第47話 囚われの狼達

 レティリエが逃げ出す為の準備をしている一方、狼達は連日の様に焚かれる香の匂いに耐えていた。正直に言って、媚薬的な効果はまったくなく、頭痛や吐き気を催したりする程度の効果しかない。

 だが、マダムの執念は狼達を追い詰めていく。

 香の成分に、狼の神経を刺激するものがあったのか、とうとう薬の効果が現れた者も出てきた。


「お前さ、普通だったら録な男に相手にしてもらえないだろ? 俺が相手してやるよ。大丈夫、乱暴はしないからさ」

「や、やめてよ……こんな所で……」


 一人の雄狼が雌狼に迫る。震える雌狼に覆い被さる雄狼の腕を掴み、グレイルがベリッと引き剥がした。


「おい、こんな薬に負けるなよ。もっと気持ちを強く持て」

「あっ……す、すまないグレイル。でも、もう俺は限界なんだよ……頭がフワフワして、ボーッと熱っぽくなって、普段は気にもならないような女も可愛く見えてくるんだ……」

「だからこそ我慢のしどきだ。一人でも堕ちれば、薬には効果があるとみて、あの女はさらに効果の高い薬を造るぞ」

「あ、ああ……わかった……気を付けるよ……」


 雄狼はよろよろとその場を離れた。グレイルはため息をついて檻の中を見回す。

 至るところでソワソワする狼が増えたようだ。クルスはナタリアに迫る雄狼を威嚇しているし、レベッカは複数の雄に迫られる度に頬にビンタをかまして追い払っている。今しがた引き離した雄狼も、まだ理性を保ててはいるものの、いつ暴走するかはわからない。正気を失いかけている狼はグレイルとローウェンでなんとか諌めているものの、その数はどんどん増えていく。

 マダムの思惑に屈したくないという気概だけで保っていた狼達の精神力は、既に限界を迎えていた。


「ねぇ、グレイル。あなたもそんな不毛なことはやめちゃいなさいよ」


 背後から甘ったるい声が聞こえ、振り返ると一人の雌狼がいた。雌狼は妖艶に微笑むと、グレイルの腕に絡み付いてきた。


「私ね、前からあなたのこといい男だと思ってたのよね。私なんかどう? 別に悪いことをするわけじゃないじゃない」


 うっとりと甘い視線をよこす雌狼を苦々しげに見る。ベタベタと自分の体を触ってくる彼女の手が鬱陶しいことこの上ない。


「ちょっと! あんたにグレイルは釣り合わないわよ! 離れなさい!」


 グレイルに甘える雌狼に気づいたレベッカがやってきて雌狼を追い払う。雌狼はレベッカを見て一瞬気まずそうな顔をしたものの、すぐに苛立ちの表情を浮かべた。


「まだ冬の祭りも終わってないのにもう妻気取り? まるで自分が選ばれて当然だと思ってるのね。ちょっと傲慢なんじゃない?」

「はっ! あんたよりは私の方が間違いなくイイ女だとは思ってるわ。それに、どのみちあんたの出る幕はないわよ!」

「なんですって? あんた本当にムカつくわね! それにどのみちってどういう意味よ!」

「あんたは、レティリエと比べても遥かに劣るから引っ込んでろって言ってんのよ!!」


 レティリエ、と聞いて雌狼のこめかみにピキッと青筋が立った。


「はあ? 私があんな女に劣るわけないじゃない! あんなやつ、狼ですらないわよ!」


 レティリエより下と言われたのが相当気に触ったようだ。雌狼は怒りに身を任せながらまくしたてた後、バカにしたようにふんと鼻を鳴らしてグレイルにしなだれかかった。


「そう言えばあの子、あなたのことが好きなんだってね。あの場であなたを選ぶなんて厚かましいにも程があるわ。でも結局あの子に手を出さなかったんでしょう?」


 クスクスと笑いながら雌狼がグレイルの鎖骨を指でつつとなぞる。


「皆の前で告白してまで指名したのに、何もしてもらえなかったなんて可哀想。私なら恥ずかしくて死んじゃうかも」

「お前、少し黙れ」


 自分でも驚く程低い声が出た。雌狼の腕を掴み、グイと引き離すと、彼女の顔を鋭く睨み付ける。


「俺はこんな薬にも耐えられない程精神の弱い女は嫌いだ」

「はあ?! なっなによ! もう知らない!」


 雌狼は吐き捨てると、グレイルの腕を振りほどき、さっさと向こうの方へ行ってしまった。


「はぁ……もう、あんたもあんな女の相手なんかしなくていいわよ。相手をしてもつけ入れられるだけだわ」


 腰に手をあててため息をつくと、レベッカもプイとそっぽを向いてどこかへ行ってしまった。あまりにもあっさりとした退場にグレイルは目を丸くする。

 今のはまるで自分の為ではなく、レティリエの為にとった行動のようではないか。あのプライドの高いレベッカがレティリエの為にそんなことをするのだろうか……だが、去る瞬間に心なしか彼女の顔が赤くなっているのをグレイルはハッキリと見た。


「あーあ、さっきの女、お前のことわかってねーな」


 いつの間にかやってきたローウェンが苦笑いしながらグレイルの肩に手を置いた。グレイルは無言でそれを享受する。胸の中にはまだどす黒い怒りが渦巻いていた。あんなに仲間の為に身を粉にして戦っているのに、なぜレティリエはこんな言葉を投げつけられなければいけないのか。

 檻の前でうつむいている彼女の姿が浮かんで消えた。レティリエがマダムの側につくと言って仲間から罵られた時、彼女の目が一瞬泣きそうに潤んだのをグレイルは見逃さなかった。唇がふるっと震え、手を固く握って悲しみを堪えていた時の心中を思うと、胸が苦しくなる。レティリエは、今もたった一人で孤独に戦っているのだ。


「……なんでいつも辛い思いをするのがあいつなんだろうな」


 立場がないなりに一生懸命生きているのに、狼の価値観はこれでもかと彼女を傷つけていく。心の痛みを吐き出すように呟くと、ローウェンが黙ってグレイルの肩から手を離した。


「レティリエが狼になれなくて力を持たないから……って前の俺は言ってただろうな。でも、俺は彼女のことを間違った目で見ていたよ」


 ローウェンはいつになく神妙な顔をしていた。視線を床に落としたまま、ポツポツと言葉を紡ぐ。


「お前には申し訳ないが、レティが俺達を突き放した時、あれが彼女の本心なのかと思ってしまったんだ。彼女が俺達を助ける理由なんて無いんじゃないかって。でもお前はそうじゃないって思ってる。お前の言う通り、あれが敵を欺く為の演技だとしたら……彼女は相当肝が据わってるよ。お前が惚れるのもわかるさ」


 グレイルは驚きを伴った目でローウェンを見た。今まで彼がレティリエを好意的に見ていたのは、自分の幼馴染みだからということに過ぎなかった。彼がレティリエを認める発言をしたのはこれが初めてだ。

 グレイルの視線に気づいたローウェンが、ふっと笑ってグレイルの肩に手をまわす。


「お前は昔から側にいたから、あの子の潜在的な強さを感じ取っていたんだな……。うん、俺はお前らを応援するよ。もしあの子が今まで辛い人生を送ってきたって言うんならさ、これからはお前が幸せにしてやれ」

「ローウェン……」


 ローウェンの言葉にグレイルの心が温かくなる。レティリエにもうあんな顔はさせたくなかった。彼女には、自分の隣で笑っていてほしい。


「……ああ、そうだな。必ずここから連れ帰る」


 グレイルの言葉にローウェンが満足そうに頷き、ぐるりと周囲を見回した。


「そうするには、ここをなんとかしてでなきゃいけないわけだが……」

「レティリエが必ず突破口を開いてくれる。俺達の仕事はその後だ」


 グレイルが力強く言う。レティリエが自分の身を犠牲にしてまで尽力してくれているのだ。今は彼女を信じて待つしかない。血路さえ開ければ、自分は彼女を連れてここから逃げ出すつもりだ。

 背後で狼達の怒声が聞こえた。雌をめぐって雄同士で争っているのだろう。本日何度目かわからない揉め事に、ローウェンがため息をついた。


「……それまではこいつらの仲裁に徹するしかないな」

「ああ。あの女に一度でも屈したらレティリエの努力が水の泡になる。そんなことは絶対にさせない」


 グレイルが決意を灯しながら背後を見やる。雄同士が取っ組み合いの喧嘩をしている姿が目に入った。

 とうとう仲間割れのようなことも起き始めている。少しずつ、だが確実に狼達の結束が崩壊しているのをひしひしと感じた。


 狼達に残された時間は、もう無い。



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