第48話 想定外の出来事
不安や焦りを感じている時は、待たされる時間というものはとてつもなく長く感じる。レティリエは屋敷での毎日を、何かに追いたてられるような気持ちで過ごしていた。
だが、その日々もやっと終わりを告げる。
「コーマック様からの贈り物でございます」
朝の仕度を終え、手慰みに刺繍をやっていると、豪華な装丁の箱を持ってメイドが部屋に入ってきた。刺繍を脇に置いて弾けるように立ち上がると、メイドのもとへ駆け寄る。
箱を受け取り、メイドが退室したのを見届けた瞬間に蓋を開けた。
華やかな香りと共に現れたのは、箱の中に行儀よく収められた色とりどりの小瓶だ。桃色、黄色、水色…形も様々な綺麗な小瓶が六つ程入っている。
試しに桃色の瓶を手にとって蓋を開けてみると、上品で甘い薔薇の香りがふわんと漂った。どうやらこの小瓶達は香水らしい。レティリエは薔薇の香水を机に置くと、次々に瓶の中身を確かめていった。
ジャスミン、ベルガモット、シトラス…瓶を開けていく度にそれぞれ違った香りが花開く。
だが、最後に手に取った薄水色の瓶はラベルが無かった。ばくばくする心臓の鼓動を感じながら蓋を開ける。瓶からは何の匂いも感じられなかった。
これだ。
わざわざ香水の瓶の中に紛れ込ませて贈ってくるとは、コーマックも本気でレティリエの策に乗ろうとしている。きっと睡眠薬も高価で性能が良いものなのだろう。レティリエは瓶を箱に納めると、そっと部屋を出ていった。
向かった先は地下通路だった。疑いの目を持たれないように、地下の檻へはなるべく近付かないようにしていたのだが、睡眠薬が手に入ったからにはグレイルにも作戦を話しておいた方が良い。
檻がある部屋の扉を開け、音を立てないように中に入る。
部屋の中に充満している香の匂いが鼻をつき、レティリエは顔をしかめた。以前入った時は狼達のうなり声で埋め尽くされていたこの部屋は、今は不気味な程静まり返っている。いぶかしみながら檻へ近づくと、ぐったりと床に横たわる狼達の姿が目に入った。
「皆……! 一体どうしたの?!」
驚きと共に声をあげると、檻の手前に座っていた黒狼が気だるそうに頭をあげた。グレイルだ。
「グレイル! これは……この匂いのせいなの?」
「レティリエか……。ああ、皆薬にやられて少しずつ不調をきたしている。未だ媚薬としての効果は薄いが、その前に体がやられそうだ」
周囲を見回すと、ぼんやりとしながらも意識を保っている狼もいたが、倒れたまま微動だにしない狼もいた。グレイルも気丈に振る舞ってはいるものの、顔は青ざめており息は荒い。もはや時間は無さそうだった。
(グレイル……皆もとても辛そう……)
レティリエは檻の中に両手を入れると、労るようにグレイルの頬をそっと包み込んだ。グレイルが頬を擦り寄せる様にしてレティリエの手にもたれ掛かる。ほんの一瞬だけ彼の表情が和らいだ様な気がした。
もうすぐここから皆を出せるわ。レティリエがそう伝えようとした時だった。
「おい、何をしゃべってるんだ」
背後から声がし、心臓がはねあがる。慌てて手を離しながら振り向くと、一人の男が立っていた。使用人のお仕着せを纏っているその男にレティリエは見覚えがあった。以前、マダム達の前でグレイルと対面した時に、マダムから鍵束を渡されて開けようとしていた男だ。
「そんな……なぜここに?」
震える声で呟く。檻の中へ意識が集中していた為に、人間の存在に気付かなかったことに今更ながら冷や汗をかく。不用意に言葉を発する前で良かったと震えながら思った。
だが、使用人は特に不審に思った様子はなく、腕組みをしながらレティリエをじろじろと見た。
「あ? 奥様から聞いていないのか? 最近狼達の様子が変わってきたから、常に監視を置くことにしたのさ。奥様の目的は美しい狼の繁殖だ。どの狼とどの狼が交尾をしたのか正確に記録しておかなければならないんだとよ」
使用人が面倒くさそうに言う。そのあけすけな物言いにレティリエは眉をひそめた。あまり思慮が深くなさそうな男だ。
使用人はレティリエとグレイルを面白そうな目で見るとニッと口の端を持ち上げた。
「そういやお前、こいつのことが好きだったんだっけな。なんだ、好いた男に会いに来たのか? そりゃあ健気なことだな」
使用人が目を細めながら薄く笑う。自分達の関係性を不審がっているというよりかは、完全に痴情のもつれを楽しんでいるだけのようだ。だが、油断は禁物だ。今ここで不用意に疑われるようなことをしたくはない。レティリエはつんとそっぽを向くと、くるりと踵を返した。
「勘違いしないで。私のことをフッた男を笑いに来ただけよ」
長い髪を後ろに流して余裕の態度をとる。平静を装ってはいるものの、内心では焦りと苛立ちが渦巻いていた。この男がいることでまた自分の口は塞がれてしまったのだ。思うようにグレイルと言葉を交わせないこの状況にもどかしさを覚える。
せめて脱出の準備が整ったことだけでも伝えられたらいいのに…悔し紛れに使用人を一睨みすると、何を勘違いしたのか、使用人が馴れ馴れしくレティリエの腰に手を回した。
「お前、狼の雄に相手してもらえないんだってなぁ。そんなんじゃ一人寝が寂しくて仕方ないだろ? 俺が相手してやろうか」
使用人がレティリエの体を向かい合わせにすると、クイと顎を持ち上げる。込み上げてくる嫌悪感で顔を横にそらすと、檻の中のグレイルと目があった。
グレイルは憤怒の表情で使用人を睨み付けていた。だが、レティリエの誘惑に屈しなかった建前がある以上、静止の声をあげることもできない。グレイルがギリッと歯噛みする音が聞こえた。あらんかぎりの怒りを集めて威嚇の姿勢をとっているが、息は荒く、肩で大きく息をしていた。
そうだ、今はこんな男を相手にしている場合ではない。一刻も早くグレイル達をここから逃がさなければ。
レティリエは使用人の胸に両手を置き、グッと力をこめて距離をとった。
「気安く私に触らないでちょうだい。私は三億の女なのよ。かのメイドの一件をお忘れじゃないでしょうね」
使用人の腕を振りほどいて高慢に言い放つ。あのメイドには可哀想なことをしたが、彼女のおかげでレティリエに無闇に手を出す者がいないのも事実だ。
使用人はチッと舌打ちをして苛立ちをあらわにする。だが、解雇の恐怖にはやはり勝てないのか、彼がそれ以上触れてくることはなかった。
自室に戻ると、レティリエは策を練り直し始めた。日に二、三回、報告の為に使用人の誰かが檻の様子を見ているのは知っていたが、常時監視されるようになったのは想定外だ。交代の時間を調べてその隙をつくことも考えたが、それには圧倒的に時間が足りない。狼達の体力は刻一刻と奪われていく。今すぐにでも彼らを解放する必要があった。
(何か……あの使用人を確実に足止めさせるものが必要だわ……)
口元に拳をあてて必死に考える。頭の中では何度も何度も脱出までの手順がかけめぐっていた。頭が痛くなる程考え抜き…やがてひとつの結論にたどり着いた。口から手を離し、ほうと息を吐く。
使用人の目を欺き、皆を逃がすにはこれしか方法がない。だが、それは同時に自分がグレイルと運命を別つことを意味していた。
レティリエは震える手で、太ももからペンダントを外すと、手の上でじっと眺めた。銀板にはめられた石が朝陽に照らされて仄かに煌めく。レティリエは目を伏せ、ペンダントを両手で包み込むと、そっと唇をあてた。
そのまま階下に下り、庭園へ向かう。可憐に咲く色鮮やかな花がレティリエを出迎えてくれた。レティリエは地面にふわりと座ると、一本一本優しく摘み取っていく。
両手に抱える程の量を摘み取ると、部屋に持ち帰って下処理をし始めた。この美しい姿を夜まで保たせなければならないからだ。処理が終わると、数本ごとにまとめて丁寧に生花の花飾りを作っていった。
今日は終日パーティーも夜会も無いことに安堵する。レティリエは夕方までかかって花飾りを作りあげると、裁縫道具を持ち出して一つ一つをドレスにつけていった。
空が赤く染まり、夜の始まりを告げる。
決戦の時はすぐそこまで迫っていた。
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