第53話 白銀の月の下で

 レティリエは暗闇の中にいた。体が軽くてどこにでも飛んでいけそうだ。

 ふと前を見ると、温かい光が見えた。まるで誘われているかのように、その光に向かって歩きだす。


(今までよく頑張ったわ、レティリエ)


 誰かの声が耳にこだまする。誰? と問うが返事はない。それでも、先程の声は涙が出るほど優しくて温かかった。


(もう楽になっていいのよ。ここは痛みも苦しみもなく、誰もが幸せになれる場所なのだから)


 優しい声がレティリエを誘う。ああ、もう辛い思いをしなくていいのね。苦しいことも、辛いことも、すべて感じなくて良いのだ。万感の思いがレティリエを満たす。

 そのとき、誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。何度も何度も自分の名前を呼び続けている。とても悲しい声だった。


「グレイル……?」


 光の場所までもうあと少しというところでレティリエは歩みをとめる。グレイルに呼ばれているならば……自分は戻らなければならない。レティリエはくるりと踵を返すと、闇の中へ戻っていった。


(いいの? そっちは冷たくて暗い場所よ。戻ればあなたはまた辛い思いをすることになるわ)


 声がレティリエを引き留める。だが、レティリエの答えはもう決まっていた。


「大丈夫、グレイルがいるもの」


 そう言ってにっこりと笑う。グレイルに会いたい、今はただその想いだけが胸を満たしていた。


(彼なら自分を幸せにしてくれると言うの?)


「ううん、そういうことじゃないわ。グレイルと一緒にいるとね、顔が熱くなって胸がドキドキして心がふわっと温かくなるの。楽しくて、嬉しくて、私はそれだけで十分幸せを感じられるのよ」


 胸に手をあててグレイルの姿を思い浮かべる。優しく笑う彼の姿が浮かんだ瞬間、レティリエの胸にぽうと光が灯った。


「誰かを好きだと思う気持ちは、その人の心を幸せにするのね」


 そう呟くと、レティリエは闇の中へ走っていった。



※※※


 お月様が二つあるわ。とぼんやりと思った。

 おぼろげな視界がハッキリしてくるにつれて、それが金色の瞳であることに気付いた。グレイルが泣いている。レティリエは手を伸ばすと、指先でそっと涙を拭ってやった。


「レティ……レティリエ…!! 生きててくれたのか!」


 グレイルが目を見開きながら叫ぶ。彼の金色の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれた。


「うん、心配かけてごめんね……」


 グレイルの目を見ながら微笑んだ瞬間、レティリエはグレイルの腕の中にいた。

 がっしりとした腕で力強く抱き締められて、レティリエの胸がドキドキと鼓動をうちはじめる。嬉しさと恥ずかしさがないまぜになって思わず身をよじると、グレイルがぐっと腕に力を込めた。彼の体温がレティリエの冷たい体を包み込み、熱を取り戻していくのを感じた。

 グレイルの背中に腕をまわしてぎゅっと抱き締め返す。大きな彼の背中が微かに震えていた。力を抜いて全身を彼に預けると、グレイルの力強い心臓の音が聞こえてきた。

 とても温かかった。


 しばらくの間無言で抱き合っていたが、やがてグレイルが腕の力を緩めた。身を起こすと、彼の金色の目と視線があい、抱き締められたまま見つめ合う。


「……レティ、生きててくれて良かった」

「うん、私ももう一度あなたに会えて嬉しい……」


 グレイルが人間達に押さえつけられ、袋叩きにあっているのを見て悲鳴をあげた所からレティリエは記憶が無かった。まだ薬が完全に抜けきっていないのか、ガンガンと頭に鋭い痛みを覚える。身動ぎした弾みに思わずよろめき、グレイルの胸に手をついた。  

 厚い胸板の下から伝わってくる力強い生命の鼓動が、彼が生きてここにいることを教えてくれていた。


「レティ、大丈夫か? まだ辛いか?」


 グレイルが心配そうに見つめてくる。大丈夫よ、と言おうとして思い直し、グレイルの背中に手を回すと甘えるように胸板に顔を埋めた。


「……まだ少し頭が痛いの……だからもうちょっとここにいさせて……?」


 ああ、とグレイルが返事をしてレティリエの肩を抱き、髪に顔を埋めた。温かくて優しいグレイルの体温がとても心地好い。広い肩、太い腕、厚い胸板、男らしく逞しい体つきを全身で感じてレティリエの心臓の音も早くなっていく。耳から聞こえる心音と自分の心音が重なりあい、ひとつになるのがわかった。

 我ながら大胆なことをしていると思うが、それでも今は何も考えずに、自分の気持ちに素直になりたかった。

 グレイルが身を起こす感覚があり、レティリエも顔をあげる。グレイルがレティリエの顎に手を添えて軽く持ち上げた。


 キスされたことに気づいたのは、唇に熱を感じてからだった。驚きと歓喜で目が熱くなり、みるみるうちに視界がぼやけ始める。もっと彼を感じたくて、グレイルの首に手を回すと、ぐっと体を持ち上げて唇を押し付けた。

 柔らかくて甘い感触と共に、彼を愛しいと思う気持ちが体中を満たす。閉じた目から涙が一筋流れ落ちた。


「……レティリエ、俺と一緒になってくれるか?」


 唇を離し、身を起こしたグレイルが耳元で囁く。レティリエの耳がピクリと動き、瞳が震える。


 ああ……ずっとずっと聞きたかった言葉だ。


 その優しい声色にまたもや涙が出そうになる。でも、レティリエは返事ができないでいた。黙ったままうつ向くレティリエを、グレイルが悲しげな瞳で見つめる。どうしたらいいかわからない、そう答えようとした時だった。


「……無事に生き延びたようだな」


 厳かな声がして振り返ると、そこには村長が立っていた。周りには大勢の狼達もいる。

 レティリエが慌てて離れようとするが、グレイルが腕にぐっと力をこめて引き戻した。


「長……どうしてここに?」


 震える声で尋ねると、後ろからローウェンが進み出てきた。


「あの後、すぐに増援を呼んだんだ。クルスとレベッカに他の狼を見ていてもらっている間にな。動けるものは全員来てもらった」


 ローウェンはそう言うと、レティリエを見て微笑んだ。


「命を懸けて戦ってくれた仲間を、俺達が見捨てるわけがないだろう?」


 見ると、そこには村のほとんど全ての狼がいた。レティリエとグレイルを助けるために、村中総出で駆けつけてくれたのだ。怪我を負っている者は数人いたが、数で制圧した為に死人は出ていないようだった。

 村長がつと歩みより、グレイルがレティリエをぐっと抱き締めた。


「長、俺は彼女と一緒になります……例えあなたに認められなくても」


 グレイルの言葉を聞くと、長はふっと口元を緩めた。


「いや、私はお前達を認める。命をかけて仲間を守りぬいたレティリエは、まごうことなき狼の一員だ……幸せになりなさい」


 村長の言葉に、レティリエは歓喜で胸が震えるのを感じた。目が熱くなり、思わず涙がこぼれ落ちる。仲間の狼達も、皆温かな瞳で二人を見ていた。


 レティリエが、生まれてはじめて狼として認められた瞬間だった。


「……まだ体が辛そうだな。もう少しここにいると良い。我々は先に村に帰還しよう」


 長がくるりと踵を返し、他の狼達もそれに連なる。狼達が闇の中に消えていき、そこには二人だけが残った。




 そっと視線を上に向けると、雄々しく力強い金色の瞳が視界に映る。どちらからともなく体を寄せ合い、唇を重ねた。

 甘くて、柔らかくて、とても優しいキスだった。

 ゆっくりと唇を離した瞬間に吐息が漏れる。グレイルは優しい目でレティリエを見つめていた。


「もう一度言う。俺と一緒になってくれ、レティリエ」

「私……あなたのこと、本当に好きになっていいの?」


 ずっと諦めなきゃいけないと思っていた恋。それでも諦められなかった恋。でも、これからは堂々と愛を伝えられるのだ。

 レティリエの言葉に、グレイルは笑って頷いた。抱き合ったまま、何度も、何度も、口づけを交わす。


 宵闇に厳かに佇む満月が、二人を静かに祝福していた。

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