第45話 危険な賭け

 檻が備え付けられている部屋は、出入り口とは別に壁際にもうひとつ、隣へ続く扉があった。元は倉庫だったこの部屋の構成をそのまま流用したのだろう。こうすれば、隣の部屋へ行く際に、万が一狼が逃げ出したとしても出入り口を施錠しておけば逃げることはできない。よく考えられた仕組みだ。

 扉を開けて中に入ると、そこは元いた部屋と同じような作りになっていた。壁に沿って取り付けられた檻、薄暗い照明。違いがあるとすれば、檻の中が空っぽであるということだけだ。おそらく、ここは生まれた子供や、病気の狼を隔離しておくなど、狼の数が増えることを想定して作られたのだろう。マダムの意志は本物だ。一瞬のミスも許されないだろう。

 空っぽの檻が開けられる。グレイルが中に入れられるのを見て、レティリエがたじろいだ。


「奥様、もしかして今ここでやれと言うのですか? これはあんまりにも……思いやりがありません」


 自分の部屋に二人きりにしてくれるのであれば、その間にグレイルと脱出の作戦を立てられたのに。これではグレイルと会話することもできない。そうではなくとも、これはあんまりにもむごたらしい仕打ちだ。

 マダムはレティリエの言葉を聞いて不思議そうに首をかしげた。


「あら、あなたは豚や牛を繁殖させる時、いちいち二人きりにさせてあげるの? 冗談でしょう。それに、目当ての子供を作るには、観察と記録の積み上げが必要だわ。あなた達のことも、しっかりと見させてもらうわね」


 マダムは微笑みながら、レティリエの背を押した。もう何を言っても聞き入れてもらうのは不可能だろう。レティリエはおそるおそる檻の中に入り、グレイルの向かい側に座って対面する。


「レティリエ、大丈夫か? 無理するな」


 こんな時でも、優しい言葉をかけてくれるグレイルに胸がツンとなる。レティリエはふるふると首を振ると、意を決してグレイルの目を見た。

 言葉は交わせないが、自分を信じてもらうしかない。

 レティリエは膝で立ち上がると、グレイルの両肩にそっと手を置いた。そのままま身を寄せ、首筋にそっとキスをする。


「レティリエ、何を……んむっ」


 グレイルが身動ぎするが、間髪いれずにその唇に自身の唇を押し当てる。まるで児戯の様なキスだ。子供の頃、森で偶然見てしまった恋人同士のキスは、とても甘くて美しかったのに。けれども、今はなりふり構ってはいられない。

 レティリエは膝で立ち上がると、グレイルの頬を両手で挟み、額にそっとキスをする。


「何も喋らないでじっとしてて」


 額から唇を離す瞬間に小声でささやく。グレイルの狼の耳がピクッと動いた。

 檻の大きさを考えても、言葉を発するのはこれが限界だろう。唇を離してグレイルを見ると、彼は金色の目を見開いて自分を見つめていた。

 グレイルは動揺している様子だった。だが、困惑しながらもレティリエの指示通り、一言も声を出さなかった。やはり、彼は自分のことを信じてくれているのだ。

 レティリエはグレイルの広い胸板に手を置いて、鎖骨のあたりにも唇を落とす。マダムに雄狼を誘惑していると思わせることができればいいのだ。ただそれだけのはずなのに、口先にしっとり吸い付くような肌の感触に、自分が待ち望んでいたことを連想させて、レティリエは身震いした。

 目を詰むってその望みを思考の外へ追いやる。

 そのまま時間をかけてゆっくりと至るところに唇を落としていった。二人をじっと見つめるマダム達の鋭い視線がヒシヒシと背中に伝わってくる。演技がバレるのでは無いかという恐怖で思わず身震いすると、グレイルが右腕をレティリエの腰にそっと回して抱き締めてくれた。その掌の温かさに勇気を取り戻す。

 身を起こしてグレイルの手をほどくと、そのまま彼の右腕を両手で持ち上げた。筋肉に覆われた腕はずっしりと重たかった。彼の右手を自分の両手で恭しく持ち上げ、手の甲にもキスをする。そのまま唇を滑らせて最後に中指の指先にも軽く音を立ててキスをすると、グレイルの指がビクッと微かに動いた。

 そっと唇を離し、グレイルを見上げると、彼は驚きと戸惑いがないまぜになった複雑な表情をしていた。だが、その目には憐れみの色もあった。きっと自分の身を心配してくれているのだろう。

 仲間達から嫌悪の目を向けられている今となっては、この優しく悲しい瞳こそレティリエの唯一の味方なのだ。

 ありがとう。心の中で呟くと、グレイルの手を離し、マダムの方に向き直った。


「奥様、どうやってもだめです。以前にも申し上げましたように、私は村での嫌われ者……選んでくれる雄はいないのです。私の力ではどうにもなりません」


 悲しげな表情を作って首を振る。かなり危険な賭けだった。自分は仲間の雄からは相手にされないと思わせる為に要所要所でその事実を仄めかせてきた。だが、グレイルに関しては、関係が深いことを知られる場面も見られている。

 もし演技だとバレていたら……先程の耳打ちが聞こえていたら……嫌な想像が胸の鼓動を痛いほどに走らせる。

 マダムはじっとレティリエを見つめていたが、ため息をついて苛立ちを顔に表した。


「狼の社会では、あなたは魅力的な女性ではないというのは本当なのね。よくわかったわ……ギャスパー!」

「はい、奥様」


 ギャスパーがつと前に進み出る。


「軽く考えていた私が甘かったわ。狼達を繁殖させるにはどうしたら良いかしら?」

「ええそうですね……猫にマタタビと言うように、狼にも何かしら気持ちの昂りを増幅させるものがあるかと。それを用いて薬を造るしかありません」

「わかったわ。すぐに手配して」


 マダムがてきぱきと指示をする。やはりマダムはただでは折れない。

 だが、薬を開発するまでの間、時間稼ぎはできた。そのうちに逃げ口を見つけておかねば。


 薬を造るのが早いか、逃げるのが早いか。


 これは狼と人間の種族をかけた戦いなのだ。レティリエは、大声で命令するマダムの後ろ姿を鋭く睨み付けた。

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