第38話 マダムの脅威

 狼の遠吠えが聞こえた気がした。

 こんな町中に狼なんているのだろうか。いや、大型の犬が歩いていることはしょっちゅうあるのだし、それほど珍しいことではないだろう。

 そんなことをぼんやり考えながら、レティリエは今夜もメイドにドレスを着せられていた。今日はビロード地の青いドレスだ。深い青が銀髪に映えるとマダムは大喜びだった。

 衣装を着せ終えると、メイドがドレスに同じ色の花の飾りをひとつひとつつけてくれている。

 レティリエはメイドの姿をじっと見つめた。鼻まわりにそばかすがある、あの湯浴みを手伝ってくれたメイドだ。今日こそ友達になれるかしら? と思いながらメイドの顔をまじまじと見ると、その額にうっすらと汗をかいていることに気がついた。

 よく見ると、目の下にも濃い隈がある。他のメイド達の噂話によると、レティリエがここに来てからパーティーの回数がうんと増えたらしい。連日の催し物のせいで、メイドも疲れているようだった。

 長時間同じ体制で縫い続けていた為か、うっかり針を指に指してしまったらしい。「いたっ」と小さく悲鳴をあげてメイドが手を抱えた。


「あっ……大丈夫ですか?」


 レティリエが慌ててしゃがみ、メイドの指を見る。思い切りさしたのか、うっすらと血が滲んでいた。


「あの、私、裁縫は慣れてるんです。後は私がつけますから、あなたは休んでいてください」


 労るようにメイドの背中に手をまわす。そのまま椅子に座らせようと、背中に力をいれた瞬間、ものすごい力で腕を振り払われた。


「やめて!! 私に触らないで!!!」


 驚いてメイドを見ると、彼女は憎悪の目でレティリエを見ていた。その冷たい視線に、レティリエの心も凍りつく。


「ど、どうして……」

「下等な獣のくせに、人間より良い生活を送ってるなんて生意気なのよ!」


 メイドの怒鳴り声が部屋に響く。彼女はそのままレティリエに近づくと、その尻尾をぐいと掴んだ。


「何よこの耳! この尻尾! たかが犬のくせに私より良い物を食べて、綺麗な服を着せてもらって、ふかふかのベッドで寝かせてもらえて!! 私たちのことを馬鹿にしてるんでしょう?! 人間のくせに、私より惨めな生活してるのねって!!」

「そんなこと思っていません!」


 メイドが嫉妬に駆られた目でレティリエを睨み付けた。レティリエも必死に言い返す。こんな生活、変わってもらえるなら変わってもらいたいのに。だが、メイドのはレティリエの言葉を聞くと、ふんと鼻を鳴らして冷ややかに笑った。


「ああ、そう。じゃああなたもこちら側に来なさいな。そうね、その綺麗な容姿が奥様のお気に入りなら、あなたが傷物になれば奥様はあなたを捨てるかしら」


クスクスと笑いながら、メイドが持っていたハサミを煌めかせた。そのままレティリエの髪を手に取り、さらさらと流す。


「銀色の髪は青のドレスに映えるですって? 獣のくせに、人間と同列だと勘違いしないでほしいわ。あなたは人間じゃないんだから、こんなもの無くてもいいわよね」


 言いながらメイドが髪にハサミをあてる。恐怖におののきながら咄嗟に身を退くと、ジャキンという音と共に銀色の髪が一房切り落とされた。


「やめてください!」

「あら、抵抗するの? ほら、やっぱりあなたも自分の美しさが損なわれるのが怖いのね。口では違うと言ってるくせに、やっぱり今の自分が好きなのよ」


 今の自分が好き? 自分が自分ではいられないのに? 言い返したかったが、メイドが突如レティリエの髪を鷲掴みにし、グイとのけ反らせた為に言葉が紡げなかった。


「今度は逃がさないわ。奥様には、あなたが色気付いた為に自ら髪をいじくりまわして台無しにしてしまったと伝えておくわね。お前は獣らしく、惨めったらしい姿で生きればいのよ!」


 メイドがハサミをレティリエの髪にあてがい、力を込めようとしたその時だった。


「何をやっているの!!!」


 部屋中に大声が響き、メイドが固まる。扉の向こうには、怒りで顔を真っ赤にしたマダムが立っていた。


「お、奥様……!! いえ、これは違うんです! この子が……! この子がやれと……!」


 メイドが青ざめ、慌ててマダムに頭を下げる。だが、マダムは彼女を冷たい視線で見下ろしていた。カツカツと靴を鳴らしながら部屋に入り、床に落ちている銀色の毛束を拾い上げる。


「何てことをしてくれたの? この子はお前みたいな下等な身分の者が気安く触れていいものじゃないのよ」

「いえ! 奥様、誤解です! この子が髪を切れと私に言ってきたんです! 私はその通りに従っただけです!」


 メイドの必死の形相を見て、レティリエも良くないことになっていることを感じ取った。慌ててマダムの側にかけより、その腕にすがる。


「奥様、彼女の言う通りです! 私が切ってくれとお願いしたんです! 髪はまた伸びます。彼女を許してください!」


 必死で頼み込むも、マダムは冷ややかな目でその手を振り払った。


「お前はクビよ! 今すぐ出ていきなさい」

「奥様!! そんな!!」


 メイドが悲鳴をあげた。その瞳に絶望の色が宿る。メイドは何もかもを投げ捨ててマダムの足元にひれ伏した。


「奥様、私は年老いた母と弟妹達にご飯を食べさせてやらなければいけないのです。私は他に行くところがございません。ここを出たら家族は死んでしまいます! どうかお許しください!!」

「ならば惨めに野垂れ死ぬのね。誰か! この者を外に追い出しなさい!」

「奥様! いやあ! いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 マダムの言葉で部屋に入ってきた男達に取り押さえられ、髪を引きずられながらメイドは連れていかれた。レティリエは一連の様子を震えながら見ていることしかできなかった。

 マダムはくるりと向き直ると、レティリエの側にかがんだ。


「まぁ可哀想に、こんな髪にされてしまって。怖かったでしょう?」


 マダムが微笑みながらレティリエの髪を撫でる。まるで先程までのやり取りが無かったかのような優しい笑顔に、レティリエはおののいた。


「奥様……彼女が可哀想です……髪のことくらいで、あんな……」

「いいのよ。主人の物に手を出すメイドなんていらないわ。それよりも、その髪をどうにかしなければならないわね」


 マダムが手を叩き、別のメイドが部屋に入ってくる。マダムの指示を聞き、メイドがレティリエの髪を整え始めた。

 髪を切られたと言っても、数センチ程度のことだ。メイドが上手に切り揃えてくれたおかげで、傍目にはわからない程になった。マダムは満足そうに笑っていたが、レティリエには理解ができなかった。少し整えるだけで済むくらいの髪と、先程のメイドの命は同列なのか。

 レティリエは暗い顔でマダムの顔を見つめた。



 その後の夜会は記憶が無い。

 方々の体で部屋に戻り、レティリエは震える手で扉を閉めた。あの哀れなメイドの絶望の表情が何度も脳裏をよぎる。最後の絶叫と、自分を見る憎しみの目。自分はいつからあんなに嫌われていたのだろうか。自分自身は、彼女と友達になりたいとさえ思っていたのに。

 狼の村にいた時ですら向けられたことのない、憎悪の感情。レティリエはその激しい負の感情に少なからずショックを受けていた。

 自分の存在が誰かに憎しみの感情を抱かせ、不幸にしているなんて思ってもみなかった。確かにレティリエ自身が手を出したわけではないとは言え、自分がここに来なければ、あのメイドは今頃屋敷のベッドで眠ることができたはずなのだ。

 家族を養わなければいけないと言っていた彼女の言葉が脳裏にこだまする。彼女自身と、彼女の家族のことを思うと胸が張り裂けそうだった。

 自分の感情を殺し、マダムの傀儡として必死で生きてきたが、このメイドの一件はレティリエの心にとどめをさした。


(もうこんな生活耐えられない……)


 レティリエはドレスを着たまま、窓から暗い庭に飛び出した。そのまま一目散にヤマモモの木へと向かう。月光の下で照らされる故郷の木を見上げ、そっと幹に触れた。


(ねぇ、教えて。私は何の為に存在しているの?)


 心の中でヤマモモの木に問いかける。マダムが愛しているのは、人形としての自分であって、美しい外見と、主人の命に逆らわない従順さがあれば中身はどうだっていいのだ。使用人達からは獣と蔑まれ、本当の自分を見てくれる人はここには誰もいない。

 狼の世界も、人間の世界も、ありのままのレティリエを必要としてはくれなかった。


(ああ……心が死んでしまいそう)


 ヤマモモの木に額をつけてポロポロと涙をこぼす。本来の自分を殺したまま、これからどうやって生きていけば良いかわからなかった。



 悲しみで胸が押し潰されそうになった時、優しい匂いがフワッと鼻をくすぐった。この匂いは……思わず顔をあげると、柵の外にぼんやりと黒い影が立っているのが見えた。涙でぼやけた視界がハッキリするにつれ、その影は愛しい姿へと形を変えていく。


「グレイル……?」


 半ば信じられない気持ちで呟き、慌てて柵にかけよる。変わらない金色の瞳が優しく自分を見つめていた。


「レティリエ、会いたかったよ」


 ああ。私が一番欲しかった言葉だわ。

 レティリエは震える瞳でグレイルを見つめた。混じりけのない、純粋に自分を求めてくれる言葉が心を癒していく。

 ポロポロと涙を流しながら見上げると、グレイルが柵の向こう側から手を入れ、涙を優しく拭ってくれた。そのまま彼の手を両手でしっかりと握りしめ、胸元に引き寄せて慟哭する。

 この温もりを離したくなかった。

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