第5話 刻石流水
「帰ったよ! おじいちゃん!」
「おうっ!」
近くで元気な声を出されたので軽く驚いたが、それ以上の大声が返ってきた。返事をした人……この子の祖父か。かなり遠くにいたらしく、玄関先まで来るのに少しかかった。
「どこ行ってた……おや、お客様か?」
「うん。刻む人」
「そうかそうか。ならお上がりなさい。まず麦茶の一杯を出そう。話はそれからだな」
女の子の祖父は……こんな大きな屋敷に住んでるのに、偉そうにはしてなかった。厳しい人っぽいけど、子どもとかには優しい。そんな雰囲気だ。仕事とかじゃ別人ってタイプな感じ。
都会と違って、いい年の取り方をしてる人が多い気がする。そういう爺婆ばかり知っているからかな。なんか琴吹のじいちゃんにも似てる。
だけど、ちょっと引っかかる言葉があった。
刻む人ってなんだ?
話の前後から俺のことなのは分かる。
彫刻。削る。切り刻む……ロクなイメージがない。不老ヶ谷だけの方言? 堂々と本人の前で言ってるし、友好的な態度に裏はない、と思うけど。
あれこれ考えているうちに、廊下を渡って居間に通されていた。
目の前のテーブルには氷入りの麦茶が置かれている。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
「うん。……おお、挨拶をせねばならんかったな。
麦茶を噴き出しそうになるのをギリギリでこらえる。
巳海。巳海だって!?
あの客を甞めた商売してたホエールウオッチングの責任者。ここの家に繋がりがあったのか。なるほど態度が偉そうだったワケだ。
門の横に表札があったのに、なんで見落とすかな!? たぶんデカすぎたからだな! なにせ看板くらいなサイズだったしね!
「いやあの、ええと……お気になさらず」
「そうかい? しっかし事情がのみ込めん――これ、挨拶せい」
「……」
祖父の隣にいた女の子が改めて姿勢を正し、座礼の形をとった。門で迎えられた時よりも、ずっと慣れた所作のように思える。
「挨拶が遅れました。巳海トウコと言います。この度は危ないところを助けてもらうばかりか、家まで送り届けてくださり……」
「任せる。思うまま言いなさい」
「……重ねて
「ちょ、待って。そんな丁寧に頭さげなくていいから! ただのお節介に大げさ過ぎですよ」
慌てて身体を起こさせようとするものの、二人とも中々直ろうとしなかった。大丈夫です、分かりましたからと言葉を続けて、ようやく顔を上げてくれた。
「さっそく大恩に報いねば。どこから来なすった?」
「あ、自分は
「ほう
「ええ、まあ。そんなところです」
「おい何しとる。恩人にはまず馳走。皿を出してこんか」
「うん」
女の子……トウコと言っていた子が、居間から長廊下に出る。
そして障子のすき間からぴょこっと顔を出した。
「おじいちゃん。誰か呼んだほうがいい?」
「料理を手伝ってもらえ……もてなしに余人は交えず。下がらせたままでよい」
「わかった!」
やっぱり世話する人がいるんだな。門とか庭園とかで見かけないのが不思議なくらいだった。でなきゃこの立派な屋敷も庭も維持できそうにないし。
あの子が席を外してしばらくすると、巳海さんが申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまんの鯨井くん。あれは形式ばった作法以外、ろくに礼儀を知らん。道中でも失礼があった事と思う。気を悪くせんでくれ」
「そんなことないですよ。さっきの挨拶もすごく立派でした。俺の方こそ、ほんと大したことしてないのに……」
「ははは。大したことかどうかは、受け取る側がどう刻むかの問題でね。詳しい話は聞いていないが、少なくともウチの孫はキミに恩義を感じておるようだよ? 一緒に住んでる家族だから分かる。それに、そうだな……あの壁に掛かっている飾りを見てくれんか」
じいちゃんばりに訛りのひどい言葉をなんとか聞き取り、指差した壁を見る。価値のありそうな掛け軸には、達筆で書かれた四文字があった。
「刻……流、水……?」
「
「あ! だからさっきあの子も巳海さんも……」
「ええ。刻む人、と言うのは恩を返すべき人のことです。この家が富を得たのも土地を持っていただけではなく、携わってきた人への感謝を心に刻み、手厚く優遇したからこそ。そう我が先人たちは伝え、代々その想いを守って来たからこそ繁栄が伴ったのでしょう」
しみじみとした語りには昔を懐かしむ想いが感じられた。
この故郷と暮らしている人への尊敬の念がある。……琴吹の地主たちも確かに持っていたはずなのに、どうしてここと違い寂れる一方なんだ。
「本来であれば巳海家が総出でもてなすものですが……今は娘の遺した孫しかおりませぬ。この広間も昔の賑やかさとは程遠く、心苦しい限り」
「え……魚市場の方にいましたよね? 巳海さんの関係者」
「
そう言ってろくでもない奴、とばっさり切り捨てた。
この人には娘と息子がいたのかな? 親戚も多そうな印象だし、この広い屋敷に、たった二人しか家族が残ってないなんて、何があったんだろう?
その件には踏み込んで触れられずに、しばらく巳海家の事業などを聞いていると、失礼します、と障子の外から声が掛かった。
巳海トウコが慎重に刺身皿を運んでくる。大きなテーブルに見劣りしない、豪華な皿に鯛や赤身、貝類、海老に飾りの笹の葉が見事に造られている。……盛り込みの年季、この子じゃ出来ないな。時間的にも腕の立つ料理人が複数在中していなきゃ完成しない一品に思える。
「お待たせいたしまし――あ、しょうゆ忘れた!」
さっきの立ち振る舞いを忘れたみたいに廊下に飛び出す。巳海さんはその不作法を咎めることなく、障子の先をぼんやりと眺めた。
「……」
「巳海さん?」
「あれの母。洋文の姉が生きている時はよかった。不老ヶ谷を愛し、誰からも愛された。その器量と愛嬌はふしぎと運を呼び込み、巳海家……いや、不老ヶ谷を中心に繁栄をもらたす象徴のようだった」
「……大切な人だったんですね」
「ああ。だが去年に病を患って死んだ。あれにいくら家訓や作法を叩き込んでも……人として一番大切なことは学び損ねてしまった。俺では教えてやれん」
あの子のお母さんが伝えるべきだった大切なこと……
たぶん精神的な部分に関わることだ。中学時代の子や妹と比べて何となく幼いというか、心の機微に疎い気がする。
それがどんなものか聞こうとしたところで、本人が醤油や薬味を持ってきた。二人とも自分をもてなすような雰囲気に切り替わっている。……話はまた今度にして、頂くようにしよう。
今日のお昼は想像をはるかに超えて豪勢なものになった。
……ここまで歓迎されるようなことは、絶対してないと思うけど。
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