第2話

 取扱説明書が言った通り、あの巨大なフナムシの毒ガスはたいしたことはないようだった。直春が駆けつけた時には、みんな青い顔をしながらも意識を取り戻していた。怜花も同様だった。


「さっきのあれは一体何だったんだ? ナオ、お前何か知ってるか?」


 銀次達に尋ねられて、直春はなんと答えればいいのかわからなかった。正直、何が何だかよくわからないまま嵐が過ぎて行った感じだし。さあ?と、首を振り、適当に彼らの質問を流した。


 それから彼らは神社を離れ、解散した。直春も一人、家に戻った。古い一軒家が彼の住まいだ。ここに、母親と二人で暮らしている。けれど、母親は仕事の都合でめったに家に帰ってこない。日曜日だというのに今日も仕事で不在だった。いつもの週末だ。いまさら何も思わない彼だった。一人のほうがきっと気楽なものさ、彼はずっとそう考えている。いや、正確にはずっと自分に言い聞かせている。


 家に入り、二階の自分の部屋に戻ると、彼はさっそく謎の箱を机の上に置き、まじまじと観察した。やはり気になる。超気になる。


 しかし、見てくれはいかにも普通の小さな箱であった。離れた場所に向かって投げると、数メートルほど飛んだところで急に鎖が右の手首と箱をつなぐ形で現れ、それ以上遠くに飛んで行くのを阻止する以外はまったく普通だ……いや、それ十分変だから! 絶対に捨てられない呪いのアイテムと同じだから!


「おい、取扱説明書? 少しは何か思い出したか?」


 つんつん。箱を揺さぶってみた。


 すると、


「なう……ろーでぃんぐ……」


 鍵穴の向こうからやる気ない声が聞こえてきた。まだ何も聞き出せる状態じゃなさそうだ。使えない取扱説明書だ。というか、その呼び名もどうなのか。


「お前さ、名前とかあるの?」

「んなもんあるわけないですよ。リソースの無駄、考えてみてください」

「ないのか。じゃあ、適当に呼び名でも――」

「ココ、で」

「え」

「今考えました。アタシ、この箱のナビでハコ子。つまり略してココって。いいですよねー」

「はあ……」


 こいつ、なんかすごく雑で早いな。自分の名前決めるの。まあいいか。


「じゃあ、ココ。何かわかるようになるのは、あとどれくらいかかるんだ?」

「遺失したデータの復元には、せいぜい二、三日ってところですかね。それまではこの箱を大事に持ち歩いてくださいね、マスター」

「言われなくてもわかってるよ……」


 捨てたくても捨てられないものみたいだしな。はあ、と彼はため息を漏らした。なんでこんな箱の持ち主になってしまったのか。それに、この箱の中身、あの邪悪様とかいう少年……一体何だっていうんだ。


 やがて翌日、月曜になり、彼はその箱を持って高校に行った。置いていくこともできないものだし。





 それは五時間目、数学の授業の時だった。


「ではこの問題を……間宮。お前に解いてもらおう」


 机に突っ伏して眠っていた直春は、にわかにその声で起こされた。はっとして、顔を上げると、すぐ近くに数学教師が立っていて、憎たらしげにこちらを睨んでいた。中年の、猿によく似た顔だちの薄い頭の男性教諭である。


「教科書の五十三ページの問い四だ。ちゃんと授業を聞いてればわかる問題だな。ちゃんと」


 数学教師は眉を吊り上げながら、黒板を指差した。


 ああ、そこに、答えを板書すればいいのか……。直春は寝ぼけ眼で机の上の本の一冊を取り、ふらふらと黒板の前に出て、チョークを手に取った。自分が解くべきは五十三ページの問い四とやらだ……。かりかりかり。彼の握るチョークはなめらかに黒板の上で踊る。ものの数十秒で解までの数式が完成する。


「あの、できましたけど……」


 あくびをしながら、教師のほうを振り返った――と、そこで、教師が黒板を見て目を白黒させているのに気づいた。あれ? 間違ってたかな? 持っている本の五十四ページの問い四を見てみる。複素関数の証明問題がそこにある。答えは合ってると思う……のだが、そこで彼ははたと気づいた。黒板にはサイン、コサイン、タンジェントの記号が並んでいることに。


 もしかして……。


 はっとして、自分の持っていた本を確かめた。中身は授業とは無関係の数学の問題集だ。しかも洋書である。ま、間違えてる! これ学校の教科書じゃない!


「間宮……お前、なんでそんな問題を英文で解いて……」

「す、すみません! 俺、何か勘違いしててっ!」


 あわてて黒板消しで複素関数証明問題の英文解答を消し、すぐ近くの席の生徒が開きっぱなしだった数学Ⅰの教科書を盗み見て、その五十四ページの問い四の数式を書き連ねた。ものすごい早さで。


「こ、これでいいですよね?」

「お前……さっきの問題、大学レベルだろう? それもかなり高等な……」


 教師はしかし、変な目で見ている。クラスメートたちも、ざわつきはじめた。「あいつ、なんでいきなり英文で証明問題を?」「いつも授業中は寝てるか授業に関係ない本読んでるのに」「あんなの高校じゃ絶対やらない問題だよな?」彼の挙動をいぶかしむ声が聞こえてくる。はわわ。直春の額に冷たい汗がにじむ。


「す、すみません。俺ちょっと腹が痛いんで、保健室行ってきます!」


 いたたまれなくなり、彼はそのまま教室を飛び出した。


 しまった。今日に限って、家から数学の問題集持ってきてたんだ……。後悔の念でいっぱいになる。また変な目で見られてしまった。


 先ほど聞いたクラスメートたちの驚きの声に、中学二年の時の記憶がよみがえってくる。あれはそう、数学の時間だった。教師が一人一人に中間テストの答案の返却をしていて、クラスで唯一百点だった直春と、九十五点だったとある男子生徒を名指しで褒めたのだ。教師いわく、その時のテストはかなり難しいもので、前回に比べ平均点がかなり低かったらしい。


 だがそこで、九十五点をとった男子生徒が目を血走らせて叫んだ。「間宮、お前、カンニングだろう!」彼はさらに皆の前でこう続けた。自分は毎日塾に通ってるし、学校の授業もちゃんと聞いている。それにひきかえ、お前は放課後は特に勉強はしてないそうだし、授業中も真面目にノートを取っていないじゃないか。課題だっていつもまともに提出してない。それなのに、クラスで唯一百点なんておかしい、と。


 直春はカンニングはしてないと答えた。実際そうだった。するとにわかに、とある一人の女子生徒がこう言った。「あの、あたし、試験の時、間宮君の隣の席だったんです。それでたまたま見えちゃったんですけど、試験開始二十分ぐらいで、間宮君、解答欄全部埋まってたみたいで、すごく暇そうにしてました」たちまち、クラス全体がどよめきはじめた。あのテストをたったの二十分で? 私なんて時間いっぱい使っても全部解けなかったのに? やっぱりカンニングじゃないの? きっと、あいつ、あらかじめ問題知ってたんだろう。だよね、あいつ普段全然授業まじめに聞いてないし、それで満点とかありえなくね。絶対カンニングだよ――そんなささやきが次々に直春の耳に飛び込んできた。彼の額に冷たい汗がにじんだ。カンニングではなかった。けれど、それ以外のことはすべて事実だった。だから、どう反駁すればいいのかわからなかった。クラス中の冷たい猜疑のまなざしに胸が締め付けられるようだった。


 彼がそのテストの解答欄を短時間ですべて埋めた理由はとてもシンプルだった。彼にとっては、問題が簡単だったからだ。そして、こんなに簡単なんだから、他の生徒達も満点かそれに近い点数を取るだろうとも思った。彼にはそれが他の生徒達にとってどれだけ難しいかわからなかったのだ。


「俺はカンニングなんてしてません」


 そのときの直春は弱弱しい声でそうつぶやくしかできなかった――。


 やがて彼は校舎裏、茶道部の部室のすぐそばの木陰に来たところで、そこのベンチに腰掛けた。ちょっとした休憩スペースのような場所だが、今は授業中だ。周りに人気はない。昼下がりの七月の空は今日も青く澄んでいて、日差しはまぶしく、青々とした周りの木々の葉を照らしている。その影が、彼の座るベンチにも落ちてくる。


 と、そこで、


「……おい」


 ポケットの中から声が聞こえてきた。


「お前、早く余をここから出せ」


 相変わらずしゃがれた低い声だが、よく聞いてみると、かなり無理して声を作っているのがわかった。きっと偉ぶった口調もそうなんだろう。キャラを作ってるってやつだな。直春はぼんやりその声を聞き流した。ゆうべから何度か話しかけられてはスルーしての繰り返しであった。幸い、ポケットの中でどうわめかれようと、彼以外には何も聞こえてない様子だったし。


「おい! おいってばおい! 余の言葉が聞こえないのか!」


 直春はうっかり持ってきた数学の問題集をぼんやり見つめる。どうしようかなあ、これ。


「お前! 余をバカしているのか! 無視なんて、ひどいやつだ! それってすごくいけないことなんだぞ!」


 だんだん口調がどうでもいい感じになってきた。なりふり構っていられなくなったのだろう。


「いいから、ここから出せよ! 出せってば! ぼくはすごいんだぞ、強いんだぞ? すごく頼りになるんだぞ? お前の敵なんて一撃でぼっかんだーぞ?」

「いや、敵なんていないし……」


 さすがに突っ込まざるを得ない直春だ。


「じゃあ。ぼくの力で、お金持ちにしてあげるよ。それってすごくいいでしょ? お得でしょ?」

「金にも別に困ってないし……」

「えー、じゃあ、一緒にいろんなところ行こうよ? ぼくが空飛んで、どんなところにでも連れてってあげる。それでね、一緒においしいもの食べるんだ。ぼく、甘いものがいいな。君はどう?」

「どうって……お前な」


 なんか、悪魔の誘惑的なトークから、ただの旅行のお誘いみたいな流れになってきた。話適当すぎるぞ、こいつ。


「そういうグルメ紀行みたいな企画もいらないから」

「え、甘いの、嫌いなの?」

「嫌いじゃないさ。自分でもよく作って食うしな、フレンチトースト」

「ふれんちとーすと? それ、甘いの?」

「うん。甘くておいしい」

「君、それが作れるの?」

「ああ。昔、母さんに教わったからな」


 数学の問題集をぼんやり見つめながら彼はつぶやいた。これも、母さんに買ってもらったものだっけな。


「じゃあ、ぼくにも食べさせてよ。それ」

「え……」


 どう答えたもんか。直春は困惑した。こいつは正直、なんだかよくわからん生き物だ。箱の中に閉じ込めておくにこしたことはない。けれど、こうやって話してみると、本当にただの子供なのだ。フレンチトースト食べたい、とも言われてしまった。彼は自分の作るフレンチトーストにそれなりに誇りを持っていた。食べたいと誰かに言われたら、作ってあげたい気持ちになるのだ。


「わかったよ。家帰ったらな……」


 ややあって、彼は答えた。


「ほんと? 楽しみだな、甘くておいしいフレンチトースト!」


 ポケットの中からうれしそうな声が聞こえてきた。あくまでフレンチトーストだけを純粋に楽しみにしているような声だ。食べるついでに外に出してもらえそうだとか、そういうことは少しも考えてもいなさそうな……。


 本当にただの子供なんだな。彼は笑った。そして、ポケットから箱を出し、無造作にふたを開けた。


 前と同じように、強い光と共に邪悪様はすぐに目の前に現れた。


「え?」


 いきなり外に解放されて、邪悪様は初めは戸惑っている様子だった。


 だが、


「よ、よし! 外に出たんならこっちのもんだぞ! ぼくはもう、お前のことなんか、知らないんだからなっ! さよなら、なんだからなっ!」


 急に勝ち誇ったように宣言すると、あさってのほうに走りだした。逃げるように。


 そして、当然のごとく、


「ふぎゃっ!」


 途中で鎖に引きとめられ、派手に転んだ。


「……お前、学習能力ないのか」


 また笑わずにはいられない直春だった。胸の内にわだかまってた重いものが少し晴れるようだった。


「お、お前、ずるいぞ! これって、ふいうち、ってやつなんだからな! 悪いことなんだからな!」


 邪悪様はぷりぷり怒っているようだ。土を払いながら立ちあがり、直春を睨みつけた。その顔だちはやっぱりとても整っていて、紫色の瞳は澄んだ光をたたえている。


「俺はただ、お前を外に出しただけだぞ。それで、お前が勝手に転んだだけだろう」


 直春はその頭に手を置き、銀髪をくしゃくしゃに撫でた。


「そんなの知らないよ! ぼくがお前なんかと一緒にいなくちゃいけないのが、おかしいんだ」

「その、お前って呼び方、なんとかならないか」


 十歳かそこらの子供にお前呼ばわりってのもさすがに気分が悪い。


「じゃあ、なんて呼べばいいの? お前君? お前ちゃん?」

「普通に名前で呼べよ。俺、間宮直春っていうから。ナオでいい。みんなからそう呼ばれてる」

「ふうん? ナオか。へえ……」


 邪悪様は首をかしげて、直春をじっと見つめた。おそらく、彼の顔と名前とを頭の中で一致させてるところなのだろう。


「じゃあ、ナオ、はやくフレンチトースト作ろうよ」

「授業が終わって家帰ったらな」

「え、今じゃないの? すぐじゃないの? なんで?」

「俺にも事情があるんだよ」


 邪悪様の頭を数学の問題集で軽く叩いた。五時間目の授業はさぼってしまったが、六時間目と七時間目もさぼるのはさすがにまずいというものだ。


「ナオ、この本、なに?」

「パズルの本……みたいなもんかな? 家にこの手の本いっぱいあってな。たまに持ち出したりしてるんだよ。ちょっとした暇つぶしにな」

「パズル? ぼくにも解ける?」


 邪悪様は数学の問題集を直春の手から取って、ぱらぱらめくった。そしてすぐに「変な記号ばっかりだよ、この本?」と心底不思議そうにつぶやいた。


 まあ、何も知らない子供が見たらそう思うよな。直春は苦笑いし、それを取り返した。


「俺の母さんは流体力学の専門家でさ、俺は子供のころからこういう本普通に読んでたんだよ」


 子供のころは、それに何の疑問も持たなかったっけ。自分が特別変わってるとか、そんなことは少しも知らなかった。誰でもこういう本は読むものだと思った。でも、大きくなるにつれ、次第にそうじゃないことを知った……。


「ふうん。ナオは記号が好きなんだね」

「……そうだな」


 彼はゆるく笑った。


 と、そこで、


「……直春お兄ちゃん」


 向こうから怜花が駆けてきた。体操服姿だ。その右の胸には二年一組と、中等部のクラスが書かれている。そう、この学校、朱鷺浜学園は中高一貫で、彼女とは同じ学校だった。


「こんなところで一人で何してるの? 授業中だよ? もしかして――」


 怜花はいたずらっぽく笑った。さぼりを発見されてからかわれたって感じだ。一人で、という言葉づかいからして、彼女には直春のすぐ近くにいる少年は見えてないようだ。


「怜花こそ、こんなところで何してるんだよ」

「見てわかるでしょ。体育してたの」


 怜花は自分の体操服の布地を引っ張った。


「そりゃまあ、その格好はそうなんだろうが、こんなところに来ることないだろう」

「さっきね、運動場のところから、こっちのほうに走っていく直春お兄ちゃんが見えたの。だから、ちょっとだけ体育の授業抜け出してきたの」

「……なんだ。お前もさぼりじゃないか」


 二人は笑いあった。邪悪様はベンチに腰掛け、興味深げにそんな二人をじっと見ている。膝から下を落ち着きなく遊ばせながら。


「ねえ、直春お兄ちゃんは、体もう大丈夫?」

「昨日のことか? 平気だよ」


 元から何ともなかったし。


「怜花のほうはどうだ?」

「わたしは平気。でも、お姉ちゃんはまだダメみたい。今朝もね、具合悪いって言って、学校休んじゃったのよ」

「あいつが?」


 ちょっと信じがたい話だ。成績優秀で、一般入試でこの朱鷺浜学園に入学した妹の怜花と違い、姉の或香は、脳筋女と呼ぶにふさわしい、運動しか取り柄のない人間であった。この進学校にも空手のスポーツ推薦枠で入学しているのである。そんな体が資本の人間が、あんな虫の毒でまだ寝込んでいるとか。直春にはいまいち想像できないことであった。


「仮病じゃないのか?」

「うーん? わかんない。でも、ほんとに顔色はよくなかったよ?」


 怜花もさすがに心配そうであった。


「ねえ、直春お兄ちゃん、学校終わったら、おうちに来て」

「え?」

「お姉ちゃんのお見舞い。たまにはいいでしょ?」


 めったにないことなんだし、と、怜花は言うと、そのまま向こうへ、運動場のほうへ走って行ってしまった。





 そのころ、とあるマンションの一室で、


「に……にじゅうまんえん……」


 ベッドに横たわり悶々とする少女、或香の姿があった。四畳半の彼女の部屋は脱ぎ散らかした衣服や雑誌などでやけに散らかっている。


「そ、そんなのって……はっ!」


 と、そこで彼女は悪い夢から覚めたようだった。目を開け、汗だく、真っ青な顔のまま、ベッドの上で上体を起こした。イチゴ柄のかわいらしいパジャマを着た女子高生のはずだが、形相は鬼のように剣悪である。


「もうっ! なんでまた昨日のこと、夢でも思い出さなきゃいけないのよ!」


 或香は自分の机の上に目をやった。そこに、昨日タイムカプセルの中から掘り出した人形が置かれていた。本来なら、これは二十万円以上の高値で売れるはずだった。それなのに、実際現物を確かめてみると、それは今ネットでプレミア価格で取引されているものとは違うもの、正確に言うと、当時人気だった人形のパチモンであった。当然価値はゼロ。憤怒のあまり具合も悪くなるというものだ。十年前にうっかりパチモンをつかまされた親のせいで、二十万円がパアなのだから。


「これも、あいつのせいなんだから!」


 直春の顔が浮かんだ。そうだ、あいつがタイムカプセルの場所を律儀に覚えていたのが悪い。覚えていなければ、思い出は思い出のまま、二十万円の夢は夢のまま、こんな敗北感と絶望を味わうこともなかったのに! 理不尽な苛立ちがこみ上げてくる。あいつってば、昔からそうだ。何も分かってないような顔をして、でも本当は何でも知っていて、物分かりがよくて、そのくせ気が利かない。本当に使えない男なんだから! 枕を壁に投げつけた。


 と、そのとき、


「ほう……荒れておるな」


 女の声が聞こえてきた。或香の家には今彼女一人しかいないはずだが。


「だ、だれ?」

「わらわは、かの天上より舞い降りし存在……」


 見ると、ベッドのすぐわきに一人の女が立っていた。金色の髪に青い瞳を持つ、若く美しい女である。その長い髪は三つ編みにしされ頭に巻かれている。赤と白のあでやかな色彩の薄絹の衣はゆったりと彼女の豊麗な肢体を包んでいる。


「な、なんなのよ、あんた! 人の家に勝手に入り込んで――」

「矮小なる人の子よ。わらわがそなたたちの理に従うべき者に見えるかえ?」


 謎の女はくすりと笑い、急に両手を横に大きく広げた。たちまち、彼女の体は光に包まれ、その背中から純白の翼が生えてきた……。


「あ、あんた……まさか天使?」

「ファラルーシェ。それがわらわの名」


 女は妖艶な笑みを浮かべた。


「わらわはそなたと契約しに参ったのじゃ」

「契約?」

「さよう。わらわと契約したあかつきには、そなたののぞみをかなえてやってもよいぞ?」


 と、謎の女、ファラルーシェは机の上のパチモンの人形を指差した。





 その日の放課後、直春は怜花に言われた通り、或香の見舞いに行くことにした。考えてみれば、具合が悪くて寝込んでいる或香の姿なんて、めったにおがめないものだ。その青い顔を見て、からかってやるのもおもしろそうだというものだ。


 邪悪様は、六、七時間目の授業中も、帰りのホームルームのときも、直春のそばにいた。箱からずっと出しっぱなしだったのである。他人には見えないものだし、箱に戻すのだけはやめてと泣いて頼まれたからだ。小さい子供に泣かれると弱い直春であった。


 しかし、邪悪様はいったん箱に戻されないと知るや、実に放縦に無邪気にふるまうのだった。授業中は直春の机の上に乗って、黒板に書かれていることやら筆記用具やら窓の外を飛ぶ鳥のことなど、ひっきりなしに尋ねてきた。無視すると髪の毛を引っ張られた。声を出さずに口の動きだけで「ハウス」と言って睨むと、おとなしくなったが、それも十分ほどで効果が切れた。結局、ひたすらスルーし続けるしかなかった。


 やがて、二人はともに下校した。電車に乗り、或香の家に向かった。彼女と直春の家は非常に近く、向かうにはいつも下校時に降りる駅と同じところでいいのであった。


 もう夕方五時過ぎで、電車は少し込んでいた。たまたま二人分空いた席を見つけて、直春達は並んで座った……のだが、邪悪様はすぐに後ろ向きになって、窓ガラスに顔をぴったりくっつけて、高速で流れていく外の景色を興味深げに見つめ出した。当然、座席には膝立ちである。なんという子供スタイル。


「あ、あの車、頭の上の光がぴかぴかしてる! ナオ、あれ何?」


 救急車とか見つけたらもうこれである。無垢な瞳でこっちを見て質問してくるのである。困る。答えるのは簡単だが、他人には見えない存在に話しかけるというのもなあ。


 と、そこで、


「よかった、ここ、あいてるわー」


 向こうからいきなり太ったおばさんがやってきて、邪悪様のいる席に尻を落とした。


「うわっ!」


 邪悪様はびっくりして、その巨大な尻をよけた。どすん。おばさんの尻は、さっきまで邪悪様が膝立ちになっていたところにぴったりおさまった。


「なんだよ、この人! そこ、ぼくの場所だぞ!」


 邪悪様はおばさんをぽかぽか叩いたが、おばさんはまるで彼の存在に気付いてないようだった。額の汗をハンカチでぬぐいながら「最近暑いわねー」と、横の直春におばさんくさいあいさつをするだけだった。


 直春はその様子に笑わずにはいられなかった。そして、少し、ほんのちょっぴり、自分以外の誰にも見えていない邪悪様が気の毒になってきた……。


「……ほら、俺の席座れよ」


 ややあって、彼は席から立ち上がった。


「いいの? ナオ、君ってばいいやつだな」


 と、邪悪様が喜んだそのとき、


「あら、最近の子は気が利くわね」


 突如、近くから響いてくる老婆の声。近づいてくる老婆の尻――。


 なんということでしょう。直春は見落としていた。太ったおばさんが接近してきた直後に、その老婆もまた、座席を求めて違う車両から流れてきていたということを。


 まあ、そういうわけで、直春の座席はものの見事に老婆に占拠されてしまったのであった……。


「ナオ、ぼくたち、座るところなくなっちゃったよ?」

「……若いやつは我慢しろってことさ」


 直春は小声でつぶやき、ため息を漏らした。

 



「そういえば、なんであのフナムシは俺を狙ってたんだ?」


 電車を降り、邪悪様と並んで或香の家へ向かう途中、直春はふと気になった。ポケットの中の箱をゆさぶり、ココに尋ねた。ちょうど人気のない閑静な住宅街にさしかかったところだった。ポケットめがけて独り言をつぶやいても、誰にも奇異に思われる心配はなさそうな場所だ。


「あいつら、箱がどうとか言ってたぞ」

「あー、それはですね。箱の主をブチ殺せば箱が手に入るシステムだからじゃないですかね」


 ポケットの中からやる気なさそうな声が聞こえてくる。だが、言ってることは実に険呑である。


「じゃあ、あいつら、俺を殺して、お前を手に入れる気だったのか?」

「ですねえ。アタシのために争わないで! なーんて、台詞、一生に一度は使ってみたいものですよね、ウフフ」


 ココの口調は相変わらずいらっとくる感じだ。


「お前なんか手に入れてどうなるんだよ。ただの箱だろ?」

「いえいえ。ただの箱じゃないことはマスターがいちばんご存じのはず。これはねえ、好きな対象を好きに封印して好きに使役できる、三つの好きがつまった夢のアイテムなんですよ。欲しい人はたくさんいるんだな、これが」

「そうなのか……」


 こんなうざいナビがついてるのになあ。


「じゃあ、もしかして、今後もあんなやつらに狙われる可能性があるってことか?」

「そうですねえ。めんどくさい話ですよね」


 はっはっは。ココは他人事のように笑う。


「笑い事じゃない! また化け物に襲われるかもしれないってことだろ!」


 さすがに怒鳴らずにはいられない。なんという呪いのアイテムであろうか。


「お前、そのへんなんとかしろよ。夢のアイテムだろ? 魔よけぐらいはできるだろ?」

「さあ? できるかもしれないし、できないかもしれない。すべてはデータが復元されてからの話になりますね」

「今は無理ってことかよ?」

「あー、はい。不完全な箱には、不完全なアタシしか宿ってない状態なんですよね、これが」


 なんという使えないやつだろう。話にならない!


「ただ、ここで、ココちゃんからのうれしいお知らせがあるんですよ。ゆうべからのデータ復元作業により、ああいう魔物の接近を事前に察知する機能が復活したのです」

「おおっ!」

「これで危険を発見で事前に回避できますよね。ココちゃんマジできる子。さっそく、試しにそのへんをソナーしてみて……あ」

「どうした?」

「マスター、正直すまんかった。先に謝っておきますね。手遅れです」

「え――」


 と、そのとき、急に空に暗雲立ち込め、周囲の空気も一気に冷え込んだようだった。


 この感じは……。直春には覚えがあった。そう、昨日、巨大なフナムシ集団が出てきたときと同じだ。じゃあ、まさか、今も――。


 と、彼が頭を巡らせたせつな、その予感は現実のものとなった。轟音と共に激しい稲妻が彼らのすぐそばに落ちたかと思うと、それは瞬く間に、獣の、一匹の馬の形を成した。体が淡い緑の光に包まれた、葦毛の、青い目の馬だ。その四つのひづめは電気を帯びているのか、閃光を放ちながらスパークしている。


「お初にお目にかかる。箱の主よ。我は貴殿の命と共に箱をもらいうけんとはせ参じた者なり」


 雷とともに現れた馬はなんとしゃべった! しかも慇懃である。しかも渋い声である。言ってることは物騒極まりないのだが。


「おお、あれは、雷蹄の天馬ですね。天界のそれなりの聖獣です」


 ついでにココもしゃべった。邪悪様は馬を興味深げに見ている様子だ。


「それなりってなんだよ?」

「昨日の虫よりはずっと強いって感じですかね?」

「え……俺、今、あの馬に殺すって宣言されたんだけど?」

「がんばれ、マスター。超がんばれ」


 と、ココが実になげやりにつぶやいたそのとき、


「では、いざ、尋常に参る!」


 雷蹄の天馬は直春たちめがけて突進してきた。すごい速さで。


「わあああっ!」


 とっさに直春は邪悪様の腕を掴んで横に跳んだ。馬の帯電した体は、彼らのすれすれのところを過ぎ去った。あ、危ないところだった。当たったらたぶん感電死する。そんな気配しかない相手である。


「ナオ、あいつ、ぼくたちをやっつけようとしてるのかな?」


 邪悪様はようやく切迫した事態に気付いたようだった……って、遅いよ! 相変わらず空気の読めないお子様である。


「そ、そうだ。あの馬は俺達を殺そうとしてる!」

「えー、殺されるの? ぼく、痛いのはいやだなあ」

「じゃあ、戦え! 昨日の虫みたいに、あいつを吹っ飛ばしてくれ!」


 がんばれ、邪悪様。超がんばれ! 直春は熱烈にエールを送りつつ、邪悪様を残して、じりじりと後ろに下がった。今は頼れるのはこいつしかいない。


「しょうがないな。またトクベツだよ?」


 邪悪様はにっこり笑い、昨日と同じように、右手を雷蹄の天馬に向けて振った。たちまち、そこから強い閃光がほとばしった。


 だが、それは雷蹄の天馬を少しも傷つけることはなかった。奴は閃光が当たる瞬間、体の周りに電気のバリアのようなものを作っていたのである。


「効いてないぞ、お前の攻撃!」

「あれ?」


 邪悪様は不思議そうに首をかしげた。


「ほう……貴殿は我と同じ天界の一族をしもべにしておられるのか。しかし、実にか弱き力。即刻、蹂躙してくれようぞっ!」


 雷蹄の天馬はいななき、一瞬上体をそらせて勢いをつけると、邪悪様めがけて突進してきた。


「うわああっ!」


 その小さな体は馬に轢かれて、宙を舞い、アスファルトの地面に叩きつけられた。


「じゃ、邪悪様!」

「貴殿もともに果てよ!」


 直春が邪悪様に駆け寄る余裕はなかった。雷蹄の天馬はただちに彼めがけて迫ってきたからだ。


「くっ――」


 この速さ……もうよけられない! 彼はとっさに目をつむり、右手を掲げた。


 と、そのとたん、ぱりんという音が耳朶を打った。


 なんだろう? おそるおそる目を開けてみると、直春の目の前には何重もの鎖が壁を作って、雷蹄の天馬の体を受け止めていた。


「これは……?」


 呆然とする直春。雷蹄の天馬の首には鎖が巻きつき、その動きを封じてすらいる。


「あー、これは守護の鎖ですね。箱が主を守るために自動で働く便利な機能です」


 と、ココの声が聞こえてきた。


「え? じゃあ、これであいつは手を出せないってことか?」

「一分ぐらいはねえ」


 みじかっ!


「なんでそんなに短いんだよ! お前もっと頑張れよ!」

「そうは言いますがねえ、この状況で仮に五分とか十分とか持ちこたえても何の意味があるんですかね?」

「そ、それは――」


 確かに、今はただ敵から身を守っているだけの状態だ。雷蹄の天馬は「ぐぬぬ」と歯ぎしりしながら鼻息を荒げ、鎖を振り払おうともがいている。その青い目はめっちゃ殺気に満ちている。びりびりとその体から電気が漏れ、鎖を伝う。


「お前、何か攻撃手段ないのかよ?」

「ないんじゃないですかね」


 きっぱり。なんと役に立たない箱だろうか! あと一分、いや数十秒で、目の前の殺気に満ちた獣に襲われてしまう!


 と、そのとき――、


「全を紡ぐ無よ、無を紡ぐ奔流よ、今ここに、我の願いを形にせよ――」


 近くで声が。見ると、邪悪様がゆっくりと立ち上がっているようだが、何か様子がおかしい……?  淡い紫色だったその瞳は、今は赤くきらめいている。


「我の血と痛みであがなわれしは地槍レイオファーン! かの黄金の夜を知るものなり!」


 邪悪様は強く鋭く叫んだ。同時に、その右腕を頭上に掲げながら――。


 瞬間、雷蹄の天馬の足元の地面から強い光がほとばしった。それは柱となり、いや、一つの光の槍となり、その体をまたたくまに貫いた。


「ぐあ……!」


 雷蹄の天馬は断末魔の叫びすらまともにあげることはできなかった。光はその体を瞬時に焦がし、消滅させた。灰の一握りも残さずほどに。


 光は天高く上り、やがて邪悪様の掲げた右手の上に収束した。一本の大きな槍の形を成して。


「我が蒼き終焉が一つの顕現と同時に滅んだか。ゴミ以下の雑魚だな……」


 邪悪様は槍を振り、ほくそ笑んだ。こいつは一体誰だ? 直春は戸惑わずにはいられなかった。さっきまでの、彼が知っているお子様とは明らかに違う……。その赤い瞳は限りなく冷たい光をたたえている。


 と、そのとき、


「う――」


 邪悪様はにわかに下に膝をついた。同時にその手から槍が落ちた。それは、邪悪様の手から離れると瞬時に消えた。


「お、おい、大丈夫か?」


 直春はただちにそちらに駆け寄った。邪悪様はひどく憔悴しているようで、呼吸は荒く、顔色は真っ青だ。


「ナオ? あれ? ぼく……?」


 直春がその小さな体をゆさぶると、邪悪様の表情は一瞬元に戻った。ただ、そのまま気絶してしまったようだった。


「すごいですねえ。このお方は蒼き終焉ブルーレジェンズの使い手なんですね」


 ココがまた口を開いた。


蒼き終焉ブルーレジェンズ? なんだそれは?」

「天界の至宝とされる宝具ですよ。ココちゃんの三界の普遍的知識を司るライブラリは比較的保存状態がいいので解説できるのです。ざっくり言うと、超強い武器ですね。今マスターが目にしたみたいに、この世に呼び出すだけで、並みの力の魔物や聖獣は消し飛ばされてしまうわけなのです」

「そんなのが使えるって……じゃあ、いったいこいつは何者なんだ?」

「さあ? それはココちゃんのさらなるデータ復旧が待たれる感じですかね」


 相変わらず肝心なところで役に立たない箱である。


 まあいいか。詳しいことは時間がたてば明らかになるみたいだし。直春はぐったりしている邪悪様を背中に担いだ。そして、そのまま或香の家に向かった。


「マスター、そのお方はいったん箱に戻した方が楽なんじゃないですかね?」

「別にいいだろう。こいつには助けられたし。これぐらい軽いもんだし」

「へえ。まあ、マスターがそうしたいならそれでいいんでしょうけどね。そのお方はマスター以外の人間には見えないんですよ。だからちょっと、かっこ悪いことになってると思うんですけどね」

「どういうことだ?」

「今のマスター、周りから見たら、不自然に前かがみになってるちょっとアレな人ですよ?」

「え」

「男子高校生が不自然に前かがみになってるって、理由は一つしか思いつきませんねえ……」

「う……うるさい!」


 直春は顔を少し赤らめ、そのまま早足で或香の家に向かった。

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