第5話
それから昼休みが終わり、直春達は気絶している或香を屋上に放置して教室に戻った。そして、普通にその日の授業を消化し、下校した。
直春達が朱鷺浜学園の校門を出た時、空は不穏な灰色の雲で覆われていた。電車から降り、駅を出た時にはすっかり土砂降りの雨だった。直春達は傘を持っていなかったので、早足で家に向かって駆けた。
家に着いたころには直春も邪悪様もともにずぶ濡れだった。家の中に入ると、すぐに直春は体をバスタオルで拭いた。邪悪様は雨に濡れていることにあまり頓着ないようで、そのまま家の中を歩き回ろうとしてたので、直春はその襟を後ろから引っ張り、脱衣所に引きずり込んだ。
「お前も体を拭け」
三つ編みにしているその長い髪をほどき、頭の上からバスタオルを押しあて、わしゃわしゃと動かした。邪悪様は小動物の鳴き声のような変な声を出して、びっくりしたように手足をばたばたさせた。
と、そこで、誰かが来たようだった。呼び鈴が鳴る音が聞こえてきた。直春はいったん邪悪様から手を離し、玄関の方に向かった。
玄関の扉を開けて、そこに立っていたのは怜花だった。傘を持ち、反対側の手には冊子のようなものを携えていた。
「な、直春お兄ちゃん、その格好……」
怜花は直春を見るなり、恥ずかしそうに目を泳がせた。そこで直春は自分が上半身裸なのに気付いた。
「悪い。俺、今帰ったばかりでさ。この雨だろ? 傘持ってなかったから、ずぶ濡れになっちゃって。ちょうど着替えてたんだよ」
「い、いいよ。わたし、これ届けに来ただけだもん」
怜花は、目をそらしたまま、直春に持っていた冊子のようなものを手渡した。回覧板だった。近所のゴミ捨て場が最近カラスや野良猫で荒らされまくりなので、各自対策するようにという内容だった。
「わざわざありがとな」
「別にいいよ。ご近所さんだもん……」
怜花の顔はほんのり赤くなっていた。
と、そこで、家の奥から邪悪様がやってきた。肩にはバスタオルがかかっている。濡れた銀色の長い髪が、その上に流れている。直春はあえてその気配に気付かないふりをした。怜花の前で話しかけるのも変に思われてしまう。怜花に邪悪様は見えないはずだし。
だがそこで、
「わあ、この子、誰? すごくかわいい!」
怜花はたちまち家の中に入り、玄関先に立っている邪悪様のほうに近づいて行ったではないか。
「れ、怜花、こいつが見えるのか?」
「見えるって何が? この子のこと?」
怜花は楽しそうに邪悪様を見つめている。邪悪様も怜花のことをじっと見ている。
「直春お兄ちゃん、この子、外国人? こんな色の髪の人、わたし、はじめて見ちゃった。顔もすごく綺麗」
「お姉ちゃん、だれ?」
「わたしは直春お兄ちゃんのお友達だよ。怜花っていうの。あなたは何て言うの?」
「ぼくは邪悪様だよ」
「へえ、ジャアクサマかあ。外国人だから変わった名前なんだね。ジャアクちゃんって呼ぼうか。でも、女の子なのに男の子みたいな喋り方なんだね。ぼくって」
「ぼ、ぼくは、男だよ!」
「あ、そうなんだ。ごめん、すごくかわいいから、間違えちゃった」
怜花は邪悪様が大変気に入ったようだった。
しかし、直春は驚きでいっぱいだった。あいつら、なんで普通に話してるんだ? 今まで邪悪様は自分以外には見えてなかったのに。意味がわからない。
と、そこで、
「マスター、それはつまりアレですよ。アレ」
脱衣所のほうから箱が飛んできて、話しかけてきた。
「アレってなんだよ?」
怜花には箱は見えていなさそうだったので、そっちに背を向け小声で尋ねた。
「マスターってば、さっき、あのお方の髪をほどいちゃったでしょ。それがアカンかったんですよ」
「意味がわからん。三つ編みをほどいたからなんだって言うんだ」
「天使の髪というのはその体内を循環する魔力と密接な関わりがあるんですよ。あのお方の場合は、髪を三つ編みにして束ねることで、魔力が体の中央に収束していたようですね。そして、それが解かれることで、魔力の流れが微妙に変わって、ステルスモードが解除されたってわけさあ」
「つまり……あいつの三つ編みをほどくと、誰の目にも見えるようになると?」
「その通りですね。マスターだけのお方じゃなくなるってことです。残念でしたねえ、このロリコン野郎」
「誰がロリコンだ!」
思わず声を荒げた直春だったが、やはりちょっぴり、あくまでちょっぴりだが複雑な心境だった。限りなく小さいながらも、自分だけの特権が失われてしまったのだから。
「ねえ、この子と直春お兄ちゃんってどういう関係なの?」
「え……その、母さんの知り合いの子供なんだよ。訳あってうちで預かってるんだ」
「そうなんだ?」
と、言ったのは怜花ではなく邪悪様だった。相変わらず空気の読めないお子様だ。「そうなんだよ!」と直春は強く念を押した。
「じゃあ、もしかして、ジャアクちゃんの着替えとか用意してなかったりする?」
「まあ、急に決まった話だったから……」
急に箱から出てきたもんなあ。
「ほんと? わたしの服、貸してあげようか?」
「いいのか?」
「うん。男の子でも大丈夫そうなやつとかあるし。待ってて。おうちから取ってくるから」
と、怜花は直春の返事を待たず、そのまま外に出て行った。そして、十五分ほどでまた戻ってきた。手には二つの紙袋を持っていた。
邪悪様はその紙袋を受け取ると、一人で脱衣所に入って着替えた。数分後、直春達の前に現れたのは、白いTシャツとデニムのオーバーオールを着た……女の子だった。さながら、ちょっとボーイッシュなファッションをした可憐な少女であった。髪なんて銀色でさらさらで長いし。
「ジャアクちゃん、やっぱり女の子みたい。かわいい」
怜花も直春と同じ意見のようだった。邪悪様は「ぼくは邪悪様なんだぞ。かわいくなんかないもん」と、なんだかよくわからない意地を張っていたが。
「ねえ、直春お兄ちゃんもそう思うでしょ?」
「そうだな。かわいいんじゃないか」
直春は素直にそう答えた。
だが、彼がそう言ったとたん、邪悪様は無言でうむつき、ややあって怜花の後ろに隠れてしまった。
なんだ、あいつ、褒められていっちょまえに照れてるのか。直春は笑った。一応は女らしいところはあったようだ。
それから、彼ら三人はともに夕食をとることにした。怜花に「服の礼もしたいし、よかったらうちで食べていかないか」と誘ったら、二つ返事で食べると答えられたのだった。作るのは直春だ。メニューはもちろん、朝から固く決めていたホイコーローほかだ。冷蔵庫の中のキャベツと豚肉、今夜こそ救済せねばならない。豚肉の消費期限がぎりぎりなのはもちろん怜花には秘密だ。世の中には知らなくていいことがたくさんあるのだ。彼がキッチンでこっそり豚肉を冷蔵庫から出している時、怜花は居間のソファに腰掛けてケータイをいじり、家に連絡を入れているようだった。邪悪様はその隣に座って、怜花とにこやかに何か話している。ちょっとしたリアクションをするたびに、その銀のポニーテールが軽やかに揺れている。直春が目を離している間に、いつのまにか怜花に結われていたのだ。そのせいで、もう完全に外見は女の子である。いや、実際、体もそうなのだが。
「あいつの髪形、今はあれで問題ないのか?」
直春は調理しながら、カウンターの上の箱に話しかけた。
「そうですねえ。魔力の流れの微妙な変化は感じますが、特に問題なさそうですね」
「普通の人の目に見えなくなるのは三つ編みだけってことか」
「今のところはとりあえず、ですね」
やがて、料理が出来上がったので彼らはそれを居間のローテーブルに並べた。少女二人はその間も相変わらず楽しそうに話していた。こんなふうに、家の中で、誰かが談笑しあっているのを傍から見るのはずいぶん久しぶりだなと、直春はエプロンを外しながらふと気付いた。そうだ、小学校三年生の時以来だ。あの当時は、まだ父が家にいた。母も今ほど家に寄り付かないということはなかった。毎晩ということはなかったが、週に三日くらいは、今みたいな和やかな空気で、親子三人で夕食を取ったものだった。
父さんが亡くなって、もう六年半になるのか……。
直春はその遠い記憶にめまいを感じた。そして、そこでふと、居間の電話の液晶が点滅していることに気付いた。留守電が入っているらしい。
近づいて再生してみると、母からだった。今日は家に帰ってくるという約束だったが、仕事が入って無理になった、そんな内容だった。
そういえば、そんな約束してたっけ。
直春は母との約束を完全に失念していた自分に、むなしさを覚えた。留守電が午後二時過ぎという、直春が絶対に電話に出られない時間に入っていることも。
親子なのに、ほんとうにお互いどうでもいい関係なんだな……。直春は薄く笑った。心がどんどん乾いていく気がした。胸の底に、澱のように幾重にも重なったさみしさは、無関心によく似ていた。
と、そこで、後ろからシャツをひっぱられた。振り返ると、邪悪様が心配そうな顔をしてこちらを見上げていた。
「ナオ、はやく食べようよ」
邪悪様は直春の手を取り、食卓のほうへと引っ張った。
「ああ……」
直春は、その初めて触れた手が妙にあたたかく心地よく感じられた。暗かった世界がふいに明るくなったような錯覚を覚えた。
晩御飯を食べ終えると、怜花は家に帰って行った。直春は後片付けをし、その他もろもろの家事を済ませると、一人風呂に入った。湯船につかり、ぼんやりと昨日からの出来事を思い返した。常識で考えるとありえないことばかりだ。掘り返した箱から不思議な子供が出てきて以来、フナムシやら電気の馬やら謎の天使やら、おかしなものばかり目にしている。あげくに、成り行きでその謎のお子様の面倒を見る羽目になっている。自分はいったいどうしたらいいんだろう。やはり、契約解除とやらであの箱と縁を切るべきなのか。そうすれば、この異常な生活からは解放されるだろう。
でも、そのとき、あいつはどうなるんだ……?
邪悪様のことを考えた。自分のことすらよくわかってない、甘いもの好きのただのお子様だ。ほうってはおけない気がする……。なんだか急に弟か妹ができたみたいな気持ちだった。
そういえば、昔、父さんに頼んだことがあったかな。
ふいに古い記憶がよみがえってきた。あれは十年ほど前、小学校に入学する少し前の、春の日のことだった。直春は父に頼んだことがあったのだ。弟か妹が欲しいと。
「うーん? それは無理だろうなあ」
父は少し困った顔をしてこう答えた。二人で買い物に行った帰り道でのことだった。夕暮れの日の光が、街も、父の横顔も等しくオレンジ色に染めていた。
「どうしてだめなの?」
「母さんは今は仕事が忙しいんだよ。父さんだって、母さんほどじゃないけど、会社があるからね。だから、直春とこうやって一緒にいるだけで精いっぱいなんだ。赤ちゃんの面倒は見られないんだよ」
「そっか……」
直春はがっかりしたが、父の言っていることは幼い彼にもよくわかった。自分の母親は他の家の母親に比べてずっと忙しいことは知っていたから。
「でも、今は無理でも、直春がもっと大きくなって、弟や妹の面倒を見られるようになったら、そのときはもう一度、今の話を母さんにしよう。それでいいかい?」
「うん」
直春は父と指切りをした。父のかけている眼鏡が夕陽を反射してやけにまぶしく見えた。
あの約束は結局果たされなかったな。小学三年生の秋に父さんは死んでしまったから……。
直春は湯船の中、自分の髪の先端から滴る水滴をぼんやりながめた。それらは水面に落ちては、小さな波紋とともに次々と儚く消えていく。どうして父は、あっけなく事故でこの世からいなくなってしまったのだろう。自分はもう、弟や妹の面倒を見られるぐらい大きくなったのに……。にわかに、強く鋭い痛みが、喉元からせりあがってきた。彼は湯を手で乱暴にすくい、顔を洗った。叩くように。どうせもう父は二度と帰ってこない。だったら、泣いたり悲しんだりは意味のないことだ。それは現実を受け入れられない子供のすることだ。俺はもう、そんなガキじゃない……そう強く思った。
と、その瞬間だった。守られることのなかった約束を父と交わしたその日の、さらに数日後のことがよみがえってきた。
そう、父は彼の望みをかなえてあげられなかったお詫びにと、小さいころから自分がずっと持っていたという「お守り」を彼にプレゼントしていたのだ。
それは小さな――箱だった。
「そうか! あれは父さんからもらったんだ!」
直春は思わず叫び、立ち上がった。そうだ、父に「お守り」をもらったものの、当時の彼はそのよさがまったくわからなかった。だから、しばらくして、友達同士でタイムカプセルを埋めようという話になった時、彼はそこに箱を放り込んだのだ。他に適当なものがなかったから。思い出した!
すぐに風呂からあがり、Tシャツとトランクスを着て、部屋に戻った。今は机の上にあの箱が置いてあるはずだ。
だが、部屋の扉を開けた時、目の前の光景に彼は一瞬絶句した。そこは確かによく知った自分のくつろぎの空間だったのだが、机には見なれない女が腰かけていたのだ。
「チーッス、机、使わせてもらってるっす、マスター」
その女は直春と目が合うと、やる気なさそうに挨拶した。二十代半ばぐらいの、派手な顔立ちの若い女だ。肌は褐色で、こげ茶色の髪は長く、ウェーブがかかっている。瞳は鳶色。革のようなベルトで胸まわりと腰まわりを申し訳程度に巻いて隠しただけの格好のその肢体は、ボンキュッボン、大変グラマーでセクシーである。
「だ、誰だお前?」
「いやですねえ。ココちゃんですよ。マスターの忠実にして有能なしもべっすよ」
女は、いや、ココは机の上で脚を組みかえた。そのむき出しの太ももは実に艶めかしい。
「ちょっと前にデータ復元作業終わったんですよね。それで、アバターの方も本気出していいかなっていう」
「アバター? その体がそうだっていうのか?」
「ですよ。それ以外のなんに見えるんですかねえ」
ココは胸周りのベルトを指でつまんではじいた。ぷるん。はずみで内側のたわわな肉が揺れた。その肉の間にはあの小箱がはさまっている。
「いや、それ、俺の知ってる『アバター』と違う……」
なんか立体的だし、妙に生々しいし。
「そりゃ、質量はなくても質感はあるのがココちゃんアバターの特徴ですから」
「質感? さわれるのか?」
「……さわりたいんですか、マスター?」
ココはにやりと笑った。その体はやっぱりセクシーでボンキュッボンである。露出度もバツグンだ! 直春は胸がドキドキしてきた。ぶっちゃけ、こういうの慣れてないのだ。
「い、いや、どんなものかなってちょっと考えただけだよ……」
「おやおや。いかにも童貞ボーイらしい表情とセリフですよ?」
「うるさいっ!」
まあ、図星であった。
「それよりマスター、アバターのことより、データ復元が終わったことをアタシはお伝えしたかったんですよ」
「ああ、そうだったな」
さっき、どさくさにそんなことをこの箱女は言ってたような。
「じゃあ、あいつ……邪悪様のことも、もう全部わかったんだな?」
「いやいや。わかったのは、花翼天使チートすぎ、マジファック!ってことだけですね」
「なんだよ、それ」
「よりによって世界レベルで自分の情報を封印しやがってるんですよ、あのお方は。五十年前に」
ココは忌々しそうに眉根を寄せた。どういうことだろう。直春には話がよく見えない。
「五十年前というと、邪悪様が箱、つまりお前の中に封印された時だよな? 情報封印ってことは、なんであいつが封印されたか、まだよくわからないのか?」
「ですね。データ復元しても、その部分の情報だけはずっと空白のままなんです。その空白は、花翼天使の能力により厳重にロックされてるんです。つまり、あのお方のせいでココちゃん記憶が一部欠落してる状態なんです。これはマジファックと言わざるを得ない」
「そ、そうなのか……?」
その苛立ちはわかるような、わからないような。
「ただ、情報を広範囲で集めて分析した結果、あのお方は自分で自分を裁いて、箱に封印したとしか考えられないんです。セルフ封印ってやつです」
「セルフ? 自殺みたいなもんか?」
「まさにそうですね。五十年前、あのお方は、自らの体を『贖いの業火』で焼いて灰にし、それを箱に納める形で封印しています。その灰が時を経て再構成されたのが今のあのお子様なんです」
「灰からあいつが……?」
また突拍子もない話だ。
「本来ならば、箱の機能により、灰は灰のまま永劫に保たれるはずだったのですが、どこかの童貞が、よりによって地中に埋めて十年も放置しやがるので、封印が弱まり、中身が人の形として復活してしまったと考えられます」
「ちょ……俺のせいなのかよ!」
「当然です。ついでに言うと、あのフナムシや雷蹄の天馬が箱を求めて襲いかかってきたのも、長期の機能不全により、箱にあらかじめ設定されていた隠匿機能が働かなくなっていたのが原因なんです。本来なら、ココちゃんは持ち歩いてても安心安全、誰にも見つからない、誰にも襲われないスグレモノだったんです」
「そ、そうですか……」
全部直春のせい、みたいな話になってきた。
「今は、その隠匿機能とやらは働いているのか?」
「もちろんですよ。まあ、ココちゃんの機嫌次第で、いつでもオフにもできますけどね」
「それはやめてください……」
また変な化け物に襲われるのはごめんだ。
「じゃあ、今はお前達といても、特に問題はないってことだよな?」
「そうですねえ。あのファラルーシェという戦天使の存在を考えなければ」
「あいつか。そう言えば、あの女は邪悪様の昔のことを覚えてたな。邪悪様の昔のことは情報封印されてるんじゃないのか?」
「封印はされてるでしょう。ただ、戦天使は天界のかなり上位の存在です。封印が不完全なのかもしれません。あるいは、あのお方への想いが極端に強くて、記憶がないまま感情だけで突っ走ってる説もありかと」
「そうか……」
なんとなく後者の理由のような気がした。泣いてたし。
「それと、あの戦天使と遭遇した時に話したココちゃんとの契約解除の件ですが、二通りの方法があり、現在はその一つしか実行できないことが判明しました」
「け、契約解除できるのか?」
「できますよ、それが何か?」
「いや別に……」
そんなこと知りたくない気がした。
「で、まずは実行不可能なやり方のほうですが、これはマスターの権利を高圧的に行使するもので、マスターただ一人が所定の手続きを踏めばいいだけなんですが、ここで必要になってくるのが箱の中身の詳細情報です。ぶっちゃけ、あのお方の本来の名前が必要なんです。それがないと契約解除手続きが実行できないんです」
「なんだその、お役所仕事みたいな話は」
「ネットに接続するためのモデムを再設定する時に、普段使わないようなパスワードの入力を要求されるみたいなもんですよ。それで、あわててプロバイダ契約した時の書類を探したりするんですよね」
「はあ」
なんでこいつの説明は、時々妙に身も蓋もないんだろう。
「しかし、あのお方の情報はさきほど話した通り、世界レベルでロックされていますから、三界のいかなるデータベースにアクセスしても、本来の名前なんて出てきません。だから、その契約解除方法は無理なんです」
なるほど。直春はなぜかほっとした。
「それで、契約解除するとしたら、もう一つの方法しかないわけですが、これは現在の状態では、マスターとココちゃんとあのお方、三者の合意があれば成立します。みんなで心を一つにして、契約解除したいって願えばいいってことですね」
「そんなことでいいのか?」
お役所仕事風の事務手続きに比べると、ずいぶんゆるゆるの条件である。
「そうはいっても、本心から願わないと成立しないんですよね、これが。つまり、マスターはあのお方に別れ話を切り出し、合意を得なければならない」
「あ……」
それって意外とめんどくさそうなことじゃなかろうか。別れ話か。別に付き合ってるわけじゃないが……。
「あいつは自分の過去の記憶がないんだよな? それで、寄る辺のない状態で俺のもとにいるわけだよな……」
「突然そんなこと言うなんて、マスターやっぱりロリコンなんですね」
「ち、違う! あいつはその……捨て犬みたいなもんだ。誰かが世話してやらないと」
「あの戦天使に後は任せるという方法もありますが」
「それは――」
直春は瞬間、言葉が出なくなった。確かに、あの女は邪悪様の昔の知り合いらしいし、まともに考えれば、そうするのが一番だろう。でも……。
「と、とにかく! そのことはこれからあいつと話し合って決める。それでいいな!」
直春は胸の内のもやもやした気持ちをかき消すように叫んだ。
それからココに、風呂場で甦った記憶のことを伝えて、彼女との話は終わった。邪悪様が封印されたのは五十年前で、直春の父が生まれる前なので、父は生前に何らかの形で邪悪様が封印された状態の箱を手に入れたのだろう、そして、父が死亡した時点で直春に所有権が移り、自動的に箱の「マスター」になってしまったのだろう、そんなことを話した。
その後、彼は箱を居間のローテーブルの上に置いて部屋に戻った。あんな肉感的なアバターを目の当たりにしては、さすがに同じ部屋で眠れないというものだった。
だが、時刻が夜十一時を過ぎても、彼はなかなか寝付けなかった。部屋の明かりをつけたまま、ぼんやりと机の上で科学雑誌を広げた。彼の母親の論文が掲載されているものだったが、すでに一度読んだせいもあり、目が滑るだけだった。だんだん、そこに並んでいる英文が意味を持たない模様に見えてくる。
やがて、彼は部屋の入口に人の気配を感じた。扉は微妙に開いていた。そちらのほうに振り返ると、「あ……」という、かすかな声とともに、誰かが後ろに退く足音が聞こえてきた。
あいつ、今日も来たのか。
直春はそれが誰だかすぐわかった。立ちあがり、部屋の出入り口の方に行って、扉を勢いよく外に向かって開いた。
しかしその人物は彼の目の前にはいなかった。扉と廊下の壁のあいだから何かがぶつかる音が聞こえてきただけだった。どうやらはさまってしまったようだ……。そちらに回り込むと、案の定、邪悪様が小さくなって頭を抱えていた。今は怜花に借りたパジャマを着ており、髪も結っていない。懐と膝の間には枕が挟まっている。
「悪い。痛かったか?」
直春は噴き出しそうになるのをこらえて、扉を部屋のほうに少し戻した。
「べ、別にこれぐらい平気だよ。ぼくは邪悪様なんだからな」
意味不明に強がっているが涙目である。変に隠れようとせず、堂々と部屋に入ってくればいいのに。直春はやはりおかしかった。
「お前、今夜も俺の寝る場所を侵略するつもりか?」
「シンリャクじゃないよ。ぼく、知ってるんだよ。ナオは一人じゃ眠れないやつだって。だから、来てあげたんだ。邪悪様は偉いだけじゃなくてやさしいんだよ」
枕を胸にぎゅっと抱えて、それに半ば顔をうずめるようにして、邪悪様はつぶやいた。何か言い訳するように。
「一人じゃ眠れないのはお前だろう」
「ち、違うもん! ナオのほうだよ」
「わかったわかった。それでいいよ」
邪悪様のうわずった声を聞いていると、直春はそうとしか言えなかった。邪悪様の本音はゆうべ、半分寝ているときに聞いたし。
「そっか……。ナオはやっぱり、一人だとさみしいんだね」
「まあ、たまには」
「たまには? いつもは平気なの?」
「そりゃね。俺、基本的に夜はずっと一人なんだぜ。母さん、ろくに家に帰ってこないしさ」
直春は軽く笑いながら言った。
「昔はそれで拗ねたこともあったかな。でも、今はもうわかってるんだ。母さんがそれだけ仕事をがんばってるから、今の俺の、衣食住に困らない生活はある。だから俺は、母さんが家に帰ってこないぐらいで、さみしがったりしちゃいけない、怒ったりしちゃいけないんだ。そして、自分でできることは自分でやらなくちゃいけない。母さんに無駄に甘えて、その手を煩わせちゃいけない。……そう考えることにしたんだ」
それは実に物分かりのいい子供の台詞だった。直春は口にしながらも、自分の言葉ではないような気さえした。その正論すぎる正論に彼の感情は通ってはいなかった。
そう、その聞こえのいい言葉はしょせん強がりでしかなかった。彼自身も自覚していた。その言葉は、今までずっと、自分の中の子供じみた感情を切り捨てるために唱えてきたものだった。
「ふうん? なんだか、ナオは大人みたいなこと言うなあ……」
邪悪様は納得いかないような顔で小首を傾げた。
「大人みたいなってなんだよ。お前は俺をなんだと思ってるんだ」
「ナオはナオだよ。ぼくの家来なんだ」
「今度は家来か」
コックとか奴隷とかの次はこう来たか。
「じゃあ、そういうお前はなんなんだ。いい加減、ちゃんと自己紹介しろ」
「ぼくは邪悪様だよ。すごく偉くて、すごく悪いやつなんだよ」
邪悪様は枕を抱きしめながら、いたずらっぽく笑った。すでに身元はだいぶ割れてるのに相変わらずの答えだ。もしかすると初期状態から何一つ思い出してないのではないか、このお子様は。
「ねえ、ナオ。今日のぼくってすごく悪かったでしょ? 邪悪だったでしょ?」
「え」
どこが?
「明日はどんな悪いことしようか。ナオは何したい? ぼく、ナオのお願い事はちょっとだけ聞いてあげてもいいよ。だって、今のところ、ぼくの家来ってナオだけだからね」
「今のところか」
これから邪悪様の邪悪帝国が版図拡大するのか。
「ねえ、何でも言ってみていいよ。言うだけならぼく、なんだって許してあげるよ。あ、実際にやるかどうかはまた別だよ。だって悪くて楽しいことじゃないと面白くないからね。ナオもそう思うでしょ?」
邪悪様は催促するように直春のシャツの裾をひっぱった。部屋の入り口から漏れてくる灯りが、かすかにその顔を照らしている。淡い紫の瞳は、澄んだ、無垢な光をたたえている。
悪い悪い言ってるくせに、こいつは本当に邪気がないんだなあ。直春は不思議に思えた。本当に、こいつは大罪とやらを犯して自らを箱に封印した大天使様なのか。
「じゃあ聞くが、お前はどんなことができるんだ?」
「え、えっと……なんだってできるよ、きっと。ぼくは邪悪様だからね」
「きっと、か」
できないことがめちゃくちゃ多そうな答えだ。
でも、手から変な光線を出したり、体を宙に浮かせたりといった魔法が使えるということは、常識では考えられないようなことも簡単にできるのかもしれない。ふいに、ある考えが直春の脳裏に浮かんだ。
「じゃあ、たとえば……たとえば、だ。お前は死んだ人間を生き返らせたりはできるのか?」
「え……」
「俺の父さん、六年半ぐらい前に死んでるんだよ。出来たら、また会いたいなってさ……」
それは本当に、ただの思い付きだった。死人を生き返らせるなんて、さすがに目の前のお子様には無理だろうし、期待してもなかった。
だが、そのとたん、邪悪様は、
「だ、だめだよ! そんなこと絶対しちゃいけないんだ!」
狼狽しきった様子で声を震わせ、うつむいた。何事だろう。直春は予想外の反応に驚いた。無理とか、出来ないとか言われるのではなく、だめだと言われるなんて。
「どうしてダメなんだ?」
「そ、それは……それは……」
邪悪様は膝を抱え、小さい体をいっそう小さくした。何かの感情がこみあげてきて、言葉がうまく出てこないようだった。直春にはますます意味がわからない。
まさか、今の一言で何か思い出したんだろうか。
「おい、お前、どうしたんだよ?」
直春は邪悪様の正面にしゃがみこみ、その体をゆさぶった。すると、たちまち邪悪様は彼の胸にもたれかかってきた。その小さな体は震えていた。短く、か細く、声を押し殺した呼吸音も伝わってきた。そこで彼女が泣いているのだと気付いた。
「なんで……」
泣くんだろう。直春はどうしていいのかわからなかった。泣いている理由がわからない。だから、どう声をかけていいのかわからない。彼にできることはその体を受け止め、背中をさすってやることだけだった。
それは嵐の過ぎるのをただ待つのにも似ていた。邪悪様のすすり泣く声は、薄暗い廊下によく響いた。開け放った廊下の窓の向こうからは、かすかな雨音が聞こえてきた。そこから吹き込んでくるひんやりとした空気は、夏の夜の雨の匂いがした。
ふと、直春は泣いているのが自分であるような錯覚に襲われた。廊下に響く邪悪様の泣き声は、かつての自分のそれとまったく同じに聞こえた。
そうだ、あれは父が死んでまもなくのころ、母は帰ってこず、一人で過ごすことになった夜のことだ。十歳の彼は眠れなかった。もしかしたら寝ている間に父が帰ってくるのではと思ったのだ。彼の父は飛行機事故で死んでいて、その遺体はついに見つかることはなかった。だから、本当はどこかで生きているのではないか、そのうちひょっこり家に帰ってくるのではないか、そんな思いが幼い彼の胸の内でくすぶっていた。
その夜も雨が降っていた。家の外からは雨の音とともに、近くを通る車の音や風の音が時折響いてきて、その都度彼はそれが父の帰宅してきた音ではないかと思った。そして、パジャマ姿で玄関先まで行って、そこに誰もいないことを確認した。
それを何度か繰り返したのち、彼はやがて、玄関のあがりかまちに腰掛けて泣いていた。父はどうして帰ってこないのだろうと思った。母はどうしてこんな自分を一人にしておくのだろうと思った。ただただ悲しかった。廊下に自分の泣き声が響いて聞こえ、それがまた惨めな気持ちをかきたてた。
なんでこんなこと思い出すんだろう……。
胸が締め付けられるようだった。それはずっと心の奥底に沈めていた、思い出したくない記憶だった。
そういえば昨夜もそうだった。昔の、いやな夢を見た。彼は再び思い知った。今自分の懐にいるお子様のせいで、思い出したくもない記憶が呼び覚まされているのだと。邪悪様の言動に、自分の中の子供じみた部分、見たくもない惨めな部分が次々と引きずり出されているのだと。
俺は、こいつとは一緒にいないほうがいいのかもしれない……。
先ほどココと話した、契約解除のことが頭に浮かんだ。今こそ、邪悪様にそれを話すべきじゃないだろうか。そして、この震える小さな体を引きはがすべきじゃないだろうか。
けれど、彼は何も言えず、何もできなかった。「別れ話」をするための声は出なかったし、邪悪様の肩をつかんだものの腕に力は入らなかった。
二つの強い感情が、彼の中でわだかまり、絡み合っていた。邪悪様の中に昔の惨めな自分を重ねて見たくはないという想いと、ただ純粋に、そのぬくもりを手放したくないという想いだった。
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