第52話 死闘の果てに
その時、開け放たれた扉から黒い影が飛び込んでくるのが見えた。と同時に、レティリエに覆い被さっていた男達が後ろへ吹っ飛ぶ。レティリエを庇うように目の前に立つ黒い狼は……グレイルだ。
グレイルは四つ足で地面を蹴ると、使用人の男達に次々と飛びかかって腕や肩に噛みついた。複数人いるとはいえ、男達はただの使用人にしかすぎない。もんどりうちながら部屋を飛び出していく者や、その場に倒れてうめく者が増えていき、あっという間に男達を追い払った。
そのまま目をぎらつかせながらマダムに向かって走り始める。ギャスパーがマダムを庇うように前に進み出てきて闘う姿勢をとった。速度を殺さずに後ろ足で跳躍し、空中で人の姿になると、ギャスパーを拳で力一杯殴り付けた。ギャスパーが吹っ飛び、床に叩きつけられる。
グレイルは床に転がるギャスパーの胸ぐらを掴むと、ぐっと引き寄せて鋭い眼光で睨み付けた。
「お前についてはこの姿で殴らないと気がすまない。覚悟しろ」
レティリエを傷つけたことについては、狼としてではなく、男として決着をつけるつもりだった。だが、ギャスパーは臆する様子をおくびにも出さず、血痰をペッと吐き出すとあろうことか口元に笑みを称えた。
「ふん、所詮狼も犬畜生と同じだな。たった一人で死地に向かうとは愚かにも程がある」
「今の状況をわかって言ってるのか? もうここにはお前しかいないだろう!!」
「私がこの顛末を想定していなかったとでも? 今まさに増援を呼んでいる所だ」
ギャスパーが不敵に笑う。と同時に、激しい足音と怒声が部屋に飛び込んできた。
扉を開けてぞくぞくと入ってきたのは、先程の使用人の男達とは毛色が違う、屈強な男達だ。武器は持っていないものの、鋼の肉体を持つ男達は、拳を握りながらポキポキと骨を鳴らした。
「……っこいつらは……!」
「私の手飼の者達だ。普段は街をうろつくただのゴロツキだが、私が呼べばすぐにやってくる優秀な部下でもある。それに、武具の調達ももう間もなく終わるだろう。人間様の発明した武器に、素手でどこまで立ち向かえるか見物だな」
ギャスパーの言葉に、グレイルはギリリと歯を食い縛りながらギャスパーを突き飛ばす。そのまま狼の姿になると、後方に跳躍して男達から距離をとった。
男達の数は二十人程だ。だが、武器を調達してくる者も含めれば、その数はまだまだ増えるだろう。対してこちらは一人だ。レティリエを守って闘うには無理がある。いや、全力で立ち向かっても勝てるかどうかすら怪しい。
グレイルはぐっと歯を食い縛ると、わずかに振り返ってレティリエを視界にいれた。
「レティリエ、俺と一緒に死んでくれるか」
グレイルの言葉に、後方で床に倒れていたレティリエがよろよろと身を起こす。
レティリエには今の言葉の意味がわかっていた。もしこの場で俺が戦いに負けて死んだら、お前もこの場で舌を噛みきって死んでくれと言っているのだ。
ふらつく頭を押さえながら、力強く頷く。グレイルと一緒なら、きっと地獄の果てでも怖くない。どこまでも一緒についていくつもりだ。
グレイルはふっと息を吐くと、男達の中に飛び込んでいった。先程の使用人達とは違い、喧嘩慣れしているだけあって狼の鋭い爪と牙に臆することなく果敢に挑んでくる。男達の拳を交わしながら、鎧のような肩に思い切り牙を立てる。
「いってぇ!!!!」
肩を貫く鋭い痛みに男が吠えるが、それでも退く気配は全くない。むしろ狼の攻撃を受けたことで逆に怒りに火がついたようだ。出血した肩を押さえながらもう一方の腕で殴りかかってきた。姿勢を低くして交わすも、背後からまた別の拳が襲ってくる。後ろを向く前に野生の勘で体を傾けると、もといた空間に拳が突き刺さるのが見えた。
グレイルも怯むことなく男達に攻撃をしていくが、やはり数が多すぎる。攻撃を加えても加えても男達の数は一向に減る気配がない。いや、逆にどんどん増えていた。開け放たれた扉からまた数人の男が入ってきたのが見えた。
グレイルの体にも疲労の色が濃く出始めた。呼吸が荒くなり、体が思うように反応できない。グレイルの目の端にチラリと男の影が映る。続く攻撃を交わそうと身をよじるが、体がずっしりと重たく、反応が僅かに遅れた。
しまった、と思う瞬間には体が空中に投げ出され、勢いよく地面に叩きつけられた。
「グレイル!!」
レティリエの悲鳴が響き渡る。体勢を整える間もなく、男が数人、グレイルにのし掛かってきた。四肢を押さえつけられ、蹴りと殴打の嵐を浴びせられる。誰かの蹴りが腹に入り、グレイルは呻いた。奇しくもそこは以前に人間に刺された場所だった。傷は完全に塞がっているから痛みはない。だが、またお前は人間に負けるのかと嘲笑われているようだった。
鎧のような筋肉に覆われた屈強な男が進み出てきてグレイルの首に丸太のような腕をまわす。どうやら首の骨を折る気らしい。グレイルは最期の力を振り絞って腕の拘束を振り払うと、男の腕に爪を立てた。
「いってぇなこの畜生め!」
キレた男が腕に力をこめる。爪をたてて引き剥がそうとするが、腕はどんどんと食い込んでいき、首の骨がミシリと嫌な音を立てた。
(くそっここまでか……)
レティリエの顔が脳裏に浮かぶ。首の向きを変えられない為に、最期に彼女の顔を見ることができないことが悔やまれる。
(レティリエ、すまない……)
死を覚悟して目を瞑ったその時だった。
どこからか狼の遠吠えが聞こえた。
と同時に、爪で地面を駈るような騒音が聞こえたかと思うと、大勢の狼が一斉に部屋に流れ込んできた。二十匹……三十匹……四十匹……とその数はどんどん増え続け、部屋はあっという間に狼で埋め尽くされた。
隙をつかれて怯んだ男達に、二匹の狼が飛びかかる。ローウェンとクルスだ。二人はグレイルを押さえ付ける男達の腕や足に容赦なく噛みつき、瞬く間に追い払った。
「……っローウェン! クルスも……なぜここに?」
「話は後だ! 早くレティを連れて行け!!!」
ローウェンが吠える。周囲では、人間と狼の戦闘が始まっていた。狼の尻尾を掴んで引きずり倒す人間がいれば、人間の腕を骨ごと噛み砕く狼もいる。もはやこれは狼と人間の、種の誇りをかけた戦争だった。
一目散にレティリエに駆け寄り、名前を呼ぶ。だが、レティリエは目を瞑ったまま床に倒れていて返事がない。無事を確認するのはここを出てからだ。グレイルはレティリエを背にのせると、部屋の扉に向かって駆け出した。
「誰か! 狼が逃げるわ! 誰かとめなさい! 誰かーーーー!!」
マダムの悲鳴が聞こえる。ギャスパーが扉の前で、厨房から持ってきたと思われる包丁を縦に構えた。
「邪魔だ! どけ!!!」
ギャスパーに飛び付いて肩に思い切り牙を突き立てる。耳をつんざくような絶叫を後ろに、グレイルは開け放たれた扉から廊下に飛び出していった。
使用人用の通路を抜け、屋敷の門をくぐると同時に脇目もふらずに走り続ける。森の中に入り、少し開けた場所まで走り抜くと、グレイルは歩みをとめた。
満月に照らされて、柔らかな草が銀色に染まっている。まるで銀色の絨毯がしかれているみたいだ。グレイルはその上にそっとレティリエをおろした。
「レティリエ、もう大丈夫だ」
人の姿に戻り、耳元でささやくが、レティリエはピクリとも動かなかった。閉じられた目を彩るまつげが青白い肌に影をおとし、その怪しげな美しさはまるで人形の様だった。
「レティリエ……?」
血相を変えて胸に耳をあてると、微かな心音が耳を打つ。まだ生きていることに安堵しながらも、その音が徐々に弱くなっていくことに気付いた。ドレスの胸元から嗅ぎ慣れた忌々しい薬の香りが微かに漂う。香で炊いた匂いだけでも狼を加害するあの薬を原液で飲まされたのだ。恐怖がグレイルの背を貫く。
彼女は少しずつ、けれども確実に死出の道を歩み始めていた。
「レティリエ……嘘だろ……」
吐き出す自分の声が震えているのがわかる。レティリエの背に腕をいれ、そっとその身を起こすと、意識を手放した両腕がだらんと空を切った。
レティリエの身をかきいだく。彼女の体は驚くほど軽かった。目頭が熱くなり、思わず彼女の首もとに顔を寄せる。と同時にゴリッという固い感触が自分の胸元でしたことに気づく。慌てて身を起こすと、首からさげた石の薬筒が目に入った。ドワーフの村で渡された万能薬だ。
グレイルは間髪いれずに封を噛みきり、中の薬を口に含んだ。左腕にレティリエを抱きながら、右手でそっと彼女の顎を持ち上げる。そしてそのまま唇を重ねた。レティリエが一瞬苦しそうに眉根を寄せたが、やがてコクッという微かな嚥下の音がした。
万能薬といえども、万物には効くわけではない、そうドワーフの医師は言っていた。彼女に効くかどうかは五分五分だ。だが、自分にはもうこれしか手立てがない。
親指でそっとレティリエの口を拭う。自分がこんなに彼女を恋しいと思うようになるなんて、あの時の自分は知っていただろうか。
ありし日のレティリエの姿が脳裏に甦る。幼い頃から心ないことを言われ続け、傷ついてばかりの人生だったはずだ。それでも彼女は懸命に、ひたむきに生きてきた。それなのに、こんな終わり方はあんまりだ。
それに、自分もあの時の返事を彼女に伝えられていない。
ふと頬に熱を感じ、ハッとする。いつの間にかボロボロ泣いていた。
熱い涙があふれでて、しとどに頬を濡らしている。グレイルの涙がレティリエの目尻に落ち、そのままスッと頬をなぞった。まるで彼女も泣いているかのようだった。
「レティリエ……頼む……逝かないでくれ……」
嗚咽と共にかすれ声で呟く。自分の心は恐怖と悲しみでぐちゃぐちゃだった。
グレイルは慟哭しながら、レティリエの体をしっかりと抱き締めた。
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