第1話

 その日は土曜だった。銀次を手始めに、最近めっきり会ってないもう一人の旧友、美命みことともなんとか連絡を取り、翌日、みんなで木島神社に向かうことになった。


 その日もよく晴れた、暑い日だった。木島神社は小高い丘の上にあり、周囲を雑木林で囲まれていた。直春たちは蝉の鳴きしきるその中、石畳の階段をのぼりながら神社の裏手に向かった。直春、或香、銀次、美命、それに、或香の妹、怜花れいかの五人だった。


「タイムカプセルとか、俺、すっかり忘れてたぜー」


 先頭を進んでいた銀次がふと、他の四人に振り返った。直春、或香と同い年の十六歳で、ともに同じ高校に通っている仲だ。中肉中背、やや色黒の肌、癖の強い天然パーマのもじゃもじゃ頭の少年だ。今はアロハシャツとハーフパンツという格好をしている。


「お前ら、何埋めたよ?」


 銀次はハーフパンツのポケットに両手を突っ込み、後ろ向きに階段をのぼりながら、質問してくる。


「言ったでしょ、あたしは人形」


 と、或香。


「わたくしはお父様の似顔絵だったかしら」


 と、にっこり笑って答えたのは美命だった。白いワンピースに身を包んだ、いかにも清楚なたたずまいの少女である。外国人の血が少し入っているそうで、その長いストレートの髪は亜麻色で、瞳も鳶色だ。顔もよく整っており、誰が見ても美少女と太鼓判を押さずにはいられない美貌だ。その首には十字架のネックレス、つまりロザリオが下げられている。家は代々クリスチャンで、今は直春達とは違う、カソリック系のお嬢様学校に通っているそうだ。


「直春君は、何を埋めたの?」


 と、美命は、直春に無邪気に話しかけた。直春は思わずどきっとしてしまった。美命とは、すごく久しぶりに会うのだ。前はこんなに美少女って感じじゃなかった。おっとりした感じの、普通の女の子だった。それが急にこんな……顔が熱くなり、思わずうつむいてしまう。


「お、俺は……俺は……あれ?」


 直春はそこで、タイムカプセルに何を入れたのか、まったく思い出せないことに気付いた。


「な、何だっけっかな……?」

「どうせ俺と同じ、サスライマンシールとかだろ?」


 銀次は懐かしい単語を口にする。そうそう、子供のころ流行ってたな、それ。チョコレートのお菓子のおまけのシールだっけ。一瞬昔の光景がまぶたによぎる。だが、それでも何を埋めたのかはまったく思い出せない。


「直春お兄ちゃん、忘れん坊なんだね」


 と、或香の後ろを歩いていた怜花は、少し前に出てきて、笑った。十三歳の、或香によく似た顔だちの可憐な少女だ。薄手のチュニックと七分丈のジーンズ、サンダルといった格好だ。いわゆる猫っ毛の細くて柔らかい髪は、肩のところまで伸びている。


「こいつは学校の勉強以外のことはすぐ忘れる優等生様なのよ、怜花」


 或香が言うと、ほかのみんなはくすくすと笑った。くそ、相変わらずこいつときたら……。いらっとせずにはいられない直春だった。


 しかし、いったい、自分は何を埋めたんだろう……。


 妙に気になった。子供の頃の話だ。どうせ他のみんなと同様に、他愛もない、くだらないものを埋めたに違いないのだが、なぜか引っ掛かるのだ。自分だけは何か特別なものを埋めたような?


 いや、もしそうなら、すぐ思い出せるはずだ。思い出せないってことは、結局どうでもいいものだったってことだ。


 どうせ、この後すぐに現物を拝むことになるしな。とりあえず、深く考えないことにした。そのまま、皆でタイムカプセルを埋めたポイントに向かった。空は雲ひとつなく青く晴れていて、真夏の太陽が、石畳の上に雑木林の木々の影をまだらに落としていた。


 そこは木島神社の裏の、じめっとした日陰だった。神社と言っても、名ばかりの無人の小さな社があるだけである。社の裏には大きな銀杏の樹があり、近くには白い岩があった。そのすぐそばに、十年前、直春たちはタイムカプセルを埋めたというわけだった。


 家から持ってきたスコップで掘ると、それはすぐに出てきた。透明のビニールに何重にも包まれた、丸いクッキーの缶だった。梱包は完ぺきだったようで、缶は綺麗だった。雨水が中に侵入してきたような形跡もなかった。直春達はおもむろにそれを引きあげると、なんとなく厳かな雰囲気でビニールをはぎとり、こころなしかしめやかに、ふたを開けた。封印されていた十年の月日が、今ここに開放される――。


「うお、マジであった、サスライマンシール! これ、もしかしてレアじゃね?」


 はしゃぐ銀次。きらめくシールを手にしてゴキゲンである。


「まあ……この似顔絵、お父様じゃなくてじいやだったわ」


 自分の記憶違いに少しへこむ美命。


「え? これ、ネットで見たのと違う……?」


 或香は缶の中から出てきた人形と、ケータイの画面を交互に睨んでいる。こちらも何か勘違いしていた様子である。


 そして、直春は……。


「これが、俺が埋めたやつなのか?」


 最後に残ったものを見て首をかしげていた。それは手のひらにすっぽりと収まりそうな小さな箱で、鈍い銀色の金属でできているようだった。表面には鎖のレリーフが刻まれている。ふたと、ふたを開けるための鍵穴のようなものも付いている。


 いったいなんなんだろう。まったく覚えがなかった。しかし、どう考えても、残った最後の一個のこれは直春のものである。中に何か入っているのだろうか。直春はそれを手に取ってみた。


 と、そのとたん、


 シャリンッ……。


 小箱の表面の鎖のレリーフが突然動きだし、彼の手首に絡みついた。


「うわっ」


 思わず後ろにのけぞり、尻もちをついてしまう。手首に絡みついた鎖のせいで小箱も宙を舞い、地面に落ちる。かたん。その衝撃でふたがわずかにずれる。


 そして――にわかに、何かが振動するような音がそこから大きく響いてきた。


「な――」


 音は一瞬でなりやんだが、直春はさすがに面喰らってしまう。急に絡みついてきた鎖といい、謎の音といい、この箱は何だ。人を驚かすためのビックリ箱か?


「ナオ、どうかしたの?」


 と、そこで或香が不思議そうに尋ねてきた。


「今、これから変な音が響いてきて――」


 直春は小箱を取って掲げ、彼女に言う。


 だが、


「音って何よ? それに『これ』ってのも何? あんた何か持ってるの、そこに?」


 或香は何も見えないというふうに、彼の掲げた手のほうに顔を近づけてきた。そして、「あんた、何も持ってないわよねえ?」と顔を横に振った。


 そんなバカな。音は確かに聞こえたし、それに、確かに手のひらの上には小箱があるというのに。


 直春は試しに、他の三人にも小箱を見せてみた。が、誰も、そこに何があるのか見えてないようだった。そして、さっきの音も聞こえていなかった様子だった。


 俺にしかこれは見えてないのか……。さすがに信じられない気持ちになる。いったいなんだ、これは。急に絡みついてきた鎖といい、自分にしか聞こえなかった謎の音といい、どう考えても普通じゃない……。


 と、彼がまじまじと手のひらの箱をにらんだ時だった。


「……はやく、ふたを開けろ」


 箱の中から低くしゃがれた声が。


「うわっ!」


 いきなり言葉が!


「直春お兄ちゃん、何してるの?」


 怜花が不思議そうな顔をして彼を見る……が、それに何か答える余裕は彼にはなかった。だって、いきなり知らない人に話しかけられたんだもの。しかも謎の箱の中の人らしい。そりゃもう、びっくりするわな、もー。


「お、お前、一体何なんだよ!」


 とりあえず箱に話しかけてみた。


「余か? フフ……余は偉大にして邪悪なる存在」

「じゃ、邪悪か……」


 さすがにリアクションに困る答えである。なんか抽象的だし。


「身分とか職業とか、できたらもっと具体的な……」

「いいから、余をはやくここから出せ」


 謎の箱の中の住人、やけに上から口調である。こっちの質問の言葉をさえぎられてしまった。思わずいらっと来てしまう。


「お前、さっきからなにぶつぶつ独り言いってるんだよ?」


 と、銀次の声が。気がつくと他のみんなが一斉に怪訝そうな顔でこっちを見ている。


 うわ、もしかして、今の俺、見えない何かと語りあうかわいそうな人なのか?


「な、なんでもない!」


 直春はそう言うと、小箱をひょいと、岩の向こうに放った。こんな意味不明な代物、とっとと捨てて忘れてしまえ。中の人が邪悪って言うならなおのことだ。


 だが、箱は手に絡みついた鎖のせいで、すぐ近くに落ちただけだった――というか、手から離せない状態? 鎖によって箱と完全につながれてる状態? まあ、そんな感じあった。


「余を捨てるとは、けしからんやつだ」


 うわ、完全に呪いのアイテム状態だ! なにこれ! 意味わかんない! 反対の手で鎖を取ろうとするが、全然取れない。


「ふざけるな、早く俺から離れろ!」


 鎖を握り、投げ縄の名人のように頭上で箱を振り回した。


「わあああっ!」


 箱の中から、目を回してるような悲鳴が聞こえてきた。


 と、そのときだった。急にあたりが暗くなった。そして、一帯に響いていた蝉の鳴き声がぴたりとやんだ。


「なんだ?」


 空を見上げると、そこにはよどんだ灰色がいっぱいに広がっていた。なんだか不穏極まりない雰囲気である……。


「雨でも降るのかしら?」


 美命たちも、突然の変化に戸惑いながら周囲を見回している。空気も重く、冷えてきた。いったいなんなんだ。直春も動揺せずにはいられない。


「はやく、余をここから出せ」


 箱がまたしゃべる。


「これ、お前のせいなのか?」

「いいから、早く箱のふたを開けろ。開けろったら開けろ」


 と、その瞬間だった。にわかに雑木林の中から何かが躍り出てきた。


 それは巨大で真っ黒なフナムシの群れのようだった。


「な、なんなのよ、これ?」


 と、或香は愕然としている。


「お姉ちゃんこわい……」


 或香の腰に怜花がしがみつく。


「さ、最近の虫は発育がいいんだな」


 銀次は真っ青な顔だ。


「神よ! 私たちをお助けください」


 美命はロザリオを握りしめている。


 いったいまた、なんなんだ……。直春も戦慄せずにはいられなかった。


 と、そこで、フナムシ達はその脚の気門から、いっせいに謎のガスを噴出したようだった。たちまちあたりに、それっぽい、毒々しい色の空気が充満した。


「う……」


 或香、怜花、銀次、美命は、その毒にやられたらしく、すぐにその場に倒れてしまった。しかし直春はそうでもなかった。なんだかこのへんにおうなあ、誰がおならしたの?って感じで元気いっぱいであった。


「ギギギギギ……」


 フナムシ達はそんな直春に何かを感じ取ったようだった。いっせいに、そのたくさんある脚を動かして、彼のほうに近づいてきた! ぞわぞわ、ぞわぞわ……。


「く、くるなああっ!」


 一目散に逃げる直春。雑木林を全力疾走だ。後ろから木をバリバリ倒しながら、巨大な節足動物達が猛スピードで迫ってくる。


「ギギギギギ……ハコノアルジ……クウ……」

「ハコ……ワレラノモノ……」


 なんかフナムシ語が聞こえてくる。


「お前、もしかしてピンチなのか?」


 箱がまたしゃべった。


「余をここから出せば、こんな虫なんか、あっという間に消し飛ばしてやるぞ?」

「本当か?」

「もちろんだ。はやくこの箱のふたを開けよ」

「お……おう!」


 もはや藁にもすがる気持ちだった。手にまとわりついた謎の箱のふたを開けるだけで、巨大フナムシの群れから救われるとあっちゃ、もうやるしかない!


 特に鍵はかかっていなかったようで、箱のふたは容易に開いた。


 そして、瞬間、強い光と共に目の前に現れたのは――子供? そう、十歳かそこらの、小さな人影だった。


「やった! 出られた! ぼく、出られちゃった!」


 立ち止まって伸びをしているその人物は、ゆったりした袖の黒いコートと、数々の摩訶不思議な装飾品を身に着けていた。コートの下はキュロットパンツだろうか。裾の間から素足がのぞいている。髪は長く、銀色で、それを後ろで三つ編みにして一つにまとめている。瞳はアメジストのような淡い紫色、顔だちはびっくりするほど端正だ。さしずめ、白皙の美少年といった風貌である。


 あれ? こいつが箱の中の人なのか?


 なんかさっき聞いた声とイメージ違うような……戸惑う直春だったが、しかし、何か質問を投げかける時間はなかった。巨大なフナムシ達が迫ってきているのだ。


「と、とにかく、早くあれをなんとかしてくれ!」

「えー、なんでぼくが?」


 少年はものすごくめんどくさそうな声と顔である。


「なんでって、おま……箱から出してやったらあれを蹴散らすって話だろうが!」

「ふうん。まあいいよ。トクベツだよ?」


 少年は巨大なフナムシ達の方に向けて、右手を水平に振った。また、めんどくさそうな表情で。


 たちまち、すさまじい轟音と共に強い光がそこからほとばしり、巨大なフナムシ達を襲った。そして、彼らは一瞬のうちに消滅し、周りの木々も跡形もなく吹っ飛んでしまった……。


「へへ、見た? ぼくってば、やるでしょ?」


 少年は得意顔で直春に振り返る……が、直春は呆然とするばかりであった。何、今の光景! いきなり雑木林がフナムシごと整地されてるんだけど、この子、いったい何したの?


「お、お前、いったい何者なんだよ?」

「ぼく? ぼくはねえ……この世でもっとも偉大で邪悪なヤツなんだよ」


 少年は腰に手を当て、胸をそらす。


「いや、それはさっきも聞いたから! どっから来たとか、なんで箱の中に入ってたとかそういうことをだな――」

「そんなの、ぼく知るもんか」

「え?」

「ぼくは邪悪なんだ。つまりね、邪悪様なんだよ。それがぼくなんだよ?」

「じゃ、邪悪様? もしかして、それがお前の名前?」

「うん、それを今からぼくの名前にしよう。次からそう呼ぶんだよ。ぼくのことは邪悪様って」


 少年は、いや、邪悪様は楽しそうに笑った。


 こいつは一体なんなんだ? 直春にはまるでなんのことやらわからない。会話の流れで、こいつの名前がなぜか邪悪様に決まったことだけはわかるのだが。


 と、そのときだった。


「すみませんね。その人、ちょっとめんどくさいことになってるみたいで」


 女の声が聞こえてきた。見ると、地面に転がっていた箱の前に、半透明の、小さな妖精のようなものが立っていた。


「お、お前は……?」

「アタシですか? この箱のナビですよ。わかりやすく言うと、しゃべる取扱説明書みたいなもんですかねえ。マスター」

「マスター?」

「箱の持ち主ってアナタでしょ? だからまあ、便宜上マスターって呼ぶわけですよ。正直、こっぱずかしい呼称だと思うんですけどね。どこの中二設定かよっていう」


 自称しゃべる取扱説明書さんは、けだるそうにそう言うと、地面に涅槃のポーズで寝転がり、尻をかいた。うわ、何だこいつ。めっちゃやる気ない!


 でも、とりあえず何か聞き出せそうな雰囲気だ……。


「そ、そうか。お前、取扱説明書なのか。じゃあ、あいつは一体何なんだ。お前、知ってるだろ。話せよ」


 邪悪様を指差した。彼は今、地面にしゃがみ込み、ありの行列をいじめていた。


「見たとおりですよ。邪悪な人ですよねー」

「なにそれ! 説明になってないぞ」

「すみませんねー。いろいろデータが遺失してるんですよ。アタシの責任じゃない。何年も放置された結果ってやつですね」


 取扱説明書はそこで、ほわあ、とあくびをかました。


「マスターは電卓って使ったことありますか? ちっちゃいやつ。すごーくお安く買えるやつ」

「? ああ、あるけど……」

「それと同じ原理だって考えて問題ないんですよ。あれ、光で動くでしょ? この箱も、表面に光が当たることで、いろんな機能が正常に働くようになってるんです。コスパは超絶いいですから、普通に使ってればまったく問題ないんですがね。普通に使ってればねえ。地面の下に埋めて何年も放置ってことがなければ、ねえ……」


 そこで、取扱説明書は、チラッ、チラッ、と直春に視線を送った。


「な、なんだそれ! 俺が地面の下に埋めたせいだって言いたいのかよ! だいたい俺はこんな箱知らないぞ!」

「あ、マスターも光不足で機能不全になってるんですか?」

「なってない!」


 うわあ。いらいらする! さっきから何この会話! なに一つ状況わからないし、取扱説明書とか自称しておきながら「データがありません」だし、態度もむかつくし。


「とにかく、お前の知ってること、わかる範囲でいいから、説明しろ!」

「そうですね。この箱は、あの方を封印するための天界のシロモノなんです。そして、あの方は、箱の主たるあなたのものなんです。好きに使えばいいと思うよ」

「つ、使うって……?」


 邪悪様を? 何に? 


「もいっかい封印することだってできますよ。そっちのほうがアタシも仕事が楽でいいんですがね――」

「封印? そんなの、絶対やだ!」


 と、邪悪様はいきなり向こうに駆けだした。逃げるように。


 だが、直春から五メートルほどはなれたところで、


「ふぎゃっ!」


 思いっきり前のめりに転んでしまった。


 いや、正確には転ばされた、と言った方がいいだろうか。彼の足には鎖が絡みついており、それが直春の右の手首とつながっていて、離れようとする彼をうむを言わさず引っ張ったのである。それでまあ、つんのめって、思いっきり顔から地面に倒れたのである。


「こんなの、あったっけ?」


 直春は右の手首からぴんと伸びた鎖を見つめる。さっきはこんなのなかった気がするが。


「それは盟約の縛鎖ですね。あの方がマスターから離れようとするとこの世に具現化して、その動きを掣肘するんです。逆に言うと、マスターから離れなければ存在を認識できないものなんですがね。離れようとしなければあ……」


 取扱説明書は、顔に土をつけて這いつくばってる邪悪様をチラチラ見て言う。


「う、うう……」


 邪悪様はよろよろと起き上がり、涙目になって膝を抱えた。その膝がしらには血がにじんでいるようだ。


「あ、この世で最も偉大で邪悪な存在が、転んでひざをすりむいて、今にも泣き出しそうな顔してますね、マスター」

「ほんとだ。この世で最も偉大で邪悪って言っておきながら、あいつ、あれぐらいで泣くみたいだな」


 二人はその様子をまじまじと見つめた――ら、


「こ、これぐらいで泣くわけないだろう!」


 邪悪様は顔を真っ赤にして、また仁王立ちした。その目にはまだ涙がたまってるようだが。


「おお、泣かなかったのか。偉いな」

「偉いっすねー」


 直春たちは拍手してあげた。小さい子供のそんなけなげな様子には胸をうたれずにはいられないものだ、うむ。


「う、うるさい! お前たち、ぼくをバカにするんじゃないぞ。ぼくはスゴイんだ。そこのお前、見ただろう。ぼくの偉大な力!」


 邪悪様は吹き飛んだ雑木林を指差し、直春に振り向く。


「まあ、すごいはすごいんだろうが、俺、お前の正体何も知らないからな。偉大って言われてもな……。お前、結局なんなんだよ。自己紹介しろよ」

「だ、だから、ぼくは邪悪様――」

「それニックネームだろ? 本名じゃないだろ? いいから、名前ぐらい名乗れ」


 直春は邪悪様の白く滑らかな額を指ではじいた。邪悪様はしかし、目を白黒させて口ごもっているばかりだった。


「たぶんねえ、その人も、データが遺失してるんですよ」


 と、取扱説明書が割りこんできた。


「データが遺失? それって記憶喪失みたいなもんか?」

「そうですねえ。ただ、アタシの場合と違って、数十年単位で封印されてたことが原因なんじゃないでしょうか。たぶん姿かたちも元のそれとは違って……まあ、とりあえず、マスターには一切責任なさそうですよね。よかったなあ、こいつう!」


 取扱説明書は意味不明に親指を立ててドヤ顔で笑った。


「つまりお前らそろって、正体不明ってことかよ」


 直春ははあ、とため息を漏らした。


「正体不明ってなんだよ! ぼくは邪悪だよ。邪悪様なんだよ!」


 邪悪様は腕をぶんぶんふり回した。


 と、そこで、


「……な、直春お兄ちゃん」


 整地された雑木林の向こうから、小さな人影が近づいてくるのが見えた。怜花だ。その足取りは力なく頼りなく、顔色は真っ青だ。


「怜花!」


 直春はただちにそちらに駆け寄り、その体を支えた。


「……直春お兄ちゃん、みんな、あっちで倒れて……直春お兄ちゃんは大丈夫?」

「あ、ああ……」

「そう、よかっ――」


 怜花はそこで力尽きたように目を閉じ、動かなくなってしまった。


「れ、怜花っ!」

「大丈夫ですよ。あの虫の毒は人を殺すほどのものじゃないですから。気絶しただけですね」

「そ、そうか……」


 取扱説明書の言葉に直春はほっと胸をなでおろした。


 だが、次の瞬間、


「まあ、マスターの友人がそんな目に会ったのも、全部そこの人のせいなんですがね」


 取扱説明書は、邪悪様を指差して言うではないか。


「なんだと! それはいったいどういう――」

「あー、はい。順を追って説明するとですね。マスターは最初、この箱を地面に落としたでしょ? そのとき、変な音が聞こえたでしょ? あれは、あの方の魔力が、ふたのすきまから箱の外に漏れた音なんです。びっくりして、中でおもらししちゃったんですねー。それで、近くの冥界の境界から低級の魔物を呼び寄せる結果になったわけなんです」

「近くの低級の魔物? それがあのフナムシか? つまり、あいつのせいなのか……」


 怜花が、そしてあっちで同じようにぐったりしてるみんながこうなったのは。直春の胸に、めらめらと邪悪様への怒りが湧き上がってきた。


「お前、よくもやってくれたな……」


 直春は怒りの形相で邪悪様をにらみつけた。


「そ、その……」


 それに圧倒され、邪悪様は蛇に睨まれたカエルのような顔をしている。


「マスター、あのお方、やっぱり超邪悪ですよね。封印したほうがいいですよね」


 取扱説明書がまた割りこんできた。


「封印のやり方は簡単ですよ。マスターが今アタシが言うことを、復唱すればいいだけなんです――」


 ごにょごにょ。封印の言葉を教えてもらった。怒りに震える直春はもうそれを使うしかなかった!


 彼は声高に叫ぶ――。


「我が名は間宮直春! 汝の主なり! 盟約に従い、汝は今ここに、我がことのはの糸で動く傀儡となれ――邪悪様、ハウスだ!」


 箱に親指を向け、たからかに言った。ハウス! なんと恐ろしい封印の言葉であろうかー。


「うわああっ!」


 その効果は即座に発動した。たちまち箱から何本もの鎖が出てきて、邪悪様の体に恐ろしい早さで絡みつき、それを箱の中に収納してしまった。ぱたん。やがてふたは閉じた。


「……いったいなんだったんだ、あいつは」

「まあ、こまけえことは今はいいじゃないですか? こっちは全力でデータ復元するんで、マスターも全力で状況を収拾したほうがいいんじゃないですかね。ほれ、そこの娘さんとか」


 取扱説明書は近くで横たわっている怜花を指差すと、箱の鍵穴のところに吸い込まれていくように消えた。箱と手首をつなぐ鎖もその瞬間すっと消えた。


 まあ、たしかに、今は怜花たちをなんとかしないとな。


 謎の箱をポケットにしまいこみ。怜花を抱えると、他のみんなが倒れているところに向かった。

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