第4話
その日はちょうど、朱鷺浜学園の期末テストの順位が発表される日だった。
『間宮直春 十八位』
昼休み、廊下に貼り出されたそんな順位を目の当たりにして、直春は大きくため息を漏らした。しまった、読みが大きく外れていたようだ。本当はもっと低い順位、五十位あたりを狙っていたのだが。中間テストのときはオール九十点代でちょうどそのへんだった。今回もそれでイケると思ったんだがな。
そう、彼にとって学校のテストなど、非常にどうでもいいものだった。今回の期末試験の問題は全部解けたし、それをそのまま答案に反映させれば、約四百人いる学年の生徒の中で彼は一位になっただろう。でも、それは彼にとって何の意味もないことだった。むしろ、デメリットしかない……。
「すごーい。間宮君、十八位なんて」
「特進クラスでもないのにねー」
と、にわかに二人の女子が話しかけてきた。
「いっつも授業中は寝てるかマンガとか読んでるかなのにね」
「ノートとか全然とってないのに。頭いいんだあ」
女子たちの称賛の言葉にはとてもしらじらしく聞こえた。ああ、と、彼は適当に生返事した。
「ねえ、真面目に授業聞いてないのに、どうしてあんな点数とれるの?」
「予備校行ってるわけじゃないんでしょ? まさか、家では超がり勉君なのぉ?」
「別に……」
彼は彼女たちを半ば無視した。やがて、二人は彼のそばを通り過ぎて行った。
去り際、こんなささやき声が耳に飛び込んできた。
「絶対、カンニングしてるよね、アイツ」
「だよねー」
あいつら、わざと俺に聞こえるように言ってるな。ため息が漏れた。せっかく、ここいらで一番の進学校を選んだのに、あまり意味がなかったみたいだ。去っていく彼女達の後ろ姿を彼はぼんやり見つめた。成績にふさわしい態度、すなわち普段から真面目に授業を聞いてるふりをすれば彼女達の考えもまた変わっただろう。けれど、学校の授業なんて、彼にとっては小学校のころから簡単すぎて退屈極まりないものだったし、それを真面目に聞いているふりをするとか、周囲に努力してるアピールするとか、面倒極まりないものだった。それぐらいなら、授業を適当にさぼりつつ、目立たない成績をキープするに限る……この学校に入学してからはそういうスタンスでいたのだが、今回の期末試験で早くも失敗したという感じである。
と、そこで、
「ナオ、お前やっぱすげえな、全然勉強してないのに十八位かよ」
銀次が大声を出しながら、駆け寄ってきた。
「やっぱ、どっかのアホと違って、頭の出来がいいんだろうな。お前は昔からそうだったしな。頭おかしいんだよな、いい意味で」
銀次はあからさまにさっきの女子達のほうに向かって叫んでいた。
「でも、お前、ほんとは全然本気じゃなかったんだろ? 本気出したらマジ一位になっちまって、超目立っちまうからな。だから、適当に手を抜いてこの順位――」
「おい、銀次! やめろ!」
直春はあわてて銀次の腕をつかみ、廊下の向こうに引っ張った。周囲の生徒達が物珍しそうに彼らを見ていた。
「お前、何考えてるんだよ! 人前であんな――」
廊下の突き当たり、人気のない階段の踊り場についたところで、直春は怒鳴った。
「人前だからこそ、言ってやったんだぜ? 世の中、人の才能を認められないバカが多すぎだよな」
銀次は少しも悪びれる様子はなかった。
「さらっと教科書や副読本に目を通してれば、あとは授業全部爆睡してても、学年一位が取れる、それの何が悪いんだよ。お前が超頭がいいってだけの話だろ。むしろ、うらやましいぜ。俺の順位なんて……順位なんて……うう」
「何位だったんだ?」
「さ、三百……それ以上は聞くな」
銀次は壁に手をついて、ものすごくうなだれた。三百位以下か。どういう点数でその順位になるんだろう。直春としては逆に興味があった。
「もしかして、そこまでひどいと、何かペナルティがあったりするのか?」
「うわっ! 何その、自分には全然関係のない世界だからよくわからない的な発言! めっちゃ上から目線? めっちゃ俺の心にダメージなんだけど!」
「いや、だから、なんかやばいことあるのかよ?」
「うん。補習と追試……」
「それだけか」
「あと、担任に、お前マジで進級できないかもって言われた」
「や、やさしい先生だな……。お前のためを思ってあえて言ってくれてるんだろうな、うん」
なんだか、余命いくばくもない病人を相手にしているような気持ちになってきた。かける言葉が見つからない。
「ナオ、お前、言うことはそれだけかよ! 俺が勉強教えてやるぜ、って流れだろ、そこは!」
「悪い。俺、人にものを教えるの上手くないみたいなんだよ。前に、怜花の勉強見てやった時に気付いたんだが、普通のやつが線で理解するところを点で理解してワープしてるようなところがあってさ、それを言葉にしようとすると、ロジックが軽く破たんしているようになって――」
「うわあ。その説明からもう俺よくわかんないんですけど! お前の言葉から天才の香りしかしないんですけど!」
「ようするに、俺は教師に向いてないってことだ」
「あ、はい、よくわかりました……」
銀次はますますうなだれて、その場に体育座りになってしまった。
と、そこで、直春の右腕が近くの窓の方に強く引っ張られた。例の鎖である。
あいつ、五十メートル制限わかってるのか。直春は窓の方に近づいた。そこから外を見ると、学校の校庭が広がっていて、ちょうど直春のいるところから直線距離で五十メートルくらい離れたところに、脚に絡んだ鎖で派手につまづいて転んでいる邪悪様の姿が見えた。
「マスターが、あのお方を学校内で放し飼いにするからあ」
ポケットの中で箱がしゃべった。
そうは言っても、ずっとそばに置いておくのも邪魔くさいしなあ。
そのまま校庭の邪悪様を見ていると、彼女はやがてこっちに気付いたようだった。手を振ってきた。直春は手招きした。邪悪様はこっちに戻ってきた。たちまち右腕の鎖は消えた。
とりあえず、昼休みの間だけでも、あいつを手元に置いておくか。
「銀次、俺、用があるからもう行くわ。じゃあな」
直春はそのまま階段を下り、一階に向かった。
一階の、校舎の出入り口のところで邪悪様を回収した直春は、続いて購買部に行き、昼食を買った。カレーパンとチョコドーナツ、それにシリアルバーと二人分の牛乳だ。この学園の購買部のパンは、買うためにはあらかじめ朝予約しておく必要があったが、そのぶん、あわただしい競争とは無縁だった。
昼食をゲットしたところで、直春は、チョコドーナツの入った袋をものすごく興味深げに見ている邪悪様を無視して、また外に出た。どこか、人気のないところでゆっくり食べよう。
「ねえ、ナオ、あそこがいいんじゃないかな?」
校舎の周りをうろうろしていると、邪悪様はふいに上を、屋上を指差した。
「あそこはダメだ。うちの学校の屋上は立ち入り禁止なんだよ」
「立ち入り禁止? それって、絶対行っちゃダメってこと?」
邪悪様は紫色の瞳をキラキラ輝かせた。
「じゃあ、そこに行っちゃうってことは、すごく悪いことだよね? 邪悪だよね?」
「いや、悪いって、それほどでも――」
「行こうよ、ナオ。ぼくたち、一緒に悪いことするんだ!」
邪悪様が楽しそうに叫んだ瞬間だった。二人の体がにわかに真上に浮いた。
こ、これは、魔法なのか――。
直春が戸惑っているうちに、二人はシャボン玉のように上昇し、やがて屋上の上に降りた。
そこは当然誰もいなかった。七月の青い空が目の前にいっぱいに広がっているばかりだ。空の端から盛り上がっている入道雲はとても白くまばゆい。
「すごいでしょ、ナオ? ぼく、空を飛んで、どんなところにだって行けちゃうんだよ。入っちゃダメって決まりなんか、関係ないんだ」
邪悪様は屋上のフェンスの上に立って、得意満面である。
「……まあ、便利そうな能力ではあるな」
「でしょ? ナオ、ぼくのことすごいって思った? いっぱい思った?」
「ああ、思った思った」
棒読みで適当に答えた。
「そんなことより、早く降りてこい。飯にするぞ」
チョコドーナツの袋をちらつかせた。「来ないと、先にこれ食うぞ?」とも付け加えて。
「そ、そんなのダメだよ!」
邪悪様はたちまちフェンスから飛び降り、こっちに駆け寄ってきた。
それから二人は屋上の出入り口になっている建物の日陰で昼食をとった。邪悪様はチョコドーナツ、直春はカレーパンとシリアルバー、ともに飲み物は牛乳だ。
「ナオ、これ、甘くておいしいね!」
邪悪様はチョコドーナツをほおばりながら、大変上機嫌であった。その小さな口の周りにはチョコが少しついている。
「そんなにいいか、それ? 俺は甘すぎると思うんだが……」
以前試しに買ったときは、その甘さに仰天したものだったが。
「うーん? そうだねえ。甘いとおいしいの割合で言えば、甘いのほうが大きいかなあ」
邪悪様はふいにすました、物知り顔で語りだした。まるで一流のソムリエがワインを語るような表情だ。あくまで表情だけだが。
「そういう意味では、ぼくはこれに満点をあげられないと思うんだよ。簡単にあげたらそういうのってありがたみがないもんね」
もぐもぐ。チョコドーナツを綺麗にたいらげたあと、邪悪様はまたもっともらしく語った。なんの点数だ。
「でもね、またナオが買ってきたら、ぼくは食べちゃうと思うな。だからね、ナオはこれからも遠慮なんてすることはないんだよ?」
「遠慮ってなんだよ……」
立場的には食べ物を買い与えられた邪悪様のほうが遠慮するべきではないのか。
「ただ、ぼくとしてはやっぱり、甘いとおいしいの一番は、ナオの作ったフレンチトーストかな。あれは、ぼく、特別に満点あげてもいいと思うんだ」
「あれが?」
「そうだよ。ぼく、ナオの作ったフレンチトースト大好きだよ。ナオの言った通り、甘くておいしかったもん。すごく。また食べたいな」
邪悪様はそこでじーっと直春を見つめた。そして目が合うとにっこり笑った。
「な、なんだよ……」
照れ臭くなり、直春は思わず目をそらしてしまた。そして、ちょっぴり、あくまでほんのちょっぴりだが、口元がゆるんでしまった。自分の作ったフレンチトーストが一番おいしいって誉められちゃったのである。にやにやせずにはいられない。
「お、お前みたいな子供に、あの繊細な味がわかるわけないだろう!」
恥ずかしさのあまり、気難しい小料理屋の店主みたいなことを口走ってしまう。
「ナオ、またあれ作ってくれる?」
「べ、別にいいけどさ」
「ほんと? じゃあ、今日帰ってすぐ作ろう! それで、すぐ食べちゃおう!」
「今日? それはダメだ。今日の晩飯はホイコーローだからな。俺はそれ以外は作らない。そう決めてるんだ」
「え、なんで?」
「冷蔵庫の中身がそういうふうに運命づけられてるんだ。お前も自炊をやればわかる。朽ちかけた豚肉とキャベツが俺に救いを求めている」
実質一人暮らしとはそういうものなのだ。フレンチトーストなんて作ってる場合じゃねえのである。
「なんだよ、それ。ナオのケチんぼ」
邪悪様は不満そうにつぶやいたが、やがてすぐに、
「じゃあ、ナオのそれ、一口ちょうだい。それで許してあげる」
直春の持っているカレーパンのほうに興味を持ったようだった。
「これか? 一口ぐらいならいいが、辛いぞ?」
「そんなの、へいきだよ。ぼくは邪悪様なんだぞ」
ぱくり。邪悪様は首を伸ばしてカレーパンにかじりついた。
そして、
「う……」
たちまち顔を赤くして涙目になってしまった。言わんこっちゃない。
「だから言っただろう、辛いって。ほら」
直春は笑いながら邪悪様に牛乳のパックを手渡した。甘いものを食べて笑顔になったと思ったら直後にこれだ。なんてわかりやすいお子様なんだろう。
邪悪様は差し出された牛乳を一気に飲んだ。そして、落ちついたのか、
「ま、まあまあの味だね。ぼくの口にはちょっと合わなかったけど……」
強がりを言った。その目にはまだ涙がたまっている。
カレーパンの辛さにやられたくせになあ。直春はやはり笑わずにはいられなかった。
本当にこいつ、ただの子供なんだな……。
直春はそこでふと、昨夜ココと話したことを思い出した。なんでも、邪悪様の正体は天界の超エリート天使で、しかも大罪を犯して箱に封印された可能性があるという。
大罪ってなんだ? 気になった。もしかするとこいつは、過去に多くの街を焼きつくしたり、大勢の人間を殺したりしたのか?
そう考えると、彼はとたんに嫌な気持ちでいっぱいになった。そんなことは信じたくなかった。目の前にいる、どう見ても無害な子供が、そんな極悪人だなんてあってたまるか。こいつとは、フレンチトーストまた作ってやるって約束してしまったところなんだぞ。そんなの笑顔で食べる大量殺人犯とか、俺は認めないぞ、うん。そんな思いが錯綜した。
しかし、どんなに胸の内で邪悪様が過去にやらかした大罪を否定しても、根本的なところが引っ掛かった。そう、その名前である。自分で自分のことを邪悪様って言っちゃうところである。この無害に見えるお子様は、最初から全力で自分を悪者だとアピールしまくってるのである。これはいったいどういう……。
「邪悪様、一つ、聞いていいか?」
「なに?」
「お前は出会ったときから、ずっと自分のことを悪だと言ってるな? 自分のことを邪悪様だとも言ってる」
「そうだよ。ぼくってば、すごく悪いやつなんだよ」
「それだ。お前は一体、何を持って、自分を悪だと定義づけてるんだ?」
「テイギ?」
「なにが善でなにが悪かってのは、つまるところ相対的な価値観の一つで、人それぞれの認識世界でその境界は違っててしかるべきものだが、お前は他人の俺に対してあえて悪だと宣言したということは、善悪の個人的な境界線をはるかに超越した、普遍的かつ絶対的な悪の領域まで、お前の言動は及ぶということなのか?」
「え? え?」
「悪と名乗った論拠を提示し、自らの言葉を証明しろと言ってるんだ」
「ショ、ショウメイ……?」
邪悪様は目を白黒させている。
「つまりだな……お前の悪いところ、それを俺に教えてくれないかな?」
さすがに早口で問い詰めすぎた。直春はお子様にもわかるように質問しなおした。
「お前の悪の魅力ってやつだ。俺はそれが知りたいんだ」
「ぼくの悪のミリョク? なんだ、そういうことかあ」
ようやく言葉が通じたようである。
「そうだねえ。ぼくは悪いやつだから、これからみんながびっくりするような、すごいことがいっぱいできるよ」
「すごいこと? 何をする気だ?」
「え、えーっと……そうだ! ここから見える家や建物を全部魔法でふっ飛ばしちゃおう!」
邪悪様はいかにも突然悪の計画をひらめいた様子だった。そう言ったとたん、すぐ正面のフェンスの上に、魔法で体を浮かせてひょいと飛び乗った。
「ねえ、ナオ。それってすごく悪いことでしょ?」
邪悪様はフェンスの上から楽しそうに街を眺める。「どうかなあ」直春は答えた。
「街を破壊するなら、悪者じゃなくてもできるぜ? 正義の名のもとによその国の街を爆撃してる国だってあるしなあ」
「そうなの?」
「そうなんだな。大人の世界じゃ、善悪なんていい加減なもんだぜ。この国の街を吹っ飛ばして、お前はむしろ正義のヒーローになるかもしれない」
「えー、そんなのやだ」
邪悪様はむくれた。直春は笑った。内心ほっとしていた。よかった、どうやら街は吹っ飛ばされずに済みそうだぞ。
「じゃあさ、家とか吹っ飛ばす代わりに、人間を一人残らず捕まえて、ぼくの奴隷にしちゃおう」
「奴隷にしてどうするんだよ」
「重い石を運ばせたり、裸みたいな恰好で船の一番下に押し込めて、棒をぐるぐるさせたり、剣と盾とサンダルでライオンと戦わせるんだ」
「やけに紀元前の発想だな……」
そういえば昨日邪悪様が見ていた映画は、古代ギリシャの剣闘士が主人公だったかな。この奴隷のイメージはそこから来ているのだろう。ガレー船の描写なんてピンポイントすぎる。
「どう? ナオ、ぼくってばすごく悪いやつでしょ? ナオも奴隷にしちゃうぞ」
邪悪様は楽しそうに笑う。
「俺もライオンと戦う羽目になるのか?」
「そうだねえ。ナオはそれだとすぐ死んじゃいそうだから、特別にぼく専用の奴隷にしてあげてもいいかな。そのかわり、毎日ぼくにフレンチトーストを作るんだよ。さぼったら、ライオンと戦わせちゃうからな」
「毎日フレンチトースト? そりゃ無理だな」
「どうして?」
「全員が奴隷、みたいな封建社会では、そんなものはそうそう作れないってことさ。今ある物流もインフラも全部死んでしまうからな」
「物流? インフラ?」
「物流ってのは文字通り物の流れのことだ。街のお店に並んでいるモノってのは、店で作られてるわけじゃない。だいたいが工場とか農家とかで作られてる。そして、それが問屋とか市場とかを通じて店に運ばれてくるのが普通だ。そのモノの流れを物流って言うわけなんだが……人間が全員、紀元前レベルの奴隷になっちゃ、こんなシステムは成立しないってことさ。そして、そうなると、フレンチトーストの材料となる卵や牛乳や砂糖やパンが入手困難になる」
「そ、そうなの?」
「そうなんだ!」
強引に押し切った。ホントはそんな状況でもマンパワーで何とかなるような気がしたが。
「そして、もう一つの問題がインフラだ。これは水道とか電気とかガスとか、俺達の日常生活を維持するための社会の生活基盤のことなんだが、人間全員が奴隷になっちゃ、これはきっと……いや、間違いなく崩壊する! そして、そうなると水道も電気もガスもない生活を強いられることになるわけだが、そんな状態で、今まで通りのフレンチトーストが作れると思うか? 俺のレシピは電気とガス、両方使う。皿やフライパンを洗うために綺麗な水も必要だ。つまり、社会の健全なインフラなくして、俺はあの味を再現することができないんだ!」
「うわあ」
直春が声を張り上げると、邪悪様は気圧されたようだった。変な声を上げた。
実のところ、フレンチトーストなんて、火があればどこででも作れそうなものだったが。
「わかるか、邪悪様? お前の野望が達成された暁には、俺は永遠にあのフレンチトーストを作ることができなくなるんだ」
「わ、わかった……ぼく、みんなを奴隷にするのはやめる」
「うむ」
もっともらしい顔でうなずきながら、直春は内心、おかしくてたまらなかった。人類総奴隷化の危機がフレンチトーストで回避されてしまったのだから。なんという安さ。
「ナオ、どうしよう。やらなきゃいけない悪いことがなくなっちゃった」
「無理して悪いことする必要ないだろう」
「そんなのだめだよ。ぼく、悪いやつなんだからな」
「……どうしてそう思うんだ?」
直春は起き上がり、邪悪様のすぐ隣に立った。
「いい加減話せよ。お前がなんで自分のこと悪いって思ってるのか」
「な、なんでって……ぼくはそう決まってるんだよ。悪いやつなんだよ」
邪悪様は急に不安そうに目を伏せた。
なんだか、かたくなに自分のことを悪いやつだと思いこみたがってるようだ。なんでだろう?
「箱に封印されてたことを気にしてるのか? お前は過去に何かやらかして、それで閉じ込められてたんだろう? 一体、何したんだよ?」
「よ、よく……わかんない……」
邪悪様の声はとても弱弱しかった。ココが言った通り、やはり記憶喪失なんだろうか。もしかすると、罪の意識だけが漠然と残っていて、それで自分のことを悪いやつだと思っているのかもしれない……。
と、そのときだった。空の彼方から、何かが猛スピードで、彼らの目の前に飛来してきた!
「お、お前は……」
直春は目を疑った。そこにいるのは背中に純白の翼を生やした――或香だったのだから。しかもなんか服装もいつもと違う。シックでエレガントな薄桃色のサマードレスなんて着ている。空手バカには似つかわしくない、いかにもよそいきの格好である。その手にはいくつもの紙袋が下げられており、人気アパレルショップのロゴが入っている。
「お前なんだよその翼? その服装?」
意味がわからない。服装がおかしいので、翼もおかしいファッションの一部と思いたいところだが、実際今、飛んできたし。
「あたし、昨日、天使様に出会って契約したのよ」
「て、天使だと……」
そうか、それで背中に翼を……。常人なら到底理解に困る答えだったが、すでに不可思議な出来事をさんざん目の当たりにしている直春は、一応、それで納得してしまったのであった。天使の存在とかもう常識の範疇になっちゃってたのである。
「でも、その服装はなんだ? なんでそんな、モデルみたいなパリッとした恰好してるんだ?」
「だから言ったでしょ、天使と契約したって。契約料もらったのよ。五十万円」
「ご、五十万? まさかそれで豪遊してきたのか?」
「当然。お金って使うためにあるものだしぃ」
或香は紙袋の一つから服を取り出して直春に見せた。人気ブランド物っぽい、そこそこ高そうな服だった。
「ねえ、ナオ。この人、ちょっと変なにおいがするね」
邪悪様は興味深げに或香を見ている。おそらく、或香のつけている香水の匂いのことだろう。こんなものまで買ったのか。汗臭い道着が一番お似合いなのに。
「お前、まさか昨日今日で五十万円全部使ったのか?」
「使ったわよ。それが?」
「い、いや、別に……」
なんだろうこの感じ。犬に一週間分のえさをあげたら、一日で食べられた、みたいな感じ? 女子高生にとって五十万円と言うのはかなり大金のはずだが、それを二日でこうも気持ち良く使い切るって、どんだけ生き急いでるのだろう、この女は。宵越しの銭は持たねえ主義の江戸っ子か。
「で、お前は、そのチャラチャラした服を俺に自慢しに来たのか?」
「違うわよ。天使様との契約を実行しに来たのよ」
「俺に何か用があるのか?」
「ええ。あんたには箱を譲ってほしくて」
或香はそう言うと、直春にさらに歩み寄ってきた。
「箱? お、お前もか?」
あのフナムシや電気の馬と同じように、まさか或香まで狙ってくるとは。
「天使様との契約なの。あんたから不思議な箱を回収するのがあたしの役目。さあ、早くそれをこっちよこしなさい」
或香は手を差し出し、いかにも箱を手渡せといったポーズだ。その表情とまとっているオーラは凄味がある。断ったら鉄拳制裁。そんな雰囲気である。
「そうは言われても……」
呪いのアイテム状態なわけなんだが。手放したくても鎖のおかげて手放せない状態なわけなんだが。
「お、おい、ココ! お前、この状況、なんとかしろよ!」
ポケットをたたいた。
「ふわぁ……なんっすか、マスター?」
ココはいかにもさっきまで寝ていたような声である。かくかくしかじか。今の状況を小声で素早く伝えた。
「あらあら。そりゃ大変なことですねえ」
「何他人事みたいなこと言ってるんだよ、お前のことだろうが! 早く、お前を手放せない状態を解除してくれ。そしてあの女のものとなって消えろ」
じっとこっちを見つめる或香の、肉食獣のような視線に直春は肝が冷える思いだった。子供のころから、或香の拳には痛い思いをしてきた彼だった。
「マスターと今すぐここで契約解除っすか? ムリムリ。まだそれができるほどデータ復元できてないですよ?」
「え……じゃあ、俺どうすれば……」
「舌先三寸でやり過ごすしかないんじゃないですかね。あの人、マスターの知り合いなんでしょ?」
「人間の言葉が通じればいいんだが」
「……さっきから何一人でブツブツ言ってるの?」
或香はいらいらした様子でこっちを睨む。
「わ、悪い、或香。俺、今はまだ箱を手放せない状態なん――」
「そう、あたしには渡せないのね」
或香は剃刀のように直春の言葉をさえぎった。
そして、直後、回し蹴りを彼の頭に放ってきた!
「うわあああっ!」
それは彼の周りに突如現れた鎖の壁によって阻まれた……のだが、直春は恐怖で縮こまる思いがした。こ、この女、今、間違いなく全力で俺を殺しにきていた!
「お、おま……人の話を聞いて……」
「聞いたわよ。あんた、あたしに箱を渡す気ないんでしょ。だったら、力づくで奪うまでよ!」
鎖の防御にひるむことなく、目の前の空手バカはさらに直春の懐に踏み込んできた。その膝がしらは、彼のみぞおちを確実に狙う。
その攻撃はやはり、ヒットする直前に鎖によって防がれた。
「ちっ……いまいましい!」
或香は舌打ちして、膝がしらと鎖の接触面を足場に宙返りし、少し離れたところに着地した。無駄も隙もない完璧な動きである。お前はどこの歴戦の戦士だ。
「あ、一つ思い出しましたよ、マスター。あの人の純白の翼、あれは
諸悪の根源がポケットの中で解説し始めた。
「
「はい。天界では上の中ぐらいの、かなり力の強い種族です。それゆえに生身の状態では人間界に降りることができないんですよ」
「どういうことだ?」
「人間界と天界の間には魔力障壁があるんですが、それは網構造になってるんですよ。魔力がある程度大きいものはそこを通れないんです。まあ、
「でもあいつ、その天使と契約したって言ってたぞ?」
「おそらく、霊体のみを人間界に飛ばしたのでしょう。しかし、その状態ではろくなことはできませんから、波長の合う人間を見つけて契約したんでしょうね」
「波長の合う人間……」
よりによって或香かよ。
「波長が合うという以外にも、
「あ、うん。あいつはそっちのほうだろうな……」
淀んでるもん。幼馴染を躊躇なく殺そうとしてたもん、今。
「じゃあ、その
「ええ。単純明快な話ですね」
「俺の気持ちは複雑だが……」
幼馴染に五十万円で命を狙われるとか。安いし。
「いいから、早く箱をよこしなさいよ!」
と、やがて再び或香が迫ってきた。その拳と蹴りはやはり鎖で防御された。だが、彼女の気迫と殺気は相当なものである。直春は生きた心地がしなかった。鎖の防御の時間制限も気になる。
邪悪様はそんな二人の様子をフェンスの上に座って、じっと見ていた。フナムシや電気の馬のときと同じく、まだ直春が危機的状況だと理解していないようだ。
ここはあいつに助けを求めるか……。
一瞬そんな考えがよぎったが、それは邪悪様によって跡形もなく消滅したフナムシや電気の馬を思うと、大いにためらわれた。或香は一応、幼馴染だ。邪悪様に消されても困る。なんとかそれ以外の方法で戦いを回避したい。
やはり説得しかないか――。
「おい、俺の話を聞け!」
直春は鎖の壁に向かって鉄拳を浴びせている或香に叫ぶ。
「俺はお前に箱を譲る意志はある! しかし、今は無理なんだ。明日か明後日には渡せると思う――たぶん」
「は! そんなこと言って、絶対にあたしに箱を渡さないつもりでしょ。それぐらいわかるわよ!」
「本当だってば!」
「うそよ! あんたの今の言葉は、借りた物を絶対返さないやつの言うことよ! あたしはいつもそう言って数々の催促を切りぬけてきたわ!」
「お、お前……」
そういえば昔からそういうやつだった。或香に貸したものは直春の世界から失われたものと同じだった。返せって催促すると、明日か明後日ぐらいに返すって言われて、でもその明日か明後日は永遠に来なかったのである。
この女、この世から消えてもいいんじゃあないかな……。
直春の胸にどす黒いものがいっぱいあふれてきた。
と、そこで、鎖の時間制限が来たようだった。或香の何発目かの拳を受け止めた後、鎖は砕けるように消えてしまった――。
或香はその瞬間を見逃さなかった。ただちに体を強くしならせ、高く跳躍すると、さながら鷹が小動物を仕留めるような勢いで、直春の頭にとび蹴りを放ってきた!
これは……やられる!
直春は死を覚悟した。もはや目をつぶり、身を固く委縮させる以外に何もできなかった。
だが、その瞬間、彼の体は大きく後ろに引っ張られ、致命的な一撃を回避することができたようだった。ふわりとした感覚だ。これは、もしかして魔法の力? 目を開けてみると、彼のすぐそばには邪悪様が立っていた。
「ナオはぼく専用の奴隷だぞ。いじめていいのはぼくだけなんだからな」
邪悪様は或香をむっとした顔で睨んでいる。こいつ、ようやく空気を読んで俺を助けてくれたのか? ほっとした直春だったが、邪悪様の険呑な表情を見ると、新たな危機を感じずにはいられなかった。このままだと或香が邪悪様のやんごとない力で消されてしまいそうである。
「お、おい、お前は下がってろ――」
あわてて邪悪様の前に出ようとするが、
「何この子、あたしの邪魔するなら容赦しないわよ!」
時すでに遅し。或香は完全に邪悪様を敵としてロックオンしていた。どうやら、天使との契約とやらのせいか、普通の人には見えない邪悪様もばっちり見えているようである。
その人間凶器と化した体は屋上を低く素早く駆け、邪悪様の懐に迫る――。
だが、そこで或香の動きはにわかに止まった。彼女は急に、苦しそうにその場にうずくまったのである。
「な……なんなのよ……急に……」
或香は頭を抱え、苛立ちと苦悶で顔をゆがめている。
いったい、何事だ? と、直春が思った瞬間、彼女の様子がまた変わった。なんと、その背中から一人の女が抜け出してきたのである。にょきっと。
それは背に純白の翼を生やした、金髪碧眼の美女だった。そして、彼女が背中から出てくることにより、或香の背中の翼はなくなってしまっていた。どうやら、この女が或香を五十万円で雇い、その体に憑依していた
「なんなのよ、は、わらわの台詞じゃ。この女、姉様に何をする気じゃ!」
美女は憤然と倒れている或香を睨んでいる。或香は気絶しているようだ。
「お、お前は一体……」
直春は尋ねずにはいられなかった――が、
「姉様、お久しゅうございます!」
美女は、彼の存在を無視して、一目散に邪悪様のもとに駆け寄ってきた。よく見るとその体、微妙に光っていて半透明である。霊体というやつなのだろう。
「お前、こいつの知り合いなのか?」
「はっ! 下賤な人間風情がわらわをなんと心得る。わらわは
美女は、ファラルーシェは誇らしげに叫んだ。
「つまり、こいつ、邪悪様の昔の子分みたいなもんか?」
直春は小声でポケットの中の箱に尋ねた。
「そんな感じですねえ。天界の天使の世界ってスッゴイ縦社会なんですよね。魔力の大きいものに小さいものが絶対服従ってノリ? つまり、魔力が非常に大きい
「そ、そうか……」
わかりやすいが、なんだか夢もロマンもない説明である。
「邪悪様、この女、お前の昔の知り合いみたいだが……覚えてるか?」
「うーん?」
邪悪様は困ったように首をかしげたが、
「よくわかんないや。おばちゃん、誰?」
やがて、無垢な笑顔でこう言った。
「お、おば……だ、誰……」
ファラルーシェはえらくショックを受けたようだった。蒼白になり、その場にがくっと膝を落としてしまった。
「おい、邪悪様。いくらなんでも『おばちゃん』はまずいだろう」
「だって、ほんとに知らないんだもん。おばちゃんのこと」
「いやああっ!」
ファラルーシェは悲痛な叫びをあげ、泣き始めた。
「わ、わらわは、この五十年、一度たりとも姉様のことを忘れたことはないのに……ずっと、お探しもうしてたのにぃ……」
「五十年もか」
五十万円といい、その数字に何か意味はあるのか。特にない気もするが。
「それなのに、わらわのことを覚えてないばかりか、お、おばちゃん呼ばわりとは、姉様、あんまりじゃ! うわあああんっ!」
ファラルーシェはそう叫ぶと、とたんに空のはるか彼方へと飛んで行ってしまった。
「おい、ちょっと待て――」
直春はとっさに呼びとめたがもう手遅れだった。邪悪様のことを聞きたかったのだが。特に、なぜ五十年も封印されていたかということを。
と、そこで、直春はふとあることに気付いた。今までのフナムシや電気の馬と違い、あの女は明らかに箱ではなくその中身のほう、邪悪様のほうを狙っていたようだった。
それはつまり……。
「なあ、ココ。俺がお前を契約解除ってやつで手放すと、邪悪様とも別れるってことになるのか?」
また小声でポケットに向かって尋ねた。
「はい。箱を手放すのならその中身も同じ。至極簡単な話ですね」
「そ、そうだよな……」
直春は、隣に立つ邪悪様の横顔をじっと見た。彼女は、ココの去って行った空の彼方をぼんやりと見上げていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます