第39話 レティリエの本心
グレイルは、目の前で泣くレティリエの姿を静かに見ていた。自分の右手に彼女の熱い涙がとめどなく伝わる。
彼女が自分の為だけに流す涙を久しぶりに見た。狼の村を去る時ですら、マザーや自分を心配させないように泣くのを堪えた彼女が、肩を震わせて泣いている。よほどここで辛い経験をしたに違いない。
だが、一通り泣いて少しスッキリしたのか、レティリエの様子が落ち着いてきた。まだしゃくりあげているものの、涙は少しずつ止まっていく。
話をするにしても、もう少しいつもの調子を取り戻してやらねば。そう思い、グレイルは左手で自分の右腕をつつく。
「レティリエ、そろそろ離してくれないか。さっきからアタってるぞ」
「え……? あっ……きゃあ!」
レティリエがその意味に気づき、慌てて両手を離す。右手に感じていた柔らかい感触がゆっくりと離れていくのを感じた。
「あっ……」
露になった胸元に気付いたのか、レティリエが両手を胸の前で組んで身を縮こませた。
随分と肌の露出が多い服を着せられているのは主人の意向だろうか。確かに華やかな装いはレティリエに合ってはいるものの、それが他の男共の目を悦ばせる為だと思うと不快な気持ちになる。
そもそも、彼女が美しいのは、その高潔さと芯の強さから生じるものだ。こんなもので彼女の魅力を引き出せるわけがない。
グレイルは両手を柵の中に入れ、レティリエの後ろ髪に触れた。そのままそっと前に持ってきて胸元を隠してやると、レティリエは少し恥ずかしそうにこちらを見上げた。
柵から手を引き抜き、持ってきたリンドウを手に取ると、もう一度手を伸ばして彼女の髪にかざってやる。月光に照らされた草原のような銀色に、リンドウの儚い青色が咲いた。
リンドウだ。
グレイルが手に持っている花を見た瞬間、レティリエは「自分」が戻ってくるのを感じた。
狼の村にいた時に、よく目にした故郷の花。群生せずに野山にポツンと咲くリンドウを見て、狼の群れに入れない自分を重ねたこともあった。おそらく、グレイルはたまたま見つけたリンドウを持ってきてくれたのだろう。だが、たった一本のリンドウの花は、「マダムの人形」から「狼のレティリエ」に戻してくれたのだ。
「レティ、ここでの生活は辛いか?」
レティリエが落ち着いたのを見て取り、グレイルが問う。
レティリエは返答の変わりにゆっくりと頷いた。事実、狼の村にいた時よりもここの生活は自分を苦しめる。
「そうか、じゃあ俺と一緒に来てくれるか」
その問いに、レティリエはすぐに返事ができなかった。勿論本音としては、今すぐここを出てグレイルと一緒に行きたい。けれども、村を去った自分には帰る場所がない。
レティリエと一緒になるということは、グレイルに村を捨てさせることになるのだ。
「でも……それだとあなたに迷惑がかかるわ……だから……」
「レティリエ」
だから行けない、と言葉を紡ごうとした瞬間、グレイルが遮る。
「周りのことや俺のことはとりあえず考えるな。お前の本音はどうなんだ」
グレイルが真剣な眼差しで見つめてくる。狼のしがらみや自分のことよりも、レティリエの気持ちを尊重してくれようとしているのだ。
「……行きたい」
思わず声に出てしまい、ハッと口をつぐむと、グレイルは満足そうに微笑んだ。
グレイルはその言葉を待っていたのだ。その一言で全ては決まった。
グレイルはその瞬間に、彼女と人生を共にすることを決めた。
「少しだけ時間をくれ。必ず迎えに来るから」
レティリエが頷くのを見てグレイルはくるりと背を向けた。その背中を見た途端、レティリエの胸中に切ない思いが込み上げる。
「待って……」
──行かないで。
口から出そうになった言葉をレティリエは慌てて飲み込んだ。引き留めた所で彼を困らすだけだ。でも、また一人ぼっちになるのは寂しかった。
目が熱くなってきて、涙がこぼれそうになるのを、両手で鉄柵を握りしめながら必死でこらえる。
グレイルがこちらに近づいてくる気配がして……突如額に柔らかいものを感じた。ハッとして、視線を上に向けると、グレイルの唇が額に触れていた。
「あっ……今……キス、したの……?」
ドキドキしながらグレイルを見つめると、彼はいたずらっぽい顔で微笑んだ。その笑みに、また心拍数があがるのを感じる。
「これきりじゃない。また来るよ、レティリエ」
そう言うと、グレイルは狼の姿になり、今度こそ闇の中へ消えていった。
レティリエは胸を高鳴らせながら、グレイルの姿が見えなくなった後も、ずっとその場を見つめ続けていた。
※※※
「テオ、ちょっと頼みたいことがあるんだ」
グレイルは朝の狩りを終えると、獣の解体作業をしている一人の狼に声をかけた。テオと呼ばれた男は作業の手を止め、振り返る。
「おお、グレイルか。どうした?」
「新しい家が必要なんだ。テオにお願いしても良いか?」
「おう、いいぜ。お前の頼みならもちろんさ」
突然のお願いにも嫌そうな顔ひとつせず、テオが快諾する。
テオは村の住居を作る者達のうちの一人だ。あまり狩りが得意でない狼は、こうやって別の形で村に貢献することが多い。彼も狩りは苦手だが、住居作りには並々ならぬ才能があった。
「そういやもうすぐ冬の祭りだからなあ。新しい所帯持ちには新しい家が必要だもんな。で、どこに作りたいんだ? どこでも好きなとこに作ってやるぞ」
テオが胸を張りながら得意気に言う。その弾みでお腹に乗った肉がたぷんと揺れた。
「場所は決まってるんだ。今から案内してもいいか?」
「そうだな。確かに口で指定されるより目で見た方が早い」
テオは頷くと、よっこらせと言いながら立ち上がった。そのままグレイルの後をついていく。だが、行き先が村とは正反対の方向であることに気づき、テオは首を傾げた。
「おいおいグレイル、村はあっちだぞ。急に帰り方がわからなくなっちまったのか?」
「いや、こっちの方向だ。もうちょっと来てくれ」
そのまま数刻ほど歩き続ける。随分と遠くまで来たな、とテオが思った瞬間、前を歩いていたグレイルが立ち止まった。
「大体この辺りだな。テオ、遠くから通うことになってすまないが、この辺りに作ってくれないか」
「は? なんでこんな村から離れた場所に作るんだ? いや、別に村の中に居を構えなきゃいけない決まりも無いけどよ……色々と不便すぎるだろ」
ぶつぶつ言いながらも、人のいいテオは地形を調べ始めた。家を建てるのに問題ないか地面をひっくり返し、大体の測量を目視で行う。
「作るの自体は問題ないけどよ、こんなに村から遠いとお前の相手が嫌がるかもしれないだろ。ええと、お前の相手はレベッカだろ。彼女に話はしてあるのか?」
「いや、俺はレベッカとは番にならない」
グレイルがきっぱりと言うと、テオは作業の手をとめてあんぐりと口を開けた。
「え? だって。お前……レベッカとじゃなかったら誰と一緒になるって言うんだよ。お前の相手は彼女くらいしかいないだろ」
「俺はレティリエと夫婦になる」
「はああああー?!」
テオが大声をあげてのけぞる。なんでよりにもよってでき損ないの子と? テオの驚愕した顔がそう物語っていた。
「レティリエって、あの狼になれなくて全然狩りができない子だろ? やめとけって! 考え直せよ!」
「テオ、悪いがもう決めたんだ」
「いやいやいや待てって……」
テオは頭を抱えた。グレイルには、かつて獲物に追突されそうになった所を救ってもらった過去がある。足手まといな自分を何度もフォローしてくれている恩に報いたいと、グレイルの力になれることなら何でも協力しようと思っていた。だが、これはさすがに友としても異を唱えざるをえない。
「俺はお前に感謝してるし、できることなら協力したい。でも、あの子と結婚したら、お前は村中から責められるんだぞ? もし彼女が生んだ子がまた狼になれないことになったらどうするんだよ。俺はお前がそんなことになるのは見たくない」
「それはよくわかってる。でも、俺はもう選択を誤りたくないんだ」
テオが捲し立てるように言うと、グレイルが静かに返した。
なおも説得しようとテオは口を開いたが、グレイルの少し寂しそうな顔を見て口をつぐんだ。代わりに大きなため息をつく。
「……お前の気持ちはわかったよ。もう俺は何も言わない」
「ありがとう、テオ。こんなことを言っておいてなんだが、俺は自分の責務を放棄するつもりはないよ。毎日の狩りはここからも行けるし、生まれた子も群れの一員として恥じない様に育てる」
「そうは言うけどよぉ……」
テオが頭をガシガシとかく。その瞬間、袖のほつれ跡が目にとまった。そう言えばあの子に服を直してもらったことがあったな……とテオは綺麗な縫い跡を見て思い出す。
ある時、不注意で袖を引っ掻けてしまい、裁縫が得意ではない自分はそのまま村の広場に持っていったことがある。広場では、大抵手が空いている女性達が数人集まって裁縫仕事や貯蔵作業をしているのだ。
レティリエはいつもそこにいた。彼女は狩りに行くことがないから当然のことなのだが、自分はそう言えば彼女を間近で見たのはあれが最初だったなとテオは思い出す。
ほつれた服を渡すと、彼女は微笑んですぐに直してくれた。その手先の器用さと作業の正確さに、同じものづくりを担うものとして感動したのを覚えている。村では疎まれている存在だが、彼女の第一印象は悪くなかった。
「確かにレティリエは良い子だよ。それに、お前の覚悟もわかった。お前らの家は俺が作ってやる」
お前の熱意に負けたよ、と言うと、グレイルは少しホッとしたような顔をして頭を下げた。
「テオ、すまない。恩に着る」
「しかし、よりにもよってお前がなぁ……あんなに大人しい子のどこがそんなにお前を魅了したんだか」
テオの言葉に、グレイルは思わず笑みをこぼした。レティリエが大人しいとは、なんとも的はずれな評価だ。確かに彼女は一見控えめだが、その胸のうちには熱いものを秘めている。
彼女の本当の魅力は、いずれ周囲の者にもわからせていくつもりだ。だが、今はまだ自分だけしか知らなくていい。
「それを教えたら、お前も彼女に惚れるかもしれないだろ?」
だから言わない、とニヤリと笑うグレイルに、テオは「惚気てんじゃねーよ」と呆れながら言い返す。だが、グレイルを見つめる彼の眼差しは優しかった。
狼の一員としてグレイルの考え方は同意できない所もある。だが、最近鬱々としていた彼が少しずつ元気を取り戻しつつあるのは、素直に喜ばしいことだと思った。事情はわからないが、今は難しいことは考えまい。
「任せろ。飛びっきり良い家を作ってやるよ」
そう言って、テオはアタリをつけた場所に、目印となる木の枝を勢いよく突き立てた。
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