第3話
邪悪様を担いだまま或香の住むマンションに向かった直春だったが、ついてみると、或香は不在だった。
「わたしが学校から戻った時にはもういなかったの。元気になってどこかに遊びに行っちゃったのかな?」
そう言う怜花はエプロン姿だった。聞けば、ちょうどマフィンを焼いたところだという。
「ねえ、直春お兄ちゃん。せっかくだから、一緒に食べよ? その間にお姉ちゃん戻ってくるかもしれないし」
怜花は人懐っこく誘ってきた。断る理由はないように思えた。
だが、ふいに邪悪様にフレンチトーストを作ってやるという約束をしたのを思い出した。
「悪い。また今度な」
そのまま、或香の家を後にし、徒歩で自分の家に戻った。夕方の六時を回ったところだったが、相変わらず家には誰もいなかった。その門柱の表札には、間宮智子、間宮直春と、二人の名前が書かれているのだが。
結局、邪悪様が目を覚ましたのは、その日の夜九時過ぎだった。
「あれ? ぼく……?」
直春の家の居間のソファの上に寝かされていた邪悪様は、ゆっくりと身を起こし、きょとんとしている。完全に、ただのお子様のほうの邪悪様である。直春はほっとした。
「ほら、お前が食べたがってたやつだぞ」
直春はソファの前のローテーブルに皿を置いた。上に乗っているのはもちろんフレンチトーストだ。邪悪様が寝ている間に作っておいたのだ。
「これがそうなんだ? 甘くておいしいやつ」
邪悪様はそれをつまみ、口に運ぶ――と、そこで、直春はにわかにはっとして、邪悪様の手からフレンチトーストを取り上げた。
「ナ、ナオ?」
「これは冷めてる。作り直す」
もぐもぐ。邪悪様から取り上げたフレンチトーストをほおばりながら、直春はキッチンに向かった。彼の家は外観こそ和風だが、居間は洋風で、台所はカウンターキッチンになって居間と続いていた。
直春がキッチンに入ると、邪悪様もなぜかついてきた。
「お前は座って待ってろ」
「え? だって、ナオと離れると、鎖で引っ張られちゃうでしょ?」
「あー、それでしたらご心配なく」
と、そこでカウンターの上に置いていた箱がしゃべった。
「アタシが箱の機能を一部復旧させたことにより、盟約の縛鎖の長さをかなり自由に設定できるようになったんですよ。現在は、マスターの意志により最大値の五十メートルまで離れてオッケーとなっております」
「そうなんだ? じゃあ、もうぼく転ばずにすむんだね!」
邪悪様はうれしそうに笑って、居間に戻り、ソファの上でぽんぽん跳ねた。喜ぶポイントはそこでいいのか。
「ねえ、五十メートルってどれくらい? 石を投げたらちゃんと相手にあたるかな?」
「普通は当たらないだろうな。学校のプールの二つぶんの距離だ……って、これだとお前にはよくわからないか。俺が全力で走って七秒ぐらいかかる距離だよ」
「七秒? じゃあ、ぼくが何か悪いことしても、七つ数える間は、ナオは何もできないんだ?」
「どうだろうな?」
いつのまにかお互いが五十メートル離れていることが前提になっている謎会話に直春は少し笑ってしまう。
「そもそも七秒かけてお前を追いかけても、その間にお前も逃げるだろう? アキレスと亀状態だ。つまり、俺は永遠にお前を捕まえられないという結論になる」
「ほんと? すごいな、七秒って。ナオに絶対捕まらないなら、ぼく、なんでもできちゃうね」
「まあ、封印の声は五十メートル先でも届くだろうけどな」
「えー」
邪悪様の心底嫌そうな声が居間のほうから聞こえてきて、直春はまた笑った。
やがてフレンチトーストは焼き上がった。直春はそれを持って居間に戻った。焼く前に少し電子レンジで温めると、パンに液がしっかりしみこむんだ、それが美味しくするコツなんだ、と、邪悪様にさし出す前に解説した直春だったが、邪悪様はそんなのはまるで聞いていない、いや、聞こえてない様子だった。
「これ、ほんとに甘くておいしいね! ふわふわしてる!」
甘いものを与えられて大喜びのお子様がそこにいた。なんとわかりやすい反応だろうか。直春が焼いた分はすぐになくなってしまった。
「あれ? ナオ、もうフレンチトーストなくなっちゃったよ? ナオが魔法で消したの?」
「お前が全部食ったんだろう?」
「ちょっとだけだよ。ぼく、もうちょっと食べなきゃだめだと思うんだ」
「だめって何がだよ?」
「だ、だめなものはだめなんだよ。ナオってば、なんにもわかってないなあ」
邪悪様は急に偉ぶって、空の皿を直春に突き返した。
「ナオを特別にぼくのコックにしてあげる。だからね、今よりうんとたくさん、フレンチトーストを持ってくるんだよ」
「はいはい、また今度な」
こつん。直春はその皿で邪悪様の頭を軽く叩いた。
それから直春は邪悪様を居間のテレビ様にお預けして、家事を片づけた。この家の表札には二人の人間の名前があるが、実質直春専用みたいなものだった。掃除も洗濯も食事の準備も彼一人でやらなくてはいけない。
「あーあ、どっかに、庭の洗濯物を部屋に取り込むのを手伝ってくれるかわいい妖精ちゃんはいないもんかなー」
居間を通る時に、テレビの前の邪悪様に聞こえるように言ってみたが、反応がなかった。テレビはちょうど二時間のアクション映画を放送していた。邪悪様は興味津々のご様子である。直春の声なんて聞いちゃいねえ。見た目だけは妖精みたいなのになあ。直春は仕方なく一人で洗濯物を部屋に取り込んだ。
やがて映画が終わって、邪悪様は居間の隅っこで洗濯物を畳んでいる直春に近づいてきた。
「ねえ、ナオ、この家にはナオ以外に誰もいないの?」
邪悪様は直春の前にぺたっと座り込み、その顔を覗き込んだ。
「一応、母さんと二人暮らしだよ。でも、根っからの仕事人間でさ、最近は月に数えるほどしか家に帰ってこないんだ」
「ふうん、じゃあ、ナオはここでずっと一人なんだ?」
「まあな」
おかげで気楽なもんさ、と、直春はゆるく笑った。ずっと一人という言葉に、自分の中の、どうしようもなく子供じみた感情がわずかに揺さぶられるのを感じながら。
別にいいじゃないか。母さんには母さんの生き方がある。それだけの話だ……。
彼はいつものように、分別のある大人の言葉を胸の内でとなえ、その揺らぎを抑えた。
「そっか。じゃあ、ナオはぼくとおんなじだね」
「え?」
「ぼくも、ずっと一人で箱の中にいたから」
邪悪様はカウンターの上に置いてある箱を指差した。そして、ふいに楽しそうに笑って、直春の膝の上に座った。
「お、おい、邪魔だ――」
「どれくらいかはよくわかんないけど、ぼくのほうが絶対長いよね。一人でいたの」
邪悪様は直春の体に無邪気にもたれかかってきた。
「だから、ぼくのほうが偉いんだよ。ナオはぼくの言うこと聞かなくちゃいけないんだぞ。ぼくにさからっちゃだめだよ。……ね?」
そう言って、邪悪様はびっくりするほどの至近距離で直春をじっと見つめた。その紫の瞳は、やけに澄んでいて、きらきらしていた。直春はとたんに、こそばゆいような、照れ臭い気持ちがこみあげてきた。
「バ、バカだろ、お前! そんなことで偉いも何もあるかっ!」
そのまま立ちあがって、邪悪様から離れた。そして、そっちに背を向ける方向でカーペットの上に座りなおし、洗濯物を畳む作業に戻った。
と、そこで、台所のほうから給湯器のブザーが鳴るのが聞こえてきた。風呂が沸いたようだ。
直春は時計をちらりと見た。もうすぐ十一時になろうとしている。子供は早く風呂入って寝たほうがいい時間だな、うん。
「おい、風呂入るぞ」
作業を中断し、邪悪様の袖を引っ張って、風呂場に向かった。
しかし、いざ脱衣所に来たところで、邪悪様はなぜか、ものすごく服を脱ぐのを嫌がった。
「早く脱げよ。風呂入るんだから……」
トランクス一枚になったところで、すみっこでもじもじしている邪悪様に気付いた直春は、邪悪様の服をひっぱった。
するとたちまち、
「やだっ!」
顔を真っ赤にして手をはねのけられてしまった。
なんだ、こいつ……。直春にはわけがわからなかった。裸を見られるのが恥ずかしいとしか思えない態度だが、男同士だろう? おまけに十歳かそこらの子供のくせに。
「ナオだけ脱げばいい。ぼく、脱がない!」
「脱がなきゃ風呂に入れないだろう」
「じゃあ、入らない。お風呂なんて、いらない!」
さっきとはうって変わって、攻撃的なまなざしである。意味不明すぎて、直春はいらいらせずにはいられなかった。こうなったら、強行手段だ。
「じゃあ、俺が脱がせてやる!」
身を固くしている邪悪様の懐に強引に手を突っ込み、コートをはぎ取る――と、そのとき、
「ストップです、マスター! 落ちつけアタック!」
何かがとてつもない速さで彼の頭めがけて飛んできた!
「ぐあっ……」
その衝撃に直春はよろめいてしまう。見ると、近くに箱が落ちている。今の一撃はこいつか!
「お前、いきなり何するんだよ!」
「それはこっちの台詞ですよ。どこの犯罪者ですか、あんたは」
「犯罪者? お前、何言って――」
「幼女の服を無理やり脱がそうとするとか、いくらゆるキャラのココちゃんでも見過ごせないというものなのです。ロリコンは死ねばいいと思うよ」
「え? よ、幼女? ロリコン?」
その言葉の意味することはつまり……。直春は邪悪様を改めてじっと見つめた。やはり、よく整った綺麗な顔をしている。まつ毛なんてばっさばさに長い。唇もかわいらしい桜色だ。ほっぺたなんて、ほんのりバラ色でぷにぷにな感じだ。
「お前……まさか女だったのか?」
「ち、ちがうもん。ぼく、男だもん!」
邪悪様はばつが悪そうな顔をして首を振った。
「あいつ、ああ言ってるけど?」
「いえいえ。ココちゃんアイによる鑑定ではありゃあメスですぜ。間違いありませんってば」
「そうなのか」
直春は試しに、近くのスリッパをつかんで、それで邪悪様のキュロットの真ん中あたりを撫で、突起のようなものがあるか確かめてみた。そこには何もなかった。ココの言う通りのようだ。
「なんだ、やっぱりお前、おん――」
「何するんだよ、いきなり!」
たちまち、邪悪様は顔を真っ赤にして、タオルやら籠やら、近くにあるものをやたらめったら投げつけてきた。
「ちょ、待て、お前――」
「マスター、今のはさすがにアウトですよ」
「いやだって、こいつが、男だって言い張るから」
「ナオのバカ! バカバカ!」
「やめろっ! 俺が悪かったから!」
直春は必死に邪悪様に謝った。
それから、邪悪様をなだめて、それとなく話を聞いたところ、男のふりをしているのは「そっちのほうが偉くて悪そう」という非常にどうでもいい理由だと判明した。直春はもうそのへんは触れないことにして、彼女を一人で風呂に入れ、何とか寝かしつけた。時刻はもう十二時になっていた。
邪悪様には母親のパジャマと下着を渡した。サイズは当然合っておらず、ぶかぶかだったが他に適当なものはなかった。そして、母の部屋に押し込んだ。そこを使わせれば何も問題なさそうだった。どうせたまにしか帰ってこないんだし。
「……さて、今日一日でどこまでデータが復元されたのか、聞かせてもらおうか」
自分の部屋で一人になったところで、机の上に箱を置き、直春は改めて声をかけた。
「ふわぁ……何が知りたいんですか、マスター?」
ココは眠そうな声である。
「何ってお前、ほぼ全部だよ。ほとんど何もわからないんだからな。あいつはなんだ? お前はなんだ? わかってることを洗いざらい吐け!」
机の上のスタンドの光を箱に当てた。気分は警察署の取調室である。
「そうですねえ。まずは基本的なところから説明しますかね。マスターは、この世界をどう認識してますか?」
「世界? 膨張し続ける宇宙のことか? それとも地球規模の話か?」
「あ、そんなSFチックなノリじゃないんで。どっちかというと、ファンタジーのほうなんで。つまりは、マスターがいるこの世界は、天界と冥界、そう呼ばれる二つの世界にはさまれた世界ってことさあ。ココちゃんはそれが言いたかっただけなんだな」
「また、ベタなファンタジー世界観だな……」
エヴェレットの多世界解釈のほうがまだリアリティがあるような気がする。
「ベタなのはそれだけグローバルスタンダードってことですよ? 世界の真実に昔から人々はうすうす気づいてたってことなんですね。世界各地の神話とか民話とかに、それっぽい描写いろいろあるでしょ? 天使とか悪魔とか。あれ、全部、この世界の真実になんらかの形で触れちゃった人による創造なんですよね。平たく言えばパクリ」
「ああ、うん……それで?」
このさい、世界の話とかどうでもいい。壮大すぎるし。
「ちなみに、マスターがいるこの世界は、特定の名称がありません。空間が保持する魔力が極端に少ない砂漠のようなところで、天界と冥界両方にとってあんまり重要ではないので、緩衝地帯、不毛の地、夢の島、弱小生物保護区、中央分離帯、人間界(笑)、存在自体が軽くネタ、などと昔から好き放題言われております」
「うわ……」
これまたいやな世界の真実を聞かされてしまったぞ。
「とりあえず、ココちゃんとしては、マスターの気持ちを考えて、この世界のことを(笑)を抜かした人間界という呼び名で通すことにしますね」
「ま、まあ、それで頼む」
通すっていうか、それを積極的に関係各所に広めてほしい感じである。
「で、この箱に封印されてたあのお子様のことなんですが、今日一日アタシなりに残存している断片情報を解析した結果、天界の出身だということが判明したのです」
「天界の出身? まさかあいつ、天使ってやつなのか?」
「おそらく。天使の中でも
「超エリートの天使?」
直春の頭の中に、翼をたくさん背中に生やした、神々しい天使の姿が浮かんだ。それは、あの邪悪様とはあまりにもかけ離れているような……?
「あいつ、全然そんなふうに見えないぞ?」
「あれは本来の姿ではないようなんですよ。長いことこの箱に封印されていたせいでしょうかね、子供の姿になってしまってるようなのです。
「じゃあ、本当のあいつは大人なのか」
もしかして、美人だったりするんだろうか? ちょっぴり気になった。あくまでちょっぴり。
「でも、なんであいつ、箱に封印されてたんだ? 天使の超エリートなんだろう?」
「さあ? そのへんはまだよくわからないのですが、大罪を犯して、天界を追放されて封印されたとしか考えられませんね」
「大罪? あいつが?」
ちょっと信じられない。
「いったいあいつが何やらかしたんだよ?」
「何したんでしょうね。
「は、半端ないな……」
それもう天使じゃなくて、神じゃないか?
「実はここだけの話、マスターがこの箱のことを一切覚えてないのも、この理不尽な天使パワーのせいだと思うんですよ」
「どういうことだ?」
「この箱は天使が作ったものなんです。人間界のものではありませんから、こちらで機能不全になると、存在自体が限りなく『なかったこと』に近くなってしまうんです。人間の記憶もそれに影響されるってことですね。つまり、マスターが土の下に埋めて放置してたのが悪い」
「そんなこと言われてもなあ」
覚えてないんだし。
「で、他に何か質問ありますか、マスター? なければ全力で寝るが」
ココはまたあくびをしたようだった。やっぱり眠いようだ。箱のくせに。
「そうだな……。気になると言えば、あの
「あれはとこしえの刹那と呼ばれるものですね。
「と、とこしえの刹那? なんだその、塩辛い砂糖、みたいなよくわからないネーミングは?」
「アタシに聞かないでくださいよ。大昔からそう呼ばれてるものなんですし」
「精霊ってことは、あれは違う人格が宿ったみたいな状態だったのか?」
「いえ、あれは
「……お前、何気に
「話をそらさないでくださいよ。つまりはですね、そういう、金はあるが平和ボケしてる日本人みたいな種族ですから、外敵には弱いんです。だから、古来より、戦闘用の精霊をその身に宿してるんです。いわば、あれは自己防衛用のプログラムと言っていいでしょう。とこしえの刹那には、確固とした肉体はありませんし、もはや
「ふうん?」
真核生物の細胞内のミトコンドリアみたいなもんかな? わかったような、よくわからないような話である。
「じゃあ、これでもう今日の質問タイムはいいですね。ココちゃんもう寝ますわ」
ぐう。寝ると言ってから、一秒もたたないうちにいびきが聞こえてきた。はやっ! 超寝つきのいい箱である。
「俺も寝るかな」
十二時過ぎてるし。直春もスタンドの灯りを消し、ベッドに横になった。
しかし、それからすぐに直春は妙な窮屈さで目を覚ますことになった。いつのまにか邪悪様がベッドに入ってきていたのである。
「お前、なんでここに……」
すやすや寝ているその小さな体をゆさぶった。
「……ん」
邪悪様はすぐに目を開けたようだった。部屋は暗かったが、開放した窓から差し込んでくる月光が、その顔をおぼろに照らしていた。銀の長い髪は、今は結っておらず、シーツの上にただ流れるままになっている。
「お前、母さんの部屋で寝てろって言っただろう?」
「だって……」
邪悪様は寝起きのかすれた声でそれだけつぶやくと、直春のTシャツの裾を引っ張った。
「なんだよ?」
「ぼく、もう一人で寝るのやだよ。それじゃ、箱の中にいるのと同じだもん」
「え――」
「ぼく、ずっとあの中で一人だったんだもん。中は暗くて、いつも眠くて、はっきりとは覚えてないけど、でも、ぼく、すごくさみしかった。だから――」
邪悪様はふと直春の顔を見上げた。そして、目があったところで何か急に恥ずかしくなったように、近くの羽毛枕を取って、顔に押し付ける形で抱きしめた。
「……そうか。じゃあ、好きにしろよ」
直春はそんな邪悪様を追い出すことができなかった。こいつは子供なんだ。自分以外に頼れる人間はいないんだ。だったらこれぐらい別に……。そう思ったが、なぜか妙に胸が苦しかった。なんだろう? 甘えん坊の子供の相手をしているだけなのに――。
「……ナオは、平気なの?」
「何が?」
「一人で寝るの。さみしくないの?」
「そ、それは――」
ふいに胸を強くえぐられたような気持ちになった。ちがう、そんなことはない、俺はお前みたいな子供とは違う、そんな言葉がのど元まで出かかったが、声にはならなかった。
「い、いいから、早く寝ろよ!」
直春は邪悪様に背を向けた。そして強く目をつむった。
ああ、だから、さっき胸がおかしかったんだ。直春は瞼の闇の中、自分の動揺の意味を知った。邪悪様は子供だ。そしてそれを相手にしていると、自分の中の子供っぽい感情が揺さぶられてしまうんだ。一人でいてさみしい? そんなのいまさら考えることじゃない。もう高校生なんだ。生物学的にはもう大人と同じだ。親に頼る必要なんてほとんどない。一人のほうが気楽でいいんだ。そうだ、家族とか、家に帰った時出迎えてくれる誰かとか、そんなのは自分には必要ない……。そんな言葉を念じながら、彼はやがてまどろみの底に落ちて行った。
その晩、彼は夢を見た。子供のころの記憶だった。
「お母さん、僕の体操服にゼッケンつけて」
ちょうど小学四年生にあがったばかりのころだった。直春はたまたま早い時間に家に帰ってきた母に、思い切ってこう頼んでみた。いつもは頼みごとなんてめったにしない彼であった。仕事が忙しい、彼はそれを母から何度も聞かされていたから。
「そう。学年が上がったから、新しいゼッケンをつけなくちゃいけないのね」
母は彼の持っている体操服とゼッケンに多少は関心を寄せたようだったが、
「でも、それぐらい自分でやりなさい。あなたならできるわよね?」
「え……」
「直春は昔から何でも自分でできる子だものね」
母はそう言って、家のどこからか裁縫箱を取ってきて彼に渡した。そしてそのまま、いつものように自分の部屋にこもって仕事をやりはじめた。ちがう、僕が何ができるとか、できないとか、そんなのどうだっていいんだ。僕はただ、お母さんに……。彼は寂しい気持ちで胸がいっぱいになったが、同時に母の言うことも至極もっともだとも思った。そうだ、ゼッケンぐらい、自分で縫いつけらるはずだ。そんなのたいしたことじゃないさ。針と糸を取り、慣れない手つきで、裁縫を始めた。
けれど、そうやって九歳の子供の手で縫い付けられたゼッケンはとてもあやういものだった。やがて、新学期始まってすぐの体育の授業中、
「間宮君、背中のゼッケン、取れかかってるよ?」
女子の一人に指摘された。手を背中にまわして見ると、確かにそんな感じだった。縫いつけた糸が半分切れているような……。
「間宮君のお母さん、あんまりお裁縫上手じゃないんだね」
その女子は無邪気に笑った。しかし、直春はその言葉に強い痛みを感じずにはいられなかった。その子にとっては、体操服のゼッケンなんて、母親に縫ってもらうのが当たり前のものだったのだから。
見ると、その子の胸のゼッケンは綺麗に体操服に縫い付けられているようだった。大人の仕事だ。ゼッケンには名字が書かれていた。これも大人が書いたとしか思えない字だった。
直春はふと周りを見回し、他の子供たちのゼッケンを確認した。みんなその子と同様に、体操服にはしっかりと縫い付けてあるようだったし、書かれいる名前も、親が書いたとしか思えない字だった。
直春は猛烈に、自分で名前を書き、自分で体操服に縫い付けたゼッケンが恥ずかしくなり、同時にとてもみじめな気持ちでいっぱいになった。
お母さん、僕、なんでもできる子じゃないよ……。
涙が出そうだった。
翌朝、直春が目を覚ました時、隣には誰も寝ていなかった。
「あ、あれ?」
邪悪様がそこにいたはずなのに。たちまち、強い不安と胸騒ぎに駆られた。
「邪悪様!」
直春は起き上がり、彼女の名前(?)を叫んだ。
と、そこでようやく、そのお子様が、ベッドのすぐそばのカーペットの上に寝転がっているのに気づいた。どうやら、寝ている間にベッドから落ちていただけのようである。
「なんだ……」
直春はほっと胸をなでおろした。と、そこで、机の上の置き時計の針が、午前七時半を指しているのに気づいた。
ヤバイ、このままじゃ遅刻だ。あわてて、ベッドから飛び出した。
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