第6話
それから少しして、邪悪様が落ちついたようだったので、直春はその手を取り、一緒にキッチンに行った。冷蔵庫にプリンが入っていたのを思い出したのだ。子供の機嫌をとるならこういうものを与えるに限る。
邪悪様の反応は実に予想通りだった。冷蔵庫の前で立ったままプリンを一口食べさせたとたん、笑顔になった。なんてわかりやすいお子様なんだろう。直春は笑った。重い気持ちが晴れる気がした。邪悪様にスプーンとプリンを手渡し、自分用のアイスコーヒーのペットボトルを冷蔵庫から出すと、一緒に居間に行った。
二人ははじめ、ローテーブルをはさんで向かい合って座っていたが、不意に邪悪様はプリンを持って直春の隣に移動してきた。
「なんだよ、お前?」
「べ、別に……ぼく、こっちの場所のほうが好きなんだよ」
邪悪様は直春がじっと見つめると、恥ずかしそうに目をそらした。まだちょっと心細いんだろうか。直春はその頭を撫でた。さっき何を思い出していたのかわからないが、もうあんなふうに邪悪様が泣くのは見たくなかった。
と、そこで、邪悪様がまた直春の方を見た。はっとしたような、何かに気付いたような顔だった。
「俺の顔に何かついてるか?」
「ううん。ついてないよ……何も。でも、ナオは似てるみたいなんだよ。ぼくの知ってる誰かに……」
「誰かって誰だよ?」
「それは……わかんない……」
邪悪様は不安そうに目をしばたたかせ、やがてまた泣きだしそうな顔になってしまった。なんだか触れちゃいけないことだったみたいだ……。
「そ、そんなことよりプリン食え、プリン! な!」
その背中をばんばんと叩いて、顔をそむけた。そして、何かごまかすような勢いで、グラスに入ったアイスコーヒーを一気にあおった。
すると、今度はそちらのほうに邪悪様の関心が移ったようだった。
「ねえ、それなに?」
気がつくと、邪悪様がアイスコーヒーの入ったペットボトルを熱いまなざして見ている。
「ああ、これはコーヒーだよ。大人の飲み物だ」
「大人の? 子供は飲んじゃダメなの? それって悪いこと?」
邪悪様が変にときめきだしたようである。「いやいやいや」あわてて首を振った。
「別に子供が飲んでもいいものだし。害はないし」
「ほんと? ぼくも飲んでもいい?」
「いいよ」
微糖だから、子供でも飲めるかな。直春は新しくグラスにアイスコーヒーを注ぎ、邪悪様に手渡した。
「うわあ。真っ黒だね」
「さ、ぐいっとやれ。ぐいっと」
「うん……」
邪悪様は少しの間グラスを両手で持って、傾けたり顔を近づけたりして中の液体の様子をうかがってたが、やがて覚悟を決めたようにそれに口をつけた。夜中にコーヒーを飲む。それは子供が大人の階段駆けあがる一つの瞬間である。直春は微笑ましくそれを見守った――が、そのとたん、
「……うにゅ」
邪悪様は変な声を出して、ソファの背もたれに倒れてしまった。その顔は赤い。目つきもなんかおかしい。とろんとしてて、変にうるんでる。目がすわってると言った方がいいのか。これはまさか……。
酔っ払ってる!
そうとしか考えられない様子だった。でもなんでコーヒーで? クモじゃあるまいいし……。直春はすぐにペットボトルのラベルを確認した。が、アルコールなんてみじんも入ってなさそうだった。
「おい、どうしたんだよ! しっかりしろよ!」
その体をゆさぶったら、ゆさぶったぶんだけぐにゃぐにゃ動き、
「あっはっはー」
おかしい目つきのまま、高笑いしはじめた。完全に酔っ払いのていである。
と、そこで、
「なんの騒ぎですかね。夜中にうるさいっすよ?」
褐色肌の美女のアバター、ココが、あくびをしながらキッチンの方から歩いてきた。どうやらさっきまで寝てたようだ。
「こいつの様子がおかしいんだよ。なんか酔っ払ってるみたいで……」
「あ、これ飲ませちゃったんですね、マスター。それはアカン」
ココはすぐにアイスコーヒーのペットボトルに気付いて、やれやれといった感じで首を振った。
「アカンってなんだよ! これ、缶じゃなくてペットボトルだぞ! こんなときにふざけんな!」
直春もいささか混乱気味である。
「
「弱点?」
「口に入れたが最後、ただちにすみやかに酔います。めっちゃ」
「やっぱり酔ってんのかよ!」
ってか、そんなの初耳すぎる新情報である。
「そんなやばいもんなら、なんで事前に教えてくれなかったんだよ」
「なあに。ココちゃんは基本的に明日できることは今日やらない。それだけのシンプルな理由さあ」
「ふざけんな!」
空のペットボトルをそのアバターに投げつけた。
「とりあえず、対応策を教えろ。一刻も早く」
「はいはい。天界の奥地、
「そ、それ……念のために聞くが、手に入れるのにどれくらいかかるんだ?」
「今年はまだ実らない年なので……八十年くらいですかね?」
「無理すぎるだろ、いろいろと!」
酔いざましぐらい、近所のドラッグストアで買わせろ。
「まー、こうなっちゃ、普通の人間の酔っ払いと同じですよ。ほっときゃ、数時間で正気に戻るっす」
「そうか、よかった……」
直春は胸をなでおろした。さすがに八十年も待てない。
だが、そのときだった。いきなり彼ら二人の体が宙に浮いた。
「な、なんだ――」
この感じはまさか……。はっとして、下を見ると、案の定だった。邪悪様がソファの上で手をぐるぐる動かし、こっちに何かのパワーを送っている様子である。
「わーい! みんな飛んじゃえ!」
「ちょ、バカ! やめ――」
「きゃはははっ!」
直春の声などまるで聞いちゃいない。やがて彼らだけではなく室内にある様々なものも宙に浮き、そして、でたらめに動き始めた。
「うわあっ!」
まるで洗濯機の中に放り込まれたようだった。見えない力に振り回され、直春は空中を高速で旋回し、回転の軸がずれたところで、壁に叩きつけられた。どかん。頭を強打し、その場にうずくまった。超痛い。なんなんだ、これは。
被害はもちろん直春だけではなかった。家の中のあらゆるものが飛びまわっては、ぶつかり合っている。皿が割れる音、棚が倒れる音、本が破れる音などが響いている。もはやしっちゃかめっちゃかのひどい有様である。
「このままでは家が……」
直春はたんこぶの出来た後頭部を抑えながらよろよろと立ちあがった。一刻も早く止めなければ、邪悪様を。ソファの上でハイになっている彼女を、後ろから押さえつけた。
「お、落ちつけ! これ以上魔法を使うな!」
直春がありったけの声を振り絞ると、それにびっくりしたのか、邪悪様は瞬間、体を大きく震わせた。たちまち、宙に浮かんでいるあらゆるものが下に落ちた。
これはチャンスか? 直春はそのまま邪悪様の前に回った。
「いいか、邪悪様。呼吸だ。呼吸を整えれば、気持ちは必ず落ち着く」
「こきゅう……?」
邪悪様の目は相変わらずとろんとしていた。
「ヒッヒッフーだ。俺の後に続け」
「ヒッヒッ、フ?」
「違う! そこは切るな、伸ばせ! ヒッヒッフー!」
「ヒッフッフー?」
「おしい、あともう一歩だ!」
なんだかよくわからない流れになってきた。
「マスター、それってラマーズ法じゃないっすか? アンタ、産卵でもするんですか?」
ココがツッコミを入れてきたが、直春には聞こえないも同然だった。彼にとって、今はヒッヒッフー!の呼吸が一番大事なのだった。っていうか、それでいっぱいいっぱいなのであった。
そして、そうやって意味不明の呼吸法を指導しているうちに、邪悪様の様子は落ちついてきたようだった。安らかな表情になり、直春の胸にもたれかかってきた。これは、このまま朝まで熟睡コースかな? 直春もほっとした。
だが、そのとき、ふいに邪悪様の体に異変が起こったようだった。なんかさっきより重い。肩幅も大きくなってるような。しかも胸板にやわらかいものがあたってるような? これはどういう……。直春はただちにその肩を掴んで、様子を確認した――ら、
「なん……だと……」
驚きのあまり、しばし、餌に群がる池の鯉のように口をパクパクさせてしまった。
そこには先ほどまでの酔っ払いのお子様はいなかった。酩酊しきった様子で顔を上気させている、十六歳ぐらいの銀髪の少女がいた。
「ちょ、これ……どういうことなんだよ!」
謎の少女の肩を持ったまま、ココのほうに振り返った。
「たぶん変身魔法で一時的に大人の姿になっちまったんですね。酔った勢いってやつです。こういうのって人間でもわりとよくある」
「へ、変身魔法?」
「はい。そこそこ高度な魔法で、本来なら詠唱が必要なもんなんですけどね。酔いで魔力が暴走して勝手に発動しちゃったんでしょ。魔力の塊みたいなお方ですから」
なるほど、魔法で体が一時的に大人になっただけなのか。直春は理解したが、しかしこの状況には慣れなかった。彼の目の前にいる少女は、酔いで朦朧としているものの、素晴らしい美貌の持ち主だった。肌は陶器のように白く、銀の長い髪は少ししどけなく乱れて、頬に流れている。うっすらと閉じられた、うるんだ瞳は今は深い瑠璃色をたたえており、直春をじっと見ている。そして、子供用のパジャマはサイズが小さすぎてパツンパツンである。胸のところは特にボタンが飛んでしまいそうだ。しかもその状態で、よりによって前かがみの体勢と来ている!
直春はすっかり顔が熱くなってしまった。やっぱりこういうの慣れてない彼なのである。たとえ邪悪様が一時的に姿が変わっただけだとわかっていても、感情がついていかないのである。だって、めっちゃかわいい女の子が、目の前でエロイ表情でエロイ恰好してるだもの!
「こ、これでわかったぜ。こいつちゃんと女だったんだな……」
声を震わせながらそう言うのが精いっぱいだった。
「ナオ……どうしたの?」
と、目の前の美少女が話しかけてきた。はわわ。胸がドキドキしちゃう。
「べ、べべべべ別に! 俺は全然なんともないぜ!」
「すごくなんともある感じですねえ、童貞のマスター」
後ろから声が聞こえてきたが華麗にスルーする。あっちは、目の前の美少女に比べたら月とすっぽんなのである。
「ナオ、あのね……ぼく、胸が苦しいみたい……」
「え」
「ボタン……外すね」
ぽちぽちぽち。なんということでしょう。目の前の美少女は、大胆にもパジャマの前を開けてるではないですか。
パジャマのボタンが一つ外れるごとに、パツンパツンになっている布地が大きく開放され、それはすなわち、その下に隠されていた二つの麗しいふくらみの解放を意味した。彼女はパジャマの下は何も身につけていなかった。前のボタンを全部外したところで、布はちょうど二つの乳房の頂にひっかかる形になった。当然、谷間はまる見えだったし、乳白色のその肌は餅のようにふっくらとしていてやわらかそうで、パジャマをまだひっかけてる状態でも明らかな体のラインは優美で繊細で、華奢ながらも女性らしい魅力的な丸みを帯びていた。
「お、お前……」
直春はもうそれ以上何も言えなかった。ただひたすら見とれてしまう。体が火のように熱い。
「ナオ、どうしてずっと黙ってるの?」
と、目の前の美少女がやおらこっちに顔を近づけてきた。無防備にも前かがみに、雌豹のポーズになって。はわわ。破廉恥極まりないですぞ! 美少女の動きにあわせて、乳房がぷるんと揺れるのが見えた。というか、直春は見逃さなかった。
「マスターってば、動揺しすぎですよお」
後ろからまた声が聞こえてくる。にやにや笑ってるような口調である。
「う、うるさい! お前、笑ってないで、この状況なんとかしろ!」
「はあ。思うんですけどね、そのお方を箱に戻せばいいんじゃないですかね。状態異常は一度そういうものに戻すに限るでしょ?」
「そうか!」
その手があったか! そこに気付かないとは、理知的な直春にしてはかつてないほどのうっかりであった。
「よ、よし、やるぞ……」
前かがみの体勢のまま覆いかぶさってくる美少女を、直春は仰向けのまま、尺取り虫のような動きで素早く後退しかわした。そして、以前と同じように高らかに叫んだ。「邪悪様、ハウス!」と。
ただちに、褐色肌のアバターの女、ココの胸の谷間の小箱から鎖が伸びてきて、その美少女の体に巻き付いた。そのまま、彼女を箱に引きずり込む――はずだったのだが、なぜか少し動いただけで止まってしまった。ブッブーという、クイズを間違えた時のような音が鳴って。
「おい、どうしたんだよ?」
ココのほうに振り返ると、
「いやですね、マスター。アタシ……こんなに大きいの入らないですよ」
褐色肌のグラマー美女が顔を赤らめ、クネクネしていた……。またどさくさに何やってんだって感じである。直春はその頭にスリッパを投げた。
「真面目に質問に答えろ! なんで箱に戻せないんだよ!」
「だからあ、言ったじゃないですか。変身魔法のせいで今は入らないみたいなんです。容量オーバーってやつです。ココちゃんの収納スペースってば、意外とキツキツですからあ」
なんと! またしても役立たずの箱である。仕草や台詞もいちいちウザイ。
「でも、この状態なら動きは封じたも同然ですし、じきに鎖パワーでめったな魔法も使えなくなるはずですよ。今はハウス失敗で機能が一時停止してますがあと数十秒で……」
「そうか、じゃあ、このまま酔いがさめるのを待って……」
と、そこで、美少女の姿を確認して、直春は目が点になった。そのパジャマの上着は、もはや隠すものも隠さない仕事しない状態で、彼女の上半身をあますところなくあらわにしていた。その状態で彼女は鎖にぐるぐる巻きにされている。かろうじて胸のふくらみの頂は鎖の一本で隠れていたが、それはとてもあやうく、見えそうで見えないギリギリな感じである。鎖にきゅっと締め付けられた乳房はいじらしくも押しつぶされて歪み、何重にも巻き付いた鎖の間からは肉がこぼれている。それはとても白くまばゆい……。
「ナオ……苦しいよ……」
美少女はその状態で、切なくうるんだ瞳で直春を見つめる。顔は相変わらず火照っている。苦しそうな吐息が、そのわずかに濡れた桜色の唇から漏れている。
「ち、ちちちちち違うっ!」
直春は意味不明に何かを否定した。なんだこの光景。頭がどうかなりそうである。どうしてこんなことになった……。
と、しかし、そこで変身魔法とやらの効果が切れたようだった。美少女はただのお子様、邪悪様に戻ってしまった。鎖もゆるゆるになってほどけてしまった。
そして、ココが鎖を箱に戻したところで、邪悪様は目を閉じてしまった。どうやら、疲れて眠ってしまったようだった。
やれやれ……。
直春は全身からどっと力が抜けた。目の前には依然として上半身裸の邪悪様が寝転がっているが、ぺったんこすぎてどうでもよかった。そのパジャマの前のボタンを留めてやると、おんぶして自分の部屋に運び、ベッドに寝かせた。母親の部屋に寝かせても、どうせすぐにこっちに来るだろうと思ったからである。
邪悪様をベッドに横たえたところで、ふいに彼女は目を開き、直春のシャツの裾をひっぱった。そして寝ぼけ眼でこう言った。
「行っちゃやだ……たまちゃん……」
彼女の目は直春を見ているようで見ていなかった。直春の面影の向こうに誰かを見ているようだった。
「たまちゃん? それ誰のことだよ?」
「………」
邪悪様はしかし、そのまま再び眠ってしまったようだった。
いったい誰のことなんだろう。直春は気になってしょうがなかった。コーヒーを飲む前に邪悪様が言った、直春は自分の知っている誰かに似ているということも……。
と、そこで、彼はあることに気付いた。
彼の父方の祖母が「間宮珠美」という名前だったことに。そして、直春は幼いころ、父に、その祖母によく似ていると言われたことがあったことに。
「邪悪様が封印されたのは五十年前……。父さんは生まれてないけど、おばあちゃんなら――」
ただ、祖母もまた、父を産んですぐ、四十年ほど前に他界していたが。
彼はすぐに荒れ放題の居間に戻り、ココに尋ねた。
「お前、父さんの前の箱の持ち主、わかるか?」
ココは首を振った。
「残念ですが、そのへんの情報が
「そうか……」
「ですが、マスターなら、そのロックは無効ですよ。マスターはあのお方が封じられた箱の主なんですからね。システム上、あのお方より上位の存在になってます。あくまでシステム上ですが」
「俺が調べれば何かわかるかもしれないってことか」
「はい。あと、ロックが無効になってると言えば、とこしえの刹那、でしょうかね。あれなら、全部知ってるかもしれませんし、マスターならそれを聞き出せるかもしれません。ただ、次いつ現れるかわかりませんが」
「そういえば、邪悪様の中には戦闘人格みたいなやつがいたっけか」
直春はその赤く光る残忍な目を思い出し、寒気を覚えた。あんなやつから、何か話を聞けるんだろうか。
「藤崎美命さん、なぜ職員室に呼ばれたか……おわかりですね?」
さて、その翌日の午後。ところ変わって、聖ラファエル女学院というカトリック系の女子高の職員室。中年の女教師が、一人の女生徒に話しかけている。亜麻色の髪をした、繊細な美貌を持つ少女である。
「まあ、先生、そういうことはちゃんと理由を説明していただかないと、わたくしわかりませんわ」
女教師の険しい顔とはうって変わって、少女、美命はにこやかに答える。春のうららかな日差しのような笑みである。
「そうでしょうね。あなたはそういう生徒です」
女教師は深くため息を漏らした。
「ここへ呼んだのは他でもありません。藤崎さんの成績のことです。はっきり言います。あなたの今期末の試験の成績……非常になげかわしいものです」
「なげかわしいってどういうことですの?」
「え……」
「もっとはっきりおっしゃってくださいまし」
「つ、つまり、悪いんですよ。すごく! 一年生全員のうち下から数えて何番目なんですか、あなたは」
「三番目でしたわ」
美命は笑顔を崩さず答える。女教師の額に青筋が浮かぶ。
「わかっているのなら、なぜそんな態度なんですか!」
「そんなって、どんな態度を取ればいいんですの?」
「反省の色というものが……」
「何色ですの、それは?」
「……」
女教師は無言で机をドンと叩いた。周りにいる他の教師達が、憐みの目で彼女を見ていた。よりによって、あの藤崎美命の担任だなんて大変だなあ、みたいな目であった。
「とにかく! 進学校ではない我が校にも一応、進級のための基準と言うものがあります。藤崎さんの成績では、このままでは二年生に進級できないおそれがあります。あなた、ちゃんと勉強してるんですか?」
「もちろんですわ。毎日聖書を読んで、神のお言葉を勉強していますわ」
「聖書? いや、それはそれでよいことですが、教科書もちゃんと読んで……」
「あら、どうしてですの、先生? 神のお言葉より大切なものは他にないはずですけれど」
「それはそうですが、日本には人事を尽くして天命を待つという言葉があってですね……」
「ジンジヲツクシテ? 日本語だとどういう意味ですの?」
「日本語です、はじめから!」
女教師はまた机をドンと叩いた。その額の青筋はぴくぴく震えている。
「先生のお話はよくわかりませんが、わたくし、これでも今回のテストではそれはもうがんばったつもりですわ。毎日、よい点数が取れるようにお祈りしてましたもの」
「祈ってただけですか?」
「はい」
美命はほほ笑んだ。子供のような天真爛漫な笑顔である。
「……とにかく。事前に通達した通り、明日の午後、五教科の追試を実施します。その結果によっては、藤崎さんの親御さんとじっくり話し合う必要があるでしょうね」
「まあ、先生。お父様、お母様にお話があるのでしたら、明日とは言わず、今日すぐにでも――」
「とにかく! とにかくとにかく! そういうことですから、わかりましたね!」
女教師は声高に叫んで、美命の言葉をさえぎった。さっきから暖簾に腕押し、かみ合わない会話すぎて、しんどさ極まれりという顔である。
「はあ。わかりましたわ」
美命は不思議そうに首を傾けると、職員室を出た。
彼女がそのまま向かった先は校内にある礼拝堂だった。今は昼休みの時間だったが、ちょうどそこに人気はなく静まり返っていた。彼女はありがたい主の十字架の前にひざまずき、祈り始めた。神よ、どうぞ明日の追試をあたたかく見守りください、と。窓にはめ込まれたステンドグラスごしに差し込んでくるかすかな光が、そんな彼女をぼんやりと照らしている。その亜麻色の髪は清らかで澄んだ輝きをたたえている。礼拝堂という厳かな空間によく映える美少女だ。……少なくとも見た目だけは間違いなくそうであった。
と、その時であった、十字架の前に一人の女が現れた。金髪碧眼の若く美しい女である。背中には純白の翼が見える。紅色のゆったりした衣に包まれたその妖艶な体はうっすらと光を帯びている。その姿、まさに天使。っていうか、ファラルーシェの霊体であった。
「信心深い、よい心を持っているようじゃな、そこな娘……」
ファラルーシェは美命に語りかける。実に神々しい感じで。
「まあ、天使様! お姿を拝見できるなんて、夢のようですわ」
美命は感激いっぱいの様子で目を輝かせている。
「見たところ、ぬしは信心深く、わらわとは実に相性がよいようじゃ。そこでじゃ、わらわと契約してみる気はないかえ?」
「契約、ですか?」
「さっきまでのぬしの様子、わらわは影から見ておったぞ。追試とやらが待ち構えておるのじゃろ? それで良い点数を取らねば、大変なことになるのじゃろ? そこで、この才媛たるわらわの出番なのじゃ――」
「いえ、天使様。追試が終わった後、先生とお父様達がお話しするだけのことですわ」
「だ、だから、それが面倒なことなんじゃろ? 人間の社会では」
「そうなんでしょうか」
「そうなんじゃよ! 少なくともさっきはそういう空気じゃったよ!」
ファラルーシェは声を張り上げた。なんというアホ娘であろうか。話がまともに通じない。
「わらわはこう見えても、人間の社会のことはよく知っておるほうなのじゃ。人間の学問も、多少なりともかじっておるぞ? 因数分解や二次方程式ぐらい朝飯前なのじゃよ」
えへんと、中学生レベルの数学ができると自慢するファラルーシェだったが、
「いんすうぶんかい? にじほうていしき? それって、なんですの?」
美命はそれすらもなんなのか理解できていなかった。
「ぬ、ぬし……つかぬ事を聞くが、掛け算の九九はできるかえ?」
「あ、それなら得意ですわ! 六の段まで」
「六の段まで……」
ファラルーシェは頭を抱えた。人間の世界の広さを知る思いであった。
「天使様、いったいどうなさったんですの?」
「いや、よいのじゃ。人間向き不向きと言うのがあるだけなのじゃ。たぶん」
「そうですね、天使様がそうおっしゃるのなら」
美命はまた純粋無垢な笑みを浮かべた。
「それで天使様、さきほどおっしゃった契約ってなんのことですの? わたくし、天使様のおっしゃることなら、なんでも従いますわ。だって、天使様は天使様なんですもの」
「ああ、そうじゃったな……」
こうして、ファラルーシェは彼女と契約することになったのであった。この娘でいいのかなあと思いつつも……。
さて、一方そのころ、直春は家の片付けに奔走していた。学校は休んだ。邪悪様が酔っ払って家をめちゃくちゃにしたせいもあるが、その本人の具合が悪かったからだ。症状を見るに、どう考えても二日酔いだった。たいしたことはなさそうだったが、やはりそのまま学校に行くのもためらわれた。学校で吐かれても困るし。
彼は、午前中は邪悪様を部屋に寝かせたまま、片づけに集中した。午後になると少しは家の状態もまともになったので、片付けを小休止し、一階の奥の部屋、かつて父が使っていた部屋に入った。そこは父が亡くなって以来、何年もずっと手つかずで放置されていた開かずの部屋だった。
扉を開ける瞬間、彼は幻を見た。窓際の椅子に座って彼を待ち続ける父の幻だ。もちろんそれは、実際に部屋の中を確認したと同時に破れた。窓際の椅子には誰も座っていなかった。当然だ。ずっと誰も使ってない部屋だったのだから。鈍い痛みが彼の胸を貫いた。
そこはただの、埃っぽい書斎だった。父が使っていた文房具がそのまま机の上に置かれて、埃まみれになっていた。直春はそれらをあえて見ないようにし、本棚を漁った。昔の邪悪様のことが調べられるのは、自分か、とこしえの刹那しかいない――昨晩のココとの話を思い出し、なんらかの手掛かりを探しにここに来たというわけだった。
やがて彼は一冊の古いアルバムを見つけた。幼いころの父の写真がたくさん収められたものだった。そして、その最後の方には、赤ん坊を抱く女の、色あせたカラー写真があった。写真の下に書かれた文字によると、その赤ん坊は生まれたばかりの直春の父だった。女について説明書きはなかったが、祖母に間違いないようだった。その顔には大きなあざのようなものがあった。これは……。直春は妙に気になり、写真をじっと見つめた。するとふいに、父が生前、祖母について語った言葉を思い出した。おばあちゃんは顔に大きなやけどがあったと、彼は父から聞かされていた。そして父はこうも言っていた。
「やけどのあとは手術で取ることもできたそうだけど、取らなかったらしいんだ。何か大事なものらしくて」
妙に引っ掛かる記憶だった。しかし、結局、彼はそれ以上の手掛かりらしいものを見つけられなかった。やがて邪悪様が起きて、彼のところにやってきたので、そこで書斎を出て、一緒に昼食にした。
食べながら彼は邪悪様に尋ねた。
「なあ、お前、たまちゃんって誰か知ってるか?」
しかし、邪悪様は「わかんない」と、首をかしげるだけだった。
「そうか、ならいいんだ」
邪悪様の記憶はやはりあてにならないようだ。決定的な手がかりも見つからない。だとしたら、あとはあの赤い目のあいつに聞くしかないのだろうか……。
邪悪様の封印された過去、彼はやはり気になってしょうがなかった。特にその、五十年前にやらかしたとされる「大罪」。それが本当に邪悪極まりない所業だったとしたら……? そう考えると、彼はたちまち重い気持ちでいっぱいになるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます