔が目に飛び込んできた。
「あ、あの! やっぱり直春お兄ちゃん、昨日雨にぬれたのが悪かったのかなって思って、それでわたし……」
なんだか開口一番のあいさつもぎこちなかった。学校帰りにそのまま寄ったらしく制服だった。
「いや、具合が悪かったのは俺じゃないんだ。あいつだよ」
直春は、後ろからとことこ歩いてきた邪悪様を指差した。パジャマ姿のまま、髪もおろしていたが、今はもうすっかり元気であった。
「そっか。風邪引いたジャアクちゃん、ほっとけないもんね」
「あ、うん……」
風邪じゃなくて二日酔いだが。
「今はもう元気だよ」
「直春お兄ちゃんはだいじょうぶ? うつったりしてない?」
「だいじょうぶだ。今日はわざわざありがとうな」
「え?」
「心配して来てくれたんだろう?」
「べ、別に……」
怜花はふいに、恥ずかしそうに顔をそらしてしまった。
それから彼女は家に上がって少しお茶を飲んだ後、自分の家に帰ることになった。帰り際、直春が玄関のところまで送ると、怜花はふいに、「直春お兄ちゃんって、花火は好き?」と尋ねてきた。またどこか、緊張したような声だった。
「花火か。まあ、普通だが……」
「ほんと? あのね、実はこのあいだ、親戚のおじさんに花火をいっぱいもらったの。みんなでやりなさいって。でも、わたしのお姉ちゃんって、そういうの好きな方じゃないから。だ、だから、その――」
「俺でよければ付き合うよ」
「ほんと? いいの?」
「ああ。あいつも喜ぶだろうし」
邪悪様の花火ではしゃぐ姿が目に浮かぶようだった。
「そうね。ジャアクちゃん、外国人なら、日本の花火はじめてかも。きっと喜ぶよ」
話はまとまった。明日の夜、みんなで花火をする約束をした。
翌日の夜はよく晴れていて、月が明るかった。直春達は午後八時を回ったところで、一緒に近所の河川敷に向かった。怜花は浴衣を着ていた。それを直春が褒めると、普段はあんまり着る機会がないから、と、照れ臭そうに答えた。邪悪様はいつもの黒いコートだったが、髪は三つ編みにしておらず、ストレートだった。
河川敷は人気がなかった。持ってきたバケツに川の水を汲んでそばに置いたところで、みんなで一緒に花火をした。邪悪様は最初、色とりどりの花火の光を不思議そうに見ていた。
「ねえ、ナオ。この火、いろんな色が出てるけど、どういう魔法なの?」
「魔法じゃないよ。科学なんだ。綺麗だろう?」
「ふうん。魔法じゃないにしては、まあまあかな」
「まあまあか。厳しいな」
「そりゃあね。ぼくは邪悪様なんだよ。なんにでもすぐ満点をあげるようなやつじゃないんだ。だって、そんなの全然偉いって感じじゃないもんね。悪いって感じでもない。ぼくにはぼくの、めんどくさいこだわりってのがあるんだよ。格ってやつだな、うん」
と、相変わらずの物言いだったが、すぐに夢中になったようだった。持っている花火の火が消えると、たちまちさみしそうな顔になって、怜花や直春の持っているまだ明るい花火をじーっと見つめるのだった。直春達はその都度、新しい花火を邪悪様に手渡した。ただ、線香花火のときだけは譲れなかった。それは一種の戦いであった。早く火が落ちたほうが負け。線香花火とはそういうものであった。もちろん、彼らの線香花火勝負において、最初に火が落ちたのは邪悪様だった。火のついたそれを落ちつきなく振り回したのがたった一つの明確な敗因だった。結局勝者は怜花だった。直春から拍手が送られた。邪悪様は心底くやしそうな顔をしていた。
そんなふうにして彼らのささやかな花火大会は終わった。そのまま後片付けをして帰ることになった。
と、そのときだった。突然、空の彼方から、光り輝く何かがすごい勢いで彼らの目の前に飛んできた!
「お前は……」
直春はいつぞやのように、またしても目の前の光景に度肝を抜かされた。そう、今度は、制服姿のまま背中に純白の翼を生やした美命が彼の前に現れたのである。
しかも、
「わらわは
美命はこんなことを言うではないか。まるでファラルーシェに体を支配されているようだ。これはいったい……。
「あ、今度は、あっちの相性ばっちりみたいですね、マスター」
と、直春のズボンのポケットの中で箱が喋った。
「相性ってなんだよ」
「おそらく、あの
「なるほど……」
何気に或香の呼び名が的確すぎて感心してしまう。次からそう呼ぶか。
しかし、状況はわかったが、目の前の翼を生やした知り合いについて怜花にどう説明すれば……直春はちらりと怜花のほうを見た。すると、彼女がその場で微動だにせず立ったまま硬直しているのに気づいた。目もおかしい。死んだ魚みたいになってる。これはいったい……。
「これは魔力硬直ですよ、マスター。あの
「麻痺? じゃあ、心配はいらないのか」
「はい。時間がたつと解けます。普通に」
「でも、俺はなんともないぞ?」
「そりゃ、マスターはマスターですからあ。マスター補正盛り盛りなんですよ。思い出してみてごらん、普通の人間ならあのフナムシの毒でまず倒れてるってことをさあ」
「ああ、そういえば、あのときも……」
「マスターってば、箱の主になった時から、日常生活に役に立たない系統のステータスが一律底上げされてて、軽く人間やめた状態になってるんだな、これが」
「そ、そうなのか……」
また嫌なことを言う箱である。
「ねえ、あのお姉ちゃん、ナオの知ってる人なの?」
邪悪様が尋ねてきた。
「いや、むしろお前の知り合いだよ。あの白い翼、見覚えあるだろ?」
「あ、あのときの知らないおばちゃん?」
「そうだよ。今日はちょっと若作りしてるらしいんだよ。あれの中身はあのおばちゃんだ」
ごにょごにょ。二人して話をしていると、
「そこな人間! 何を姉様に吹き込んでおる!」
ファラルーシェの怒号が飛んできた。
「よいか、人間。わらわの目的はあくまで姉様じゃ。ぬしがわらわの要求を素直に飲むのなら、手荒なまねはせぬぞ。しかし、断れば――」
と、そこでファラルーシェは短く何か唱えたようだった。その右手から光線が迸り、直春のすぐ足元の地面をうがった。
「あ、あの
「ガワの人って……」
体を支配されている美命のことか。まあ、確かに昔から信仰心の塊みたいな感じだったが。
「見たか、人間。わらわの天使魔法で滅せられたくなければ、姉様をわらわに即刻渡すのじゃ!」
「えー」
と、そこで邪悪様が不満そうに声を漏らした。
「ぼく、あんな知らない、怖そうなおばちゃんと一緒なんてやだなあ」
「ぐは……」
ファラルーシェはいきなりがっくりと地面に膝を落としてしまった。邪悪様の何気ない一言がかなり効いてるようだ。
「マスター、あの人、いくらなんでもメンタル弱すぎじゃないですかね」
「あの年頃には一番きついんだろう、子供におばちゃん呼ばわりされるのは」
ひそひそ。小声で話していると、ファラルーシェの右手からまた光線が飛んできた。
「だ、黙れ! 黙れ黙れ! 人間の分際でわらわを愚弄するのは許さぬ!」
「いや、今、お前を一番傷つけたのはお前の姉様だろう」
「ち、違う! 違うもん! 姉様はわらわにそんなひどいこと言わないもん!」
もう涙目であった。天使としての威厳も何もあったものではない。
しかし直春はその言い回しにふと引っ掛かるものを感じた。
「そうか。じゃあ、聞くが、お前はこいつの何を知ってるっていうんだ?」
邪悪様を指差し尋ねてみた。
「お前はこいつの過去とか、名前とか、知ってるのか?」
「そ、それは……」
たちまちファラルーシェは真っ青になってしまった。明らかに何も知らないという顔である。
「お前、こいつのこと何も知らないのか。それなのに、なんで姉様姉様言って、自分のものにしようとしてるんだ。おかしいじゃないか」
「ね、姉様は、姉様なのじゃ! わらわの昔大切な人じゃったのじゃ! 記憶はなくともわらわにはわかるのじゃ! 姉様への想いで毎日胸いっぱいなのじゃ!」
「そうか、やっぱり記憶はないんだな……」
ココの言った通りのようだ。
「とにかく、そういうことなのじゃ! 人間よ、姉様を早くわらわに返すのじゃ!」
「そう言われても……」
直春は答えに詰まった。彼はまだ箱と契約解除できる状態ではない。したがって、可能か不可能かという意味では「渡せない」。それに、心情的にも、邪悪様を引き渡すのは大いにためらわれる気がした。
今はまだ邪悪様の過去について調べてるときだしな。
彼は自らの胸に去来したためらいをひとまずそう分析した。自分の中に、それ以上の答えがあるのは認めたくなかった。そして、ファラルーシェに「今は無理だ」と言った。
ファラルーシェはたちまち激怒したようだった。
「ならば、姉様は貴様の命ごともらいうけるまでっ!」
そう叫び、何か小さくつぶやくや否や、彼女の周りに無数の光の剣が現れた。それは、彼女が手を振ると同時に、直春めがけて次々と飛んでくる。
「うわあ!」
直春はとっさに横に跳び、それらの直撃を避けた。だが、それらはすぐに空中で方向修正して、また向かってきた。追尾機能がついてるらしい。これは避けられない。どうしようもない――。
結局、今までと同様、彼は鎖によって守られることになった。光の剣は、彼の目の前に突如現れたそれに激突すると、次々と砕けて消えた。
「く……完全防御の守護の鎖か。いまいましい!」
ファラルーシェはそれに舌打ちしたが、
「だが、わらわは知っておるぞ。それは、そう長くはもたぬものであろう?」
たいして役に立たないのはばっちりお見通しであった……。
と、そこで、
「ナオ」
何を思ったのか、邪悪様が直春のほうに駆けよってきた。もしかすると、彼女なりに彼のピンチを察したのかもしれなかった。
だが、彼女は突然、半透明のシャボン玉のような球体に閉じ込められた。
「姉様は、そこでじっとしていて下され」
それはファラルーシェの魔法のようだった。邪悪様の入った球は、そのまますうっと水平移動して、少し離れたところで止まった。中で邪悪様が壁をどんどん叩いているのが見えたが、その声は聞こえなかった。
「完全にあのお方と隔離されたって感じですねえ、マスター」
ファラルーシェの攻撃が再び始まったところで、役立たずの箱がまたしゃべった。光線攻撃、そこらの石つぶてをいっせいに浮上させて投げつけてくる攻撃、両手に巨大な剣を握って斬りかかってくる近接攻撃、やり方は様々だったが、どれも鎖で防がれた。というか、鎖で防がれることを前提に、手を抜いていろいろ試しているような様子であった。ファラルーシェはあくまで防御の時間が切れるのを待っているという、余裕の表情だ。
「あれじゃ、あのお方の援護は一切期待できませんね。
「縁起でもないこと言うな!」
しかし、ココの言う通りのような気がする。今の彼には、防御の鎖しかないのだ。その少ない残り時間はどんどん減って行く。
「あのシャボン玉みたいなの、壊せないのか?」
「そうですね、あのお方自身が内側から何かすれば、あるいは? まあでも、無理でしょうね。魔力はメチャある方なんですが、魔法の技術レベルが低すぎて、あの雷蹄の天馬ごときに蹂躙される始末ですから。例えると、超高性能のパソコン持ってるのに、それでトランプのゲームしかやれてない、みたいな状態なんですよ」
「機械音痴のおっさんかよ」
でも、そういう人、いるいる。相変わらず身も蓋もない例えだが、妙にわかりやすいのであった。
「今のあのお方にできる魔法はしょぼい念力と、しょっぱいビームぐらいでしょう。それじゃ、あのシャボン玉は割れませんねえ。あれ、見た目はチャチだけど、意外としっかり作ってあるんですよ。匠の技を感じます」
「敵を褒めてどうする……」
しかし、話を聞けば聞くほど絶望的な状況のようだ。
「そうだ、あのとこしえの刹那ってやつは、呼べないのか?」
「無理ですね。基本的に、あれは主たる
「百万回って」
オーバーキルにもほどがある。
「まあ、もうそろそろ完全防御タイム終了ですから、一回は確実に殺される予感ですよ」
「何言ってんだよ! なんとかならないのかよ、この状況!」
「防御を捨てて攻撃に転じればあるいは」
「そんなことできるのか」
「鎖は動きを拘束するためにあるんですぜ、マスター? 防御解除してあの
「投げ縄の要領? もしかして、そのへんは手動か?」
「イエッス! そこはマスターのフリーハンドでお願いします」
さらっととんでもねえことを言う箱である。カウボーイじゃねえんだぞ。
「あと、当然ですが、防御解除したとたんにマスターは無防備豆腐マンになります」
「マジか……」
だが他に方法はないようだ。このまま防御が切れるのを待ってやられるよりは、一縷の反撃の望みに賭けるしかない。
「わ、わかった! その作戦でいい。やってくれ!」
「チーッス!」
ココはファラルーシェが間合いを開けた瞬間を見計らい、鎖の壁を解除した。ファラルーシェの不意を突かれたような、驚きの顔が直春の目に飛び込んできた。
今だ――。
彼はそのまま鎖を握りしめ、目の前の女に投擲した。
それはファラルーシェに命中した。が、命中しただけだった……。
「まさか、このようなものでわらわをとらえる気だったのかえ?」
ファラルーシェはかろうじて体に触れた鎖の一端を握り、嘲笑った。直春の投げた鎖は命中したが、絡ませて動きを封じることはできなかったのだ。まあ、当然である。やっぱり、一般的な身体能力の男子高校生には投げ縄ならぬ投げ鎖は難易度高すぎである。
「無礼者が。恥を知るがよい!」
ファラルーシェはそう叫ぶや否や、短く何か唱え、純白の翼を大きく動かした。たちまち、直春は強烈な風に襲われた。彼はそのまま背後の土手に激突した。
「ぐ……」
衝撃で一瞬呼吸ができなくなった。目を開けると、ファラルーシェが数メートル先に立っているのが見えた。その手には強い光を放つ球が見える――。
「あ、あれ、相当ヤバイ攻撃ですよ。マスター、早く逃げないと!」
ココの声が聞こえたが、手足に力が全く入らず動けなかった。全身が痛い。
「滅せよ、愚かなる人の子よ!」
瞬間、強い光弾が彼に向かって発射された。それはまさによけるいとまもない、絶体絶命の攻撃であった。
だが、そのとき――、
「ナオッ!」
邪悪様の入ったシャボン玉が、突如として直春の前に飛んできた!
ファラルーシェの放った光弾は、それにぶつかった。まるで盾のようだった。だが、すぐにそれは衝撃に耐えられなくなって割れてしまった。直春は目の前で、ファラルーシェの光の攻撃を全身で受け止める邪悪様の小さな影を見た。それはやがて、直春の懐に吹っ飛ばされてきた。全ては一瞬の出来事だった。
「お、おい、しっかりしろ!」
直春は腕の中でぐったりしている邪悪様を揺さぶった。彼は邪悪様のおかげでほとんど無傷だった。しかし、そのぶん、邪悪様は大ダメージを被ったようだった。顔は真っ青で、息も絶え絶えといった様子だ。
「ナオ……だい、じょうぶ……?」
かすかに目を見開き、彼女はつぶやく。
「お前、ガキのくせに、何やってんだよ!」
「ぼく、邪悪様だもん……。ナオをいじめていいのは、ぼくだけ、だから……」
そこで気を失ってしまったようだった。彼女の言葉は途絶えた。
おそらくココの言うしょぼい念力とやらで、シャボン玉ごとここまで飛んできたんだろう。直春を守るために……。
「くそっ!」
直春は拳を固く握りしめた。強い怒りが彼の胸を熱く焦がした。許せなかった。邪悪様をこんな目にあわせたやつが――。
気がつくと、体は勝手に前に動いていた。彼の足は駆けだし、彼の握りしめた拳はすぐ先に呆然と立ち尽くしているファラルーシェの顔めがけて突き出された。
だが、それは空を切るだけだった。ファラルーシェはとっさに後ろに退き、さらに上へと飛翔し、彼の攻撃を回避した。
「わ、わらわは、そんなつもりでは……」
彼女は動揺しきっているようだった。「ふざけるなっ!」直春は罵声を浴びせた。
と、そのときだった。
「……父なる力の迅雷よ、滅びを謳う稲妻よ」
直春の背後からにわかに声が響いた。
「今ここに、天を裂き、夜を断つ刃となって、我が元に集え! 出でよ、天雷ガ・ディウ!」
瞬間、一条の強い光が天空から轟音と共に飛来し、ファラルーシェの体を貫いた。
「きゃああああっ!」
彼女は上空で痙攣し、やがて、花が散るように地上に落下した。
これはまさか……、
直春は後ろを振り返った。はたして、そこにいたのは、瞳を赤く鋭く光らせて立つ邪悪様――とこしえの刹那だった。
「たかが卑しい
とこしえの刹那は一喝すると同時に、ファラルーシェに向け、水平に腕を払った。たちまち、ファラルーシェは再び天からの強い雷に撃たれた。その悲痛な叫びがむっとした夏の夜の空気を震わせた。
「あれは、
と、ココがしゃべった。
「あれ、普通なら最初の一発であの
「手加減してるのか。じゃあ、殺す気はないってことか」
「いや、ちょっと違う気がします……」
ココはいつもと違ってなぜかあまり語りたがらない様子だった。
二発目の雷を浴びせたところで、とこしえの刹那はゆっくりと倒れているファラルーシェに近づいた。そして、その亜麻色の長い髪をつかみ、持ち上げた。ファラルーシェの顔は苦悶で歪んでいる。とこしえの刹那の顔もまた歪んでいる……残忍な笑みで。
「お、お許しください……わらわはあなた様を傷つけるつもりは……」
「詫びる必要などない。私は言ったはずだ。貴様の愚行は万死に値すると」
とこしえの刹那はファラルーシェの頭を地面に強く叩きつけた。
「文字通り、数え切れぬほどの死の苦痛を味あわせてやる」
そのままファラルーシェの脇腹を蹴り、彼女を仰向けにさせた。そして、何か短く唱えたようだった。ただちに無数の刀剣類が彼女のすぐ真上に現れた。
「あいつ、まさか……」
直春は血の気が引いた。
「やめろ!」
叫び、駆け寄ったが――手遅れだった。剣や槍は次々とファラルーシェの、藤崎美命の体に突き刺さって行く。その傷口からは血が噴出し、体はぴくぴくと痙攣している。泡を吹きながら唇の間から漏れてくる声は、もはやか細い。
「お前、何を――」
「勘違いするな。私はこれを殺しはしない。見ろ」
とこしえの刹那はその体に刺さった一本を無造作に引きぬいた。すると、たちまち、その傷は消えた。
「これには憑依解除不可の呪縛魔法とともに強い回復魔法をかけてある。中途半端に殺しても死ねないようにな」
とこしえの刹那は冷ややかに笑いながら、苦しみもだえているファラルーシェを見降ろしている。
「この人の器を壊してしまっては、中身の
「な……」
直春はその言葉に慄然とする思いだった。なんて残虐極まりないやつだろう。
「いいから、やめろ! こんなこと――」
「黙れ」
とこしえの刹那はまた短く何か唱え、彼のほうに手を振った。たちまち、彼は見えない強い力で地面に叩きつけられた。まるで、彼のいる場所だけ重力が何十倍にもなったようだった。
「いだだだだだだだっ!」
ポケットの中でココがわめく。
「ココ……これはいったい……」
「じゅ、重力操作魔法ですぜ、マスター。いだだだだだっ!」
説明してくれるのはいいが、うるさい箱である。直春だって痛いのに。
「無能な人間のくせに私に指図するとはな。身の程をわきまえろ、ゴミが」
「お、お前――」
直春は地面に這いつくばったまま、とこしえの刹那を睨みつけた。
「ゴミはゴミらしくそこで土をなめていろ」
とこしえの刹那は直春のそんな醜態を鼻で笑った。天頂の半月の光が、その美しい少女の顔を白く照らし、付着した返り血を赤く濡らしている。
彼女はそのまましばらく、ファラルーシェをいたぶり続けた。刃物の切っ先がそのやわ肌に突き刺さる時、直春の耳に押し殺したようなうめき声が聞こえてきた。彼女の四肢は全て槍が突きたてられており、まるで地面に磔にされているようだった。いや、この痛みに体を痙攣させている様子まるで……カエルの解剖だ……。直春は吐き気を感じた。すぐにでも止めたいが体はやはり動かない。
やがて、その「処刑」に飽きたのだろう、とこしえの刹那はにわかにファラルーシェから数歩離れた。ファラルーシェを責めていた刀剣類はたちまち消えた。
「卑しい
「こ、今度は何を……」
ファラルーシェの肉体はすっかり回復していたが、その顔は恐怖で引きつっていた。手足は遠目にもわかるほどに震えている。
「なに。趣向を変えるまでのことだ」
とこしえの刹那はまたしても冷たく笑った。そして、高らかに叫んだ。
「黎明に銀のミミズクが笑うとき、虚空界を統べる王はその息吹を持って万人に終末を告げるだろう! 無量無辺より湧きあがれ、
瞬間、大気と大地はともに小刻みに震動し始めた。そして、その胎動にも似た世界のうねりの中で、川の水と河原の砂と砂利は舞い上がり始め、とこしえの刹那のすぐそばに蝟集した。それはただちに一つの形を成した。直春の目には、一匹の龍としか見えなかった。そう、水と土くれで出来た龍……。だが、その造作は荒々しくも、確かな命の息遣いを感じさせるものだった。
「あれは、召喚魔法の一種か?」
「違いますよ、マスター。あれは
いでででで、と、ココは超重力にうめきながら説明する。なんだろう、その禅問答みたいな答えは。
「あれには定まった肉体がないんです。世界のすべてが肉体ですからね。ゆえに世界龍。その力を一点に集め顕現させたのが
「はあ……」
なんとなくイメージできるような、できないような。
「というか、あいつ、この間から、
「
「マジか」
さすがにそのすごさはよく伝わってきた。
「そもそも
「え……じゃあ、あいつが使ってるのは……」
「あれ? そういえば――」
ココはそこで初めて重要な見落としに気付いたようだった。
「変ですね。現在、残り十一個は間違いなく所在不明で、三界のどのデータベースにも手掛かりがない状態なんですが……」
「なあ、その十一個が行方不明になったのっていつの話だよ?」
「詳細は不明ですが、目撃情報が途絶えたのは今から約五十年前とされてるようですね、はい」
「五十年前? それって……あいつが全部持ってるんじゃないのか?」
「…………ああっ」
ココはしまったという声を出した。
「お前、なんでそんな単純なこと気付かなかったんだよ」
「こ、これは、
「まあ、そうだろうな……」
世界中から関連情報の一切が消えてる状態みたいだし。
「でも、そんな物騒なもん十一個も持ってるのか、あいつは」
「五十年前、どんだけヤンチャしてたんでしょうかね」
「っていうか、今の話を聞くと、昔のあいつはまるで――」
天界の王とやらよりもずっと強大な力を持っていたとしか考えられないような。
やがて、とこしえの刹那の新たな処刑ははじまったようだった。
「ヴァリエル、この女を噛み砕き、はらわたを引きずり出せ!」
土くれの龍はただちに動き始めた。そのうごめく様は蛇にも似ていたが巨躯に相応しくない素早さがあった。体の表面はうろこのような模様があったが、それはただれており、ゆっくりと後ろに動いていた。牙の間からは湯気のような白い息吹と、よだれが漏れている。それは龍自身の口蓋を溶かしているが、瞬時に再生している。眼球は金色に光り、縦長の瞳孔は等しく目の前の哀れな女をとらえている――。
まず、その顎が、ファラルーシェの肢体を砕いた。
「あ……あ……」
ファラルーシェはもはや絶叫することもできない様子だった。牙がつきたてられた時、彼女はわずかばかりの声を漏らし、体をびくんと震わせただけだった。龍は彼女をくわえたままいったん頭上に掲げると、一気に地面にたたきつけた。ぺしゃり。人の骨が砕け、内臓が破裂する鈍い音がこだました。トマトの果汁ように血が四散した。
だが、その致命傷は一瞬にして再生した。次に龍の爪がその体につきたてられたが、やはり同様だった。死に相当する傷はただちに癒え、また新たな暴力が加えられるのであった。酸のよだれが彼女を溶かした。龍の長い体が彼女を締め付けた。しっぽで激しく打たれた。いずれも彼女は瞬時に再生した。再生し続けた。
「ひどいもんだな……」
直春は見ちゃいられない気持ちだった。目の前の光景は凄惨そのものである。
「まるでネズミをお手玉して遊ぶライオンですね、ありゃあ」
ココの例えは相変わらず的確だ。そもそも一人の女をなぶるのに、あんな龍を呼ぶ必要なんてなかっただろうに。あの龍は、どう見ても大量破壊兵器である。ミサイルとか、それ以上に相当する何かである。
何とかして止めないと……。
このまま見ているだけというのは、いくらなんでもファラルーシェがかわいそうだ。それに何より、殺戮ショーを高笑いしながら楽しそうに見ているとこしえの刹那の表情が許せなかった。邪悪様と同じ顔で、そんな表情をしてほしくなかった。
まずはこの重力操作魔法をなんとかしないと……。
動けない――と、そこで、彼の脳裏に一つのアイデアが浮かんだ。
「ココ、鎖を出してくれ」
「え? この状況で何を――」
「いいから、早く」
はあ、と、ココは生返事し、地面に這いつくばっている直春のすぐ眼前に鎖を出した。直春は超重力の中、懸命に腕を動かしそれをつかんだ。そしてまた渾身の力で腕を動かし、鎖を自分の体に巻き付けた。
すると、たちまち彼の体は軽くなった。
「おお、マスター、その手があったか」
そう、鎖に絡まれたものは魔力が封印される。ならば、鎖によってかけられた魔法も解除されるのではと考えたのだ。それは見事に的中した。
その瞬間、彼はさらに、鎖で輪を作ったとき、その中は完全に魔力の流れが断たれることを直感的に理解した。やるべきことはもはや一つだった。鎖を握りしめ、気配を殺しつつ、かつ素早く、とこしえの刹那に近づいた。
彼女は完全に油断しきっていた。後ろから鎖をかけると、あっさりと捕えることができた。そして、彼女の背中で鎖を交差させた途端、龍は消えた。直春はその背中に体重を乗せ、彼女を地面に押し倒した。
「ファラルーシェ、早く逃げろっ!」
直春は倒れている女に鋭く叫んだ。ちょうど傷が再生しきったところで――というか、直春はそのタイミングを狙っていたわけで、彼女はまったく負傷していなかった。彼の呼びかけに彼女は驚いたように顔を上げ、すぐに「こ、怖かったよう……」と涙目になりながら、空の向こうに飛んで行った。
「貴様、何を――」
とこしえの刹那はもがいたが、その力はもはや十歳の女児のそれでしかなかった。鎖で強く締め付けると、痛みに耐えられなくなったようにその力も抜けた。直春はその隙を突き、さらに二重三重に鎖を巻き付けた。そして、肘から先も縛り、完全に動きを封じた。
「おのれ……人間風情が!」
とこしえの刹那は、地面にあぐらをかいて、直春を睨みつけた。恐ろしく殺気走った赤い目である。直春はさすがにもう何とも思わなかったが。鎖にぐるぐる巻きにされている状態ではなあ。
「マスター、なんであいつにハウスしないんですか? 鎖で生け捕りにするより、そっちのほうが確実だったでしょ? 早くハウスしようぜハウス! ココちゃんを痛めつけた憎いアンチクショウにはそれしかない!」
ココがポケットの中でやかましく騒いでいたが、直春は無視した。彼には考えがあった。だからこそ、超重力から抜け出した時、あえて彼女を箱に封印しなかったのだ。
「とこしえの刹那、俺はお前に聞きたいことがある」
「私は貴様に話すことなど何もない」
とこしえの刹那の態度は相変わらずだ。邪悪様が人懐っこい子犬なら、こっちは手のつけられない狂犬といったところか。直春は少しの間黙っていたが、やがて、
「そうだな。これじゃ話を聞くって感じじゃないよな」
と、つぶやき、彼女の背後に回って鎖を解いた。
「マ、マスター、何考えてやがるんですか!」
「別に。縛られた子供が目の前にいるって光景が好きじゃないだけさ。それに――」
直春は鎖を回収しながらとこしえの刹那の前に回る。ポケットに入れた鎖はたちまち箱の中に吸い寄せられ消えていく。
「俺を殺すつもりがあるなら、もっと早くやってるだろうしな」
「……ふん」
とこしえの刹那は忌々しそうに直春を睨みつけた。
「図星か? お前には俺を殺せない理由があるのか?」
「まあな。脆弱なゴミとはいえ、お前はまぎれもなく人間だ。私がその命を絶つことはできない。それは――許されざる大罪だ」
「……大罪? 人を殺すことが?」
直春は大きく目を見開いた。それは不意打ちすぎる言葉だった。
「お前みたいな悪ガキが、そんなふうに考えてるとは到底思えないな。その大罪というのは、天界とやらの決まりか?」
「いや、世界そのものの取り決めだ。天界や冥界の者がこの世界に干渉し、人の命を絶つ、それは世界の理を大きくかき乱すことなのだ」
「でも、この人間の世界は、他の二つの世界に比べて、砂漠みたいな、どうでもいいところなんだろう? そのどうでもいい世界に暮らす、何十億もいる人間を一人二人殺すことが、世界全体からするとそんなに罪深いことなのか?」
「どうした、人間? なぜそんな青い顔をしている?」
とこしえの刹那はにやりと顔をゆがませた。直春は胸の底が見透かされてるような気持ちになり、冷や汗が出た。
そう、今彼女が語ったことは、彼がずっと危惧していたことを暗示していた。五十年前に邪悪様が犯したとされる「大罪」。今の話を聞くと、それはまるで……。
「い、いいから、俺の質問に答えろ!」
「なに、とても単純な話だ。お前の説明した通り、人間の住むこの世界は、他の二つの世界にとるにたらない、無価値で無害な存在だ。今は、な」
「今は?」
「そうではない時代もあったということだ。いや、時代ではなく世界と言った方がいいか」
とこしえの刹那は、ふいに遠い記憶を呼び覚ますように目を細めた。
「今は魔力を持たぬ無力な人も、かつては魔力、あるいはそれと同等の力を得て、冥界と天界の存在をおびやかしたことがあった。そして、その都度、冥界と天界の王らによって世界は改変された」
「なんですと!」
と、驚きの声をあげたのはココだった。どうやらこの箱も知らないことだったようだ。
「度重なる改変の結果、魔力をほぼ封印されたのが今のこの世界だ。そして、人が再び強大な力を得ることがないよう、禁忌――大罪がもうけられた。その一つが、さきにお前に話したことだ」
「人を殺してはいけない?」
「そうだ。そして、我が主が五十年前に犯したのもこれだ」
「な――」
直春は顔から血の気が引いた。
「ば、ばかな! あいつがそんなことするはずない!」
思わず叫んだ。
「本当はお前がやったんだろう? お前が、あいつの代わりに殺したんだ――」
「落ちつけ、人間。お前は何か勘違いしているようだ」
「勘違い?」
「確かに、五十年前我が主は大罪を犯した。しかし、人は殺してはいない。逆だ。死人を蘇らせたのだ」
「人の……命を助けた?」
「それは、天界、冥界の者らにとって、殺人と同等の行為だ。人の生死に一切関与してはならない。それこそが大罪の正体だ。そして、我が主は五十年前それを破り、一人の人間の娘を助けた。間宮球美という名の、火事で死んだ娘をな」
それは、直春の胸の中の暗雲を一気に晴らす言葉だった。今まで点でしかなかった断片的な情報が一つに結びついた瞬間でもあった。
「そうか……。あいつは、俺の祖母を助けたのか……」
体からどっと力が抜け、その場に膝をついた。手は震え、胸は熱かった。安堵の気持ちで涙が出てきそうだった。
「話は終わったようだな。私はまた、とこしえの底に沈み、次なる刹那を待つとしよう」
とこしえの刹那はそう言うと、目を閉じ、その場に倒れた。直春はすぐに駆け寄った。少女は眠っているだけのようだったが、それはもうとこしえの刹那ではないことは明らかだった。その寝顔はとても安らかで穏やかだ。
直春は彼女をそっと胸に抱いた。
彼はずっと怖かった。邪悪様が、本当に邪悪そのものだったら、と。でも、そうではなかった。世界全体のルールでは大罪かもしれないが、直春から見れば、それは少しも悪ではなかった。それがたまらなくうれしかった。
「なあ、ココ……こいつってホントにガキだよな」
邪悪様を背負いながら彼はつぶやいた。
「いつも偉そうで上から目線だし、意味不明に悪ぶってるし、甘いもの好きだし、学習能力ないバカだし、デリカシー皆無で人の場所にどんどん踏み込んでくるし、妙に意地っ張りで負けず嫌いなところあるし、そのくせ泣き虫だし――」
「どうしてたんですか、急に愚痴ですか」
「あ、そっか。愚痴になるのか……」
直春は笑った。本当に、今までのことを思い返してみると、邪悪様は子供そのものだった。しかし、直春はそれを決して嫌うことはできなかった。むしろ……。
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