第19話 信頼に応えるための思考回路



 眩しくて眼をこする。

 太陽の光が寝床に差し込んできたらしい。朝6時か7時くらい? 


 環境が変わったにしては熟睡できた。波音が歌みたいに……ってか誰かが夜中歌っていたような。波のリズムとメロディーに沿った子守歌って感じの。


「トウコちゃん、昨日歌ってなかった? ……あれ」


 すぐ隣で寝ていたはずなのに、いない。

 服だけがそこに横たわり、そのままになっている。

 まるで、泡になって消えてしまった人魚姫のように。


 名前を叫ぼうとして止めた。


 もし、この小さな島で応答が返ってこなかったら?

 汗が冷えるような感覚で少し落ち着きを取り戻す。

 なんてことない、たぶん手洗いにそこの茂み辺りに……そう、周りは砂浜だった。足の形が残る。


 さらさらした砂から追跡するのは難しく思えたが、まっすぐ海に向かって伸びた足跡が、波打ち際に近くなるにつれてはっきりと辿れた。サンダルが脱ぎ捨てて転がっている。

 どこにも姿が見えない。隠れている?


「トウコちゃん!」 


 少し大きな声を出す。

 海に水浴びか水汲みの用があって、波にさらわれた?

 そこらへんにいるなら聞こえるはずだけど、返事はない。自分が思ってる以上に彼女はこの状況に追い詰められていた……冗談だろ?

 

 悪い想像がつぎつぎに頭の中を駆け巡る。白いサンダルをまたぎ、波に消えてしまった小さな足跡の名残を踏みながら、もう一度叫ぼうとした。

 その瞬間、沖の海から水しぶきが上がった。


「ハル! お さ か な 獲ったどー!」


 トウコちゃんの、どこまでも楽天的な声。

 両手を高らかにあげた手にはモリが握られていた。その先には真っ赤な魚が串刺しにされ、口をパクパク動かしている。


 銛の先端を海上に出しながら、こっちに向かう。後ろから来る波を器用に潜って躱して泳ぐ姿は、とても片手が塞がっているとは信じ難い。……そりゃあ、溺れてる俺を助けながらこの島まで泳ぎ切るわけだ。ここまでの水泳技能をどこで獲得したんだろうな、とぼんやり考える。

 

「すごいなトウコちゃん。そんな大物を」 

「あっちの岩場で魚を突こうとしたんだけど、赤い魚が狙いやすかったから、潮の流れに乗って……仕留めました」


 足の届く所まで来て、髪を軽く整える。

 嬉しそうに獲物を高々と見せつけたトウコちゃんは……裸だった。


「ちょ、服は!? 下着どこ!」

「乾いたので草のベッドのところに畳んでありますよ? あ、見えないように葉っぱで覆い隠してあります。安心して――」

「隠してないから! 大切なとこ、どっこも隠してないからね!?」

 

 なんで自分の裸に抵抗ないの?

 巳海家の方々、礼儀作法の前に教えることあったでしょおおお!?

 

「朝から元気ですねハル」

「元気なわけあるか! いいから服着ろぉ!」

 

 小さな島の端まで届きそうな声で、俺は叫んだ。

 




 *  *





 全裸のトウコちゃんは放っておいて、原っぱの茂みを行く。

 飲み水の確保のため、朝露を集める方法を試している。乾かしたタオルを手に持ち、伸びた草をかき分けて歩く。朝の結露した水分を集めれば二人分のノドくらいは潤うんじゃないか?


 頼んでもいないのに魚を獲ってきた裸娘はだかむすめは特に、飲み水が必要だろう。軽く往復してからタオルを絞ってみると、わずかに水気が垂れる。


「んっ……ダメだ塩辛い。うがいくらいしかできないか?」


 乾かしたが、もともと海水で絞ったタオルだ。とても飲めたモンじゃない。もう一度辺りを歩いて集めてみる。二回目は充分な量とは言えないが、多少塩分が薄まった。これ以上試みても、今度は自分の体力消耗の方が大きくて効率的じゃない。せいぜい顔や身体を拭くくらいしかできないな。


 ……トウコちゃん海で泳いでたから、肌がべたついて気持ち悪いとか思ってるかもしれない。ある意味ちょうど良かったのか? 


 寝床の方へ戻って来ると、トウコちゃんが出迎えてくれた。服は着てる。長丈のインナーだけだけど。


「口開けて?」

「え? あい」


 なんの疑いなく口を大きく開けて見せる。

 ……ツバメの雛か君は。その無条件の信頼はどこから来てんだろ。

 タオルを絞り、水を滴らせる。トウコちゃんは何度か喉を鳴らしてのみ込んでいく。


「ほんのりしょっぱいけど、おいしいです」

「なら良かった。このタオルで身体拭きなよ。海にだいぶ浸かってたし、よく拭いておかないと」

「……はい。この水の数滴とタオルのご恩は、獲ったお魚で返します。それでいいですか?」

「もちろんいいよ。さっきの赤い魚はどこ?」

「銛の物干し竿の近く、あの平たい石の上。じゃあトウコ身体拭くから、ハルは先に食べてて?」


 躊躇なく脱ぎにかかるトウコちゃんをほぼ無視して、ぱっと視線を海の方へ向けて歩き出す。すぐに平たい石は分かった。濡れた石の上に笹系の葉っぱが重ねてあり、その上に赤い魚の刺身がきれいに盛られていた。


 周りにはウロコが散らばっていて、大きなペットボトルが転がっている。この平べったい石をまな板代わりにして、ウロコを外し、三枚に卸してる。一度ペットボトルに汲んだ海水で石を洗い流した後で、身を切って刺身にしたんだろう。背骨や頭はないから海に捨てたか。


 俺は石に乗っかっただけの魚をイメージしていた。

 どうやって食べたものか、火は起こせないし、皮を避けて骨の周りを丸かじり、それで二人半分ずつ分け合うか……とかって考えてたんだ。

 

 


 物干しざお替わりになっている手銛を見る。

 先端は魚を突くための形状で、とても魚を切れそうにない。仮に背骨にそって不格好ながら三枚に卸せたとして、刺し身にするには最低限の押して引ける刃渡りは必要になる。果物ナイフ程度の刃渡りが。


 なら、を彼女は今まで隠していたってことになる。

 正直ナイフがあれば、いろんな道具の加工や、草木を切ったり、魚を切ったり様々な用途で役に立つ。それを俺に言わないはずはない。何か含みでもない限り。

  

「食べないんですか?」

「ああ、ちょっと気になることがあって……」


 振り返ると、トウコちゃんが不思議そうな顔をして立っていた。

 白いワンピースを着て、ポシェットを肩に掛けて。帽子だけ岩場に置いて来ているようだ。


「気になること?」

「いやその、刺し身に出来るの、すごいなって」

「ああそれは別に。ママに捌き方教えてもらいましたから」

「そっか。どうやって? 道具は?」

「これです」


 彼女はポシェットの裏側に手をやり、慣れた動作で引き抜いた。

 年頃の女の子が持つには似合わない鉄色の刃物。ナイフと言うよりも石から切り出してなめらかに削ったようで、持ち手すらない。刃そのもの。どちらかというと、動物の……


「ママは《牙》と呼んでいました。これには巳海家を助けてくれる想いが詰まっているって。いつもポシェットの裏に隠して、トウコとたまに外に出る時も、持ち歩いてました」

「家宝とか、御守りみたいなもの?」

「分かんない。ママはこれを、悲しそうな顔で見てたから」


 牙。どこかでその言葉を聞いたような……思いだせないな。

 護身用? 切れ味は充分過ぎるほどありそうだが。黒曜のガラス質……いや金属? うっすら厚みがあり、クジラの形にも似てる。鋭い刃と先端の形だけ見ると、牙って一文字がぴったりだ。

 トウコちゃんは自分がその《牙》を食い入るように見つめているのに気付くと、刃の部分をつまみ、こちらに渡して来た。


 大切なものだから、俺を警戒してるから、刃物の存在を黙っていたんじゃないのか? 彼女は今、自分が襲い掛かって来るかも、なんて微塵も思っていない。相変わらず信頼の眼差しを向けている。


「不老ヶ谷の人には誰にも教えず、おじいちゃんにも絶対見せたりするなってママは言ってました」

「なんで俺に渡す? 教えたり見せたりは駄目なんだろ?」

「ハルは特別。見せてもいい人の線の中に入っていますから」

「……何か条件があったりするの?」

「ないしょです。でも、どうしても聞きたいですか?」

「いや、いい。トウコちゃんを信じるよ」


 黒い刃物を彼女に返す。

 疑って悪かった、口から出かかったが、言えなかった。トウコちゃんなりの線引きがある。母親と決めたのかもしれない……自分が不老ヶ谷じゃなく他所よそから来たから。助けてくれたから。その辺かな。


 結局のところ、雑に役に立つものある? 

 なんて聞いた自分が悪い。何を持っているか細かく聞けば、多分今みたいに見せてくれたんだと思う。




 ……はあ。必要ない思考を回すだけでも腹は減る。ノドは乾いていくのだ。この新鮮なお刺身。豪勢な朝ごはんを頂いてから考えよう。




 疑うとかじゃなくて、もっと前向きな……

 二人とも日常に戻るためのことを。



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